備え あれ ば 患い なし。 備えあれば患いなし 天上山

「備えあれば憂いなし」とは?意味や使い方を解説!

備え あれ ば 患い なし

備えあれば患いなし そなえあればうれいなし : 普段から準備をしておけば、いざという時に心配することはないということ 「備えあれば患いなし」の意味を詳しく 「備えあれば患いなし」とは、 普段から準備をしておけば、いざという時に心配することはないということを意味することわざです。 「患い」は、「憂い」と書く場合もあります。 このことわざは、 主に災害対策に関連して使われる言葉です。 そして、この「備え」は、災害が起きたときのための準備を指す場合が多いです。 「備えあれば憂いなし」は、災害に対して、普段からきちんと備えていれば、いざ起こってしまったときに比較的落ち着いて行動することができる、という経験にもとづく言葉ともいうことができます。 実際に、阪神・淡路大震災や東日本大震災の経験を元に、様々な経験が活かされています。 例えば、阪神・淡路大震災以降、様々な施設に、保存食などの備品が揃えられるようになったことが挙げられます。 知っておくべき災害対策 この記事の話題から少し脱線しますが、災害のための備えは、以下のようなものが挙げられます。 近いうちに起こってしまうとされている超大型地震に備えて準備しましょう。 Providing is preventing. (供給することは防止することである)• Keep something for a rainy day. (まさかのときに備えて貯蓄せよ)• Lay by something for a rainy day. (雨の日のために何かを貯えておけ) まとめ 以上、この記事では「備えあれば患いなし」について解説しました。 読み方 備えあれば憂いなし そなえあればうれいなし 意味 普段から準備をしておけば、いざという時に心配することはないということ 由来 「惟れ事を事とすれば、乃ち其れ備え有り」という中国の書経の一節 類義語 後悔先に立たず、転ばぬ先の杖、濡れる先の傘、念には念を入れよ、など 対義語 渇して井を穿つ、泥棒を捕らえて縄を綯うなど 英語訳 Keep something for a rainy day. (まさかのときに備えて貯蓄せよ) 地震大国日本だからこそ、地震をはじめとする様々な災害に備えられるといいですね。

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防災対策は大丈夫?備えあれば患いなし!賢い防災対策術

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「備えあれば憂いなし」や「備えあれば患いなし」もあります。 「憂い」がいつ使われ始めたのか?どなたが使い始めたのか?ご教示下さい。 中国の四書五経の中に「有備無患」という言葉があり、日本では「備えあれば憂いなし」がよく使われていますが、「備えあれば患いなし」という表現もあります。 「患」は「うれい、うれえる」と読みます。 日本では おもに「わずらう」という意味で用いられますが 本来の意味は「(心の)うれい、うれえる」で そこから「(体が)わずらう」意味になりました。 ですから 「患」も「憂」も 同じ「うれい。 うれえ」なのです。 ただ原典は「患」ですが 日本ではおもに病気の意味に用いる漢字なので 誤解を避けるために「(心の)うれい」をあらわす「憂」を用いました。 しかし 原典を重んじる人(学者など)は あくまで「患」と書くので 両方の書き方が混在してきたのです。 また 文法的には 「うれい」は名詞で 「うれえ」は「うれえる」の連用形で 体言の代用となります。 つまり どちらも体言であることに変わりはなく どちらが正しいとか まちがっているとかではありません。 すみませんが 初出例は今のところわかりません。

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2020.6.14「備えあれば憂いなし Ⅰテサロニケ5:1

