ファシズム と は。 ファシズムとは?意味を簡単にわかりやすく解説

日本ファシズム論

ファシズム と は

【解説】 ファシズムとは、簡単に言うと 独裁主義のことです。 大衆動員を積極的に利用し、市民的自由や人権を無視する国家主義をかかげ、反対派を弾圧する、この政治体制や思想がファシズムです。 代表されるのが、ムッソリーニのファシスト党、ドイツのナチ党。 彼らは合法的に自分たち以外の政党をすべて解散させ、一党独裁体制を確立しました。 このような政治体制が生まれた経緯には、当時の社会的状況が密接に関係しています。 とくに、一定の世論の支持を得て大衆的な基盤を持っている点が、従来の独裁体制と違うところです。 赤字部分に注目しながら、各国の背景を簡単にみていきましょう。 【 イタリア】 第一次世界大戦後の混乱を背景に、ファシスト党が政権を獲得 イタリアは第一次世界大戦の戦勝国でしたが、領土の拡大が認められず、不満をかかえていました。 また、国民は戦後のインフレーションで生活を破壊され、政府への不信感を高めていました。 労働者・貧しい農民は各地で土地を占拠するなど社会改革を求め運動をおこします。 こうしたなかで、ムッソリーニがファシスト党を結成し、農民運動や労働運動を暴力で破壊し、ロシアのような社会主義革命がおこることを恐れる支配層や中産階級のあいだに支持を拡大しました。 このような支持を背景に、ファシスト党は1922年の「ローマ進軍」で政権を握り、1926年にはファシスト党以外の全党を解散し、一党独裁体制を確立したのです。 【 ドイツ】 ヴェルサイユ体制の不満や世界恐慌による社会不安を背景に、ナチスが台頭 第一次世界大戦で大きなダメージを受け、ヴェルサイユ条約の賠償金の支払い能力がなかったドイツに対し、フランスがドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領したことで、ドイツの工業生産は事実上ストップ。 国内では過酷な条約に対する不満が高まります。 さらに追いうちをかけるように世界恐慌がおこり、ドイツ経済は混乱を極めます。 そんな中、ヴェルサイユ体制粉砕を叫ぶヒトラーが、社会不安に乗じて強引な行動力とたくみな宣伝力で人々をひきつけ、中小農民や中産階級の支持を受けて勢力を急速に拡大させたのです。 さらに、彼はナチ党以外の政党や労働組合を解散させて、一党独裁を実現しました。 ご提供いただく個人情報は、お申し込みいただいた商品・サービス提供の他、学習・語学、子育て・暮らし支援、趣味等の商品・サービスおよびその決済方法等に関するご案内、調査、統計・マーケティング資料作成および、研究・企画開発に利用します。 お客様の意思によりご提供いただけない部分がある場合、手続き・サービス等に支障が生じることがあります。 また、商品発送等で個人情報の取り扱いを業務委託しますが、厳重に委託先を管理・指導します。 個人情報に関するお問い合わせは、個人情報お問い合わせ窓口(0120-924721通話料無料、年末年始を除く、9時~21時)にて承ります。 (株)ベネッセコーポレーション CPO(個人情報保護最高責任者) あとから紹介制度のやり方 入会後に、ご紹介者の情報を登録することもできます。 入会フォームの「入会後に、ご紹介者の情報を登録する」にチェックを入れてください。 Webでお申し込みをする場合 「入会申し込みページ」の「支払方法等の選択」内にある「ご紹介者」の欄で、 「入会後に、ご紹介者の情報を登録する」を選び、そのまま次の画面に進んでください。 Web画面のデザインはイメージです。 変更する場合があります。 お申し込みの際にご登録いただいたメールアドレスに、手続き完了のメールをお送りしますので、プレゼント申し込み手続きを行う代表者を決め、お手続きをお願いします。 どちらかお一人がお手続きするだけでOKです。 電話でお申し込みをする場合 ご入会のお申し込みをいただく際、オペレーターが「ご紹介者はいらっしゃいますか」とおうかがいします。 入会完了 あなたと、あなたのお友だち・ごきょうだいに「教材」をお送りしますので、 プレゼント申し込み手続きを行う代表者を決め、0120-332211(9:00~21:00年末年始除く 通話料無料)までお電話ください。 