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きょうは日本のことわざからのメッセージ、第四回目です。 「備えあれば憂いなし」とは、「普段から準備をしておけば、いざというとき何も心配がない」ということです。 日本は地震や台風など自然災害がとても多い国です。 だから、いざというときのために準備をしておくことが大切です。 今日は、重要なものから順番に、私たちはどのようなものに準備をしておくべきなのか、共に学びたいと思います。 主の日に対する備え 「主の日」というのは、旧約聖書の預言書に度々出てくる表現です。 たとえば、 ゼパニヤ1:15「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日」と書いてあります。 主の日は、さばきの日であり、恐ろしい日であると預言されています。 福音書には、「主が再び来られる日」として書かれています。 その日がいつなのか分からないので、「目をさましていなさい」と命じられているのです。 テサロニケの教会の人たちは「すでに死んだ人々はどうなったのですか?」「死んだ人はいつよみがえるのでしょうか?」とパウロに質問しています。 パウロは「世の終わりに主が来られ、そのとき復活が起る」と述べています。 しかし、現代の教会では、世の終わりについては、いろんな考えがあります。 旧約聖書の預言者たち、イエス様がおっしゃること、パウロが言うこと、ペテロが言うこと、そしてヨハネ黙示録の預言などを統一させることが難しいからです。 教会は世の終わりに起る出来事は大体理解しています。 しかし、どのような順番でそのようなことが起るのか未だ一致を見ていません。 ですから、きょう語るメッセージも世の終わりの出来事の一部だということをご承知願していただきたいと思います。 パウロがテサロニケの教会に語っている出来事は、「携挙(けいきょ)」として知られています。 携挙とは「携え上げられて、空中で主とお会いする」ということです。 このことが、世の終わり、主が再び来られたときに起るということです。 初代教会の多くの人たちは、自分たちが生きているうちにそのようなことが起ると期待していました。 ところが、主がなかなか来られないので、「先に眠った人たちはどうなったのか?」とパウロに質問したのです。 しかし、「この携挙がいつ起こるのか?」が、教会内で一致を見ない難解なテーマです。 福音派の教会は患難時代が来る直前に教会が携挙されると考えています。 この考えで行くと、二度に渡って、イエス様が来られることになります。 つまり、一回目は主がクリスチャンを天に引き上げるために空中に来られる再臨です。 その直後に地上では7年間の患難期が訪れます。 二回目は主が地をさばくために来られる再臨です。 もう1つの考えは、患難期の最後のところで、携挙とさばきを行うために主が来られるという説です。 もし、教会(クリスチャン)が患難期の直前に天に引き上げられるとしたなら、黙示録4章以降は不要になります。 イエス様が患難期の終わりに1回で来るという考えは福音派よりも、ずっと以前からありました。 奥山実師は「同じクリスチャンでも携挙を信じている人は引き上げられ、信じていない人は地上に残される」とおっしゃっています。 結論的に言うと、いつ来られるのか、よく分からないということです。 確かに主の日が夜中の盗人のようにやってきます。 でも、いつ来られるかある程度、分かるということです。 それは「主の日に対する備え」でもあります。 第一は「暗やみの中にいないように」ということです。 あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。 」この意味は、この世の罪や惑わしの中にどっぷりつかって生きていないということです。 ルカ21章には 「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい」(ルカ21:34)と書かれています。 第二は「私たちは光の子ども、昼の子どもだから」です。 私たちは、夜や暗やみの者ではありません。 」光の子どもとは、霊的に生まれ変わっている人です。 聖霊が内側に与えられているので、神からの情報が予め与えられるという保証です。 第三は「目をさまして、慎み深くしている」ということです。 このことは、6,7,8節に書かれています。 でも、「慎み深い」とはどういう意味でしょう?ギリシャ語は「酔っていない、しらふである」という意味です。 英語でもsoberであり、同じ意味です。 しかし、「騒いだり、興奮したりしないで、落ち着いた」という意味もあります。 なぜでしょう?世の終わりには不遜な者、神を汚す者、情け知らずの者、神よりも快楽を愛する者が多くなるからです(参考. 私たちは「終わりの日」に住む者たちであり、より困難な時代に生きています。 私たちの多くは、テレビや新聞のニュースから多くの情報を得ています。 世の中が混迷に満ちていることが分かります。 一方、芸能関係、食べること、世の楽しみという情報も満ちています。 しらずしらずのうちにこの世の情報に流されて、神のみことばに立つことを忘れてしまいます。 さらに、現代の教会は「主が再び来られる、主の日」ということを話さなくなりました。 ですから、私たちは、日々、聖書を読み、主と交わることがとても重要です。 このように聖日礼拝を守り、互いに励まし合うことが光の子どもとして歩むことのlife line命綱です。 三浦綾子先生が「槙は一本よりも、多数の方が燃えやすい」と言いました。 つまり、父なる神さまと教会という共同体で生きることが、世の終わりにおいてとても重要だということです。 どうぞ、この世の出来事にどっぷり浸からないで、しらふで、慎み深くして、主の日に備えましょう。 災害や事故に対する備え 日本は地震や台風など自然災害の多い国です。 南海トラフ地震、関東大震災、首都圏直下型がいつ来るかわかりません。 2020東京オリンピックと浮かれてはいけません(この原稿は昨年2月作成)。 また、最近は異状気象のせいもあって、土砂災害、川の氾濫が多数起っています。 北から南、安全なところがありません。 また、都市では集中豪雨が起ると、水をはけきれなくなり、水没してしまいます。 さらには火災や交通事故、海難事故…あげたらきりがありません。 短時間で私が何を語ることができるでしょう?何か災害が起こると「防災・危機管理アドバイザー」の山村武彦さんがテレビに登場します。 彼は全国を講演に回っておられ、眠る人は一人もいないそうです。 『人は自分だけはしなないと思っている』とか『山村流、災害・防災用語事典』という本も書いています。 また、彼は「正常性バイアス」あるいは「同調性バイアス」ということをおっしゃっています。 山村氏の他に、いくつかの資料を集めましたので、少し紹介したいと思います。 まず、「正常性バイアス」という心理学的な用語があります。 あるウェブからの引用です。 「災害や事故で逃げ遅れる人の心理を説明する 『正常性バイアス』という言葉がある。 予期せぬ異常や危険に対し、ある範囲までは自分に都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう心のメカニズムのことである」と書いてありました。 さらに、2014年に起きた御岳山噴火のことも書いてありました。 「死者の多くが噴火後も火口付近にとどまり噴火の様子を撮影していた。 噴火から4分後に撮影した記録が残るカメラもあった。 死者・行方不明が63人」とありました。 もう一例は、2011年東日本大震災、児童74名が死亡した大川小学校のことです。 「近所の人がこのように証言している。 消防車が『堤防を壊して津波が来ている。 高台に避難を!』と広報しながら逃げてきたが、それでも「ここまで来るわけがないでしょう」と話していた」と書いてありました。 そもそもbiasバイアスということばはどういう意味でしょう。 これは、「偏り」という意味で、簡単に言うと「偏った見方」です。 「正常性バイアス」というとき、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまうことです。 つまり、災害や事故なども、人は、つい、「自分だけは大丈夫」と思ってしまいます。 もちろん、その心理が悪いわけではありません。 その心理があるから、人は楽しく生きていけるのです。 毎日、ずっと、「自分は被害に遭うかもしれない」と思い続けていたら、きっと不安に潰されておかしくなってしまうでしょう。 そうならないための心理でもあります。 でも、災害などの時にこの「正常性バイアス」が、とっても危険になります。 避難勧告が出ていても、「たぶん大丈夫」と過信して避難せずに災害に巻き込まれることもあるのです。 もう1つ、「集団同調性バイアス」というのがあります。 緊急時、人間は一人でいるときは「何が起きたのか」とすぐ自分の判断で行動を起こします。 しかし、複数の人間がいると「皆でいるから」という安心感で、緊急行動が遅れる傾向にあります。 集団でいると、自分だけがほかの人と違う行動を取りにくくなるのです。 お互いが無意識に牽制し合い、他者の動きに左右されます。 自分個人より集団に過大評価を加えていることが読み取れます。 結果として逃げるタイミングを失うことにもなりかねません。 まるで、「災害時、皆でいれば怖くない」です。 「皆で入れば安心だ」と思う心理には客観的合理性や科学的根拠はありません。 災害が発生したとき、または危ないなと思ったら、まず安全なところへ避難することです。 ウェブに2003年2月18日に韓国で起きた地下鉄放火事件のことが書かれていました。 