どちらかお一人がお手続きをすれば、お二人分のプレゼントをお届けします。 どちらかお一人がお手続きするだけでOKです。 「進研ゼミ高校生向け講座」は、進研ゼミ高校講座・小論文特講を指し、これらの受講経験者への進路調査 2019年度入試 による数字です。 「旧帝大」とは、北海道大、東北大、東京大、名古屋大、京都大、大阪大、九州大のこと、「早慶上理」とは、早稲田大、慶應義塾大、上智大、東京理科大のこと、「MARCHG」とは、明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大、学習院大のこと、「関関同立」とは、関西大、関西学院大、同志社大、立命館大のこと、「日東駒専」とは、日本大、東洋大、駒澤大、専修大のこと、「産近甲龍」とは、京都産業大、近畿大、甲南大、龍谷大のことです。 「現役」のみの合格実績を掲載。 既卒生や進研模試のみの受験者は一切含みません。 受講期間3か月以上に相当する受講経験者で集計。 大学名は、2019年度入試時点のものです。 複数の大学・学部・学科・方式に合格している方は、複数の合格者数として集計。 【有料オプション教材】小論文特講は、受講費一式で16,500円 一括払い・税込。 web講義・問題、ハンドブック、添削7回分。 小論文特講だけでもご受講いただけます。 お申し込みはから。 2019年12月17日に2021年度「大学入学共通テスト」にて予定されていた国語・数学の記述式問題の導入見送りの発表が文部科学省よりございました。 現在「進研ゼミ高校講座」よりお届けしているご案内について、12月17日以前の入試情報でお届けしているものがございます。 今後お届けするご案内・教材については、最新の入試情報を踏まえてお届けできるように努めてまいりますので、ご理解のほど何卒よろしくお願い申し上げます。 なお、ベネッセコーポレーションでは、新大学入試の最新情報をわかりやすく解説する「教育セミナー」(参加費無料)を全国で開催しております。 これから新入試に向けて頑張る高校生のみなさま・保護者の方に、ぜひ、ご活用いただけますと幸いです。 詳しくはをご覧ください。

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ベニート・ムッソリーニのファシズムとその歴史

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ファシズムとは、20世紀前半の時代に現れた国家体制の一類型で、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制を言う。 全体主義ともいわれるが、第一次世界大戦後に生まれたイタリア=ファシズムに見られる特徴は、反ブルジョワ、反資本主義を掲げた革新性を装うこと、議会政治での政党間の争いを克服すると称して、カリスマ的な指導者が大衆宣伝を行って選挙という民主主義を装うこと、などである。 ファシズムは第一次世界大戦後の、という国際社会の矛盾を突く形で生まれ、という資本主義の矛盾という中で育った。 で、が結成したが1922年に権力をにぎったのを最初として、他に典型例としてはドイツののによるがある。 また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置き、天皇信仰をテコに国民を動員した1930~40年代前半の 日本型ファシズム(天皇制)国家もある。 ファシズムを狭い意味でイタリアのファシスト党の独裁政権に限定した場合は、ドイツのナチズム、日本の軍国主義との違いが論じられるが、世界史の大きな理解ではドイツ、日本もファシズム国家と規定した方が良いと思われる。 ファシズム国家のもとではが強調され、国家元首への敬礼や国旗や国歌への拝礼が強要され、国家利益が優先されて国民の人権や自由は奪われる。 政治においては議会や政党は否定されるか、あっても一党独裁のもとで形骸化して民主主義は行われなくなる。 なお、先進国であるイギリスやフランスにもファシズム運動は出現したが、いずれも大衆的な広がりにはならず、国家権力を奪うほどにはならなかった。 ファシズム国家の諸相 イタリア・ドイツ・日本は帝国主義の矛盾が表面化した世界恐慌の後、1930年代から侵略行為を自衛のためと正当化して軍事行動を開始、1940年代にと称して提携した。 第二次世界大戦はファシズム国家対自由と民主主義を守る連合国という大義名分で始められ、45年にファシズム諸国が敗北することで終わった。 戦後世界はファシズム国家の出現を国際的に防止するしくみとして「連合国」を発展させ、国際連合を組織した。 その他のファシズム国家 この典型的な三つの国家以外にもファシズム国家は存在した。 ファランヘ党によって支えられたスペインの政権、隣国ポルトガルの政権(及びその後継のカエターノ政権)である。 この二国は、いずれも1930年代末までに独裁体制を作り上げ、大戦後にも政権を維持している。 スペインにはフランコ以前の1920年代に政権がファシズムに近い独裁政治を行っていた。 また大戦前ののドルフース政権、のアントネスク政権、のメタクサス政権もファシスト政権とされるが、これらは大戦期に崩壊した。 なお、1910~20年代のハンガリーの、ポーランドのも独裁政権であったが、これらはファシズムには近いが、区別して 権威主義体制とされている。 ファシズムの語源 ムッソリーニの創設したファシスト党に始まるが、その言葉は古代ローマの ファッショに由来する。 ファッショは古代ローマの(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたもの。 権力の象徴とされ、人民を「束ねる」意味があるところから、全体主義を意味する言葉として蘇った。 そこから、ファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生した。 ムッソリーニはいたるところで古代ローマを賞賛し、学校ではローマの歴史を重視し、ローマ建国の日とされる4月21日は祭日となり、盛んにラテン語を引用した。 <ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p. 319-> ファシズム台頭の背景 第一次世界大戦後もさらに激しくなった列強の帝国主義の利害対立の中で、1929年にが起きると、ドイツやイタリア、日本のような後発的ないわゆる「持たざる国」は、イギリス・フランス・アメリカという「持てる国」を主体とした・を打破し、世界再分割を要求するようになり、軍事力による生存圏の拡張を図ろうとする風潮が生まれた。 そのファシズム指導者を国内的に支持したのは、特に世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派であった。 ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の社会革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。 また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優越を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、特にを排除した。 各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用しようという姿勢を変え、容認し、提携するようになった。 それがファシズムが権力を握った理由である。 それがもっとも顕著に表れたのが、ドイツのの主張であり、それを実現したのが、であった。 人民戦線の意義 ファシズムの暴力的攻撃に対して議会政治や自由主義を擁護するには、それに対抗する勢力がばらばらであっては力にならなかったことは歴史が示している。 それに対抗する勢力、具体的にはブルジョワ民主主義政党、社会民主主義政党、そして共産党などが幅広く結束して、いわゆるを構築するしかなかったのであるが、ドイツとイタリアでは社会民主主義政党と共産党は激しく対立し、互いに相手を目前の敵としてたため、ファシズムの台頭を許したとみることができる。 ファシズムに対する闘い ドイツとイタリアでナチスとファシスト党の勝利が確定したことは、他のヨーロッパ諸国に大きな脅威を及ぼした。 それに対して、はようやく1935年ので「」の結成を方針とし、、が相次いで結成され、1936年に選挙で勝利して人民戦線内閣が発足した。 