この事件で約200人の尊い人命が奪われてしまいました。 公表された写真の中に、焼ける前の地下鉄内で乗客が出火後の状況を写した写真がありました。 煙が充満しつつある車内に乗客(10人くらい)が座席で押し黙って座っているという不思議な写真でした。 それを見てまず「なぜ逃げようとしないのだろうか」と疑問に思いました。 そして、これは「集団同調性バイアス」と「正常性バイアス」に陥ってしまったのではなかろうかと思いました。 煙が駅と車内に充満したとしたら、心の警報が鳴り響き、直ちに避難するなどの緊急行動を取るのが自然です。 しかし、過去経験したことのない出来事が突然身の回りに起きたとき、その周囲に存在する多数の人の行動に左右されてしまうのです。 どうして良いか分からない時、ほかの人と同じ行動を取ることで乗り越えてきた経験、つまり迷ったときは周囲の人の動きを探りながら同じ行動をとることが安全と考える集団同調性バイアスの呪縛に、心が支配されてしまうのです。 同じようなことが、2014年4月に起きた、韓国セウォル号沈没事故のときもありました。 生徒たちは「救命胴衣なんて着けなくて良いよ」とか「沈むわけない」などと、言い合い、ほとんど逃げずにいたそうです。 マタイ福音書に「ノアの洪水」のことが書かれています。 マタイ24:38「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。 」おそらく、義人ノアは「洪水がまもなく襲ってくるから、箱舟に入りなさい」と作業の合間、人々に警告したことでしょう。 しかし、その当時の人たちは、「ノアは頭がおかしくなった。 そんなことが起るはずがないだろう」と言うことを聞かなかったのでしょう。 まさしく、正常性バイアスと集団同調性バイアスにかかっていたと思われます。 私たちも神さまが共におられるから大丈夫だと高をくくってはいけません。 聖霊様が何とおっしゃっているのか耳を傾けましょう。 聖書には預言者の存在がちゃんと記されています。 使徒11章には「アガボという預言者が、世界中に大飢饉がくると預言し、それがクラウデオの治世に起った」と書かれています。 1976年ガテマラで大地震が起こりました。 その3か月前に一人の預言者が「大地震が起こる」と預言し、教会がその預言は正しいと判断しました。 その後、大統領と政府指導者に告げましたが、だれも相手にしてくれませんでした。 当日、教会関係者は一人も犠牲になりませんでしたが、22,870人が死亡しました。 その後、政府は預言者の働きを認め、緊急事態のためにヘリコプターを与えたそうです。 地震は自然の法則ですが、神さまは前もって私たちに教えてくださいます。 もちろん、この世の情報も大切ですが、私たちは神さまと直結して、上からの情報で動く必要があります。 事故や犯罪に対する備え 詩篇91:1-10「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。 『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神』と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。 あなたは、その翼の下に身を避ける。 主の真実は、大盾であり、とりでである。 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。 」この世の人たちは、いろんな恐れに満たされています。 インフルエンザが流行れば、「自分もなるのでは?」と恐れます。 人々が「癌が死亡率第一です」と聞くと、「自分もなるのでは?」と恐れます。 花粉症のシーズンが来ると、薬を飲んだり、マスクをします。 「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない」とあるので、「私はならないんだ」と宣言しています。 しかし、私たちはこの世に住んでいますので、事故や犯罪に巻き込まれる可能性がいくらでもあります。 もちろん、天使が私たちを守ってくださっているでしょう。 でも、私たちが取るべき責任もあるはずです。 事故で最も多いのが、自転車や自動車事故です。 私は子どもの時からそそっかしいので、「ヤス、落ち着け」とよく注意されました。 どこかにぶつかったり、手足を切ったり、よくありました。 今までいのちを失わずに生きてきたのが奇跡的です。 自転車は軽車両なので左側通行です。 しかし、ご婦人たちは右側をよく走っています。 若い人たちは携帯を見ながら走っています。 