スペインでは人民戦線政府に対してただちに軍部が反乱を起こし、が開始され、ドイツとイタリアは積極的に反乱軍を支援した。 人民政府への支援はソ連が明確にしたものの、フランスの人民戦線政府は当初はスペイン政府支援を決定したにもかかわらず、政府部内の反ソ派の反対で中止した。 結局スペインの人民戦線政府はイギリス・フランスの 不干渉政策によって見殺しにされ敗北した。 フランス人民戦線内閣はこれをきっかけに内部対立が激化し、結局崩壊した。 こうして人民戦線の崩壊によって世界戦争へと突入する。 アジアにおいては、1931年の以来の日本の侵略に対し、中国共産党は1935年にで人民戦線の結成を国民党に呼びかけ、36年を機に国共合作の機運が進んでいた。 にもかからず日本軍は1937年にを機に全面的なに踏み切る。 それを受けてが成立し、「」による日本ファシズムに対する民族的抵抗が展開されることとなる。 つぶやき ファシズムの足音 第二次世界大戦後、民族独立運動の過程でのアジアやアフリカ、反米運動の過程でのラテンアメリカ、などで独裁政治が生まれているが、これらはファシズムとは言えない(高度な資本主義独占体制との結びつきはないので)。 むしろ、グローバリズムのもとで出現しているの形成、それに対する叛乱の形態をとりながら強まっている民族的排他主義などの中に新たなファシズムの目があるのではないかと危惧される。 日本でも標榜されている「決められる政治」ということが、多数で何事も決めていくという政治になってしまえば、少数意見の尊重や、時間をかけた合意形成と言った当たり前の民主主義の手続きが無視されかねない。 ヒトラーのナチス政権も選挙によって国民の信任を受けるという「民主主義」の手続きを取っていた。 「多数決」で即決していくことがどのような結果を招いたか、世界史を学ぶことによって感じ取ることができる。 ファシズムに抵抗するのは一人一人が「手間のかかる合意形成、少数意見の尊重」といった「民主主義のまどろっこさ」に徹することが必要に思える。

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狭義には,資本主義が全般的危機に陥った第1次世界大戦以降ので,労働者階級の革命運動の高揚に対抗して登場し,議会制民主主義を否定して反革命独裁を志向したベニト・に率いられたの運動,体制,およびそのをいう。 「ファシズム」の語は「」を味するイタリア語 が,党の母体である Fasci di Combattimentoに使用されたことに由来するが,この語はさらに,古代ローマの執政官の権標であった儀式用具 (斧を中心に木の棒をねたもの)にまでさかのぼるという。 一般概念としては,それ以後の類似の現象をさすが,近年,多義的に用いられている。 政党,,中の反動分子らによる政治独裁を目指し,,を排撃し,,,ナショナリズムの高唱などをとする。 具体的には 1920年代から 1930年代にかけて登場したドイツのアドルフ・,スペインのフランシスコ・らによって指導された主義体制の運動および体制があげられる。 このように当初はムッソリーニの運動だけをさす固有名詞であったファシズムは,やがて 1930年代に入ってヨーロッパをはじめ各国にそれと類似の運動が勃興するに及び,これらを一般的に総称する名称に転化した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 狭義にはイタリアでの指導下にあったファシスト党の,広義には20世紀の的・的の運動理念,支配形態。 イタリア語ではファシズモfascismo。 は古代ローマの儀式用の束桿を意味するfasces,転じて〈結束〉〈団体〉の意。 第1次世界大戦後の資本主義の一般的危機と,それから起きた社会的・経済的や社会主義革命の危機の切迫感から,その存立基盤に不安を感じた中間層が,カリスマ的指導者に率いられて起こした。 議会政治や言論・出版・結社等の自由をすべて否定し,反革命運動を推進した。 またすべての悪の根元は社会主義・共産主義・ユダヤ人等にあるとし,偏狭なやを唱え,しばしば対外侵略政策をとった。 ドイツのナチズム()や日本のもその例である。 