お母さん方は電動自転車に2人も3人も子どもを乗せて猛スピードで走っています。 危機管理がなっていません。 車にとって、自転車が最も危ない存在です。 狭い道からひゅっと飛び出してくるからです。 確かに車道の左側を走る権利があるかもしれません。 六号線とか環七を自転車で走るのは違法ではありませんが、本当に危険だと思います。 軽自動車に乗っている方はぺちゃんこになるので注意してください。 最近は高齢者の方がブレーキとアクセルを踏み違えるという事故があります。 そのため、歩道を歩いていても、車を信用してはいけません。 私は車を信用していないので、横断歩道を渡るときも注意しています。 こちらが正しくても、ひかれる場合が常にあるからです。 他に、転落事故、水の事故、山での遭難…いろいろあります。 私たちは新聞やテレビのニュースで人ごとのように見てしまいます。 私は訳有りの故、免許更新のとき映画を見せられます。 「だろう運転」は事故のもとだと教わりました。 「あの人は、きっと渡らないだろう」「対向車は出てこないだろう」です。 一方、安全運転は「かもしれない運転」だと教わりました。 たとえば「右折のときに、もしかすると対向車が飛び出してくるかもしれない」と考えておくことで、本当にそうなった場合にもあせらず行動することができるのです。 危険な運転を避けるためには「かもしれない運転」を選択すべきだということです。 その次は「犯罪」です。 日本は海外と比べ、とても安全な国だと言われています。 しかし、最近はテレビや新聞で犯罪が身近に起こっています。 数年前、被害者が西亀有の女子大生ということもありました。 殺人事件が毎日のように起るので、この間の事件が、すぐ忘れてしまいます。 窃盗事件、詐欺事件、空き巣…第二のポイントのように「私だけは」と思っているかもしれません。 もちろん、クリスチャンは神さまの守りを信じています。 だから、恐れに満ちて、暮らす必要がありません。 でも、背後に敵がいるということを忘れてはいけません。 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と書かれています。 そういう意味では、霊的な武具を身に着け、目を覚まして祈っている必要があります。 クリスチャンはできるだけ、人を善人として見るようにすべきです。 しかし、悪人もいるということをちゃんと認識している必要もあります。 表面はニコニコ、穏やかで寛容に見えます。 しかし、心の中ではいろんな人がいるので用心しているということです。 これは偽善者になれという意味ではありません。 ダニエル書をみますと、ダニエルをはじめ3人の若者は、バビロンという敵国の中でも、正しい生き方をしていました。 彼らは度々、罠にはめられましたが、神さまによって救い出されました。 それでも、彼らはボーっとしていたのではなく、神さまを恐れ、神さまと共に歩んでいました。 イエス様がこのようなことをおっしゃっています。 ヨハネ2:23-25「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。 なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。 」人々がイエス様を信じたと書かれています。 でも、イエス様は彼らにご自身をお任せにはなりませんでした。 なぜなら、イエス様は人の奥底の思いを知っておられたからです。 もちろん、私たちも人々を信用すべきです。 でも、人には弱さや罪もあるということを前提にしておくべきだということです。 私たちクリスチャンは主にあって、互いに愛し合い、互いに信用し合うべきです。 「主にあって」とは、弱さや罪もあってということを受け入れているということです。 100%完璧で正しい人はいません。 そのため、キリストの愛というメガネで人々を見る必要があります。 簡単に切り捨てたり、関係を遮断したりしてはいけないということです。 きょうは普段語られないテーマで語りました。 天国に行ったら、災害や事件、悪い人はいません。 ドアに鍵をかける必要もないでしょう。 私たちは悪魔と罪が存在する、この世で生きているので、色々備えて生きる必要があるのです。 「備えあれば憂いなし」と言いますが、天国に行ける備えができていれば、この世で起きる出来事は微々たるものです。 でも、神さまがお与えになったいのちや持ち物や家族をきちんと管理して、享受するということも御心だと信じます。

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