ただし,ファシズムを最広義に,〈共同体〉(その大小,出自,体制の相違を問わない)統合の極限的な原理ないし手法と解すれば,これを歴史的事象として清算することはできず,再出現の可能性は常にあると考えなければならない。 その政治的・経済的・社会的側面のみならず,思想や文化にわたる機制の解明が必要とされるゆえんである。 イタリアでは,第1次大戦直後の混乱のなかで,1922年10月31日に早くもムッソリーニ内閣が成立したが,その後29年に始まるを背景に,33年1月30日ドイツでは内閣が生まれた。 20年代から30年代にかけてヨーロッパの広範なにこのムッソリーニの〈ファシズム〉やヒトラーの〈ナチズム〉に類似した政治的急進主義の動きが芽生えていたが,第2次大戦のにおけるドイツの軍事的にも支えられて,42年夏には,この種の動きが全ヨーロッパを支配してしまうようにさえみえた。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 第一次世界大戦直後の1920年代初頭から第二次大戦終結時点の1945年までの約4半世紀間にわたり、世界の多くの地域に一時期出現した、まったく新しいタイプの強権的、独裁的、非民主的な性格をもった政治運動、政治・経済・社会思想、の総称。 ファシズムは、イタリア、ドイツ、日本をはじめとして、スペイン、オーストリア、ポルトガル、ルーマニア、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなどの西・東欧諸国、またアルゼンチン、チリ、ブラジルなどの南米諸国においても発生した。 これらの国々のうちで、とくにイタリア、ドイツ、日本の3国がファシズム国家の典型とされるのは、一つには、その地において強力なファシズム政権が確立されたこと、さらにより重要なことは、これら日独伊3国が、第二次大戦の一方の当事国として、イギリス、アメリカ、フランス、旧ソ連などのいわゆる民主主義陣営を敵に回して、それらの国々と戦ったからである。 では、この世界史上まったく新しいタイプの運動・思想・体制をなぜファシズムとよぶのか。 それは、このような運動・思想が最初にイタリアのムッソリーニによって提唱され、かつイタリアにおいてファシズム体制が確立されたからである。 ファッショfascioという語は、イタリア語の「束」を意味し、そこから転じて、「団結」「結束」を表す語として用いられるようになった。 第一次大戦中、参戦派のサンジカリストたちが「革命的参戦行動ファッシ」という名称の組織をつくり、戦後、ムッソリーニがこの組織を継承して「戦闘ファッシ」とし、1921年には「国民ファシスタ党」という政党に改組した。 これ以後、ファシズムということばが、独裁的・非議会主義的・反共主義的な運動・思想・体制の総称として広く一般に用いられるようになった。 [田中 浩] 発生因ファシズムが第一次大戦後のイタリアやドイツにおいて発生した理由は二つ考えられる。 一つは、大戦後の未曽有 みぞう の経済的危機とそれによる政治的危機の出現という問題である。 もう一つは、大戦後、世界史上初めてロシアの地に社会主義国家が誕生し、各国に脅威を与えたことである。 イギリスやフランスよりも2、3世紀遅れて近代国家を形成したイタリアやドイツは、植民地分割競争に乗りおくれたため当然にその経済的基盤が弱く、大戦の影響をまともに受け、深刻な失業、貧困、インフレ問題などは、国家的存立はもとより、中産階級以下の人々にとって深刻な死活問題ともなった。 ところで、資本主義経済の危機を解決する方法としては、ファシズムの道のほかに社会主義への道があった。 事実、そのようなものとしてロシアにおいてはレーニンの指導する社会主義政権が樹立された。 このことは、各国の労働者階級を勇気づけ、世界的に社会主義運動や労働運動が高揚する。 しかし、ファシズム運動の指導者たちは、階級闘争の激化は国家的破滅につながるものとしてこれを厳しく弾圧した。 ファシズムが民族主義的性格を色濃くもち、反資本主義、反議会主義、反民主主義を唱えるとともに、反社会主義、反共産主義を掲げて、一党独裁による極端な国家主義 ステイティズム を強調したのは、ひとえにソ連社会主義の自国への影響を恐れたためであったといえよう。 このようにみると、ファシズムと社会主義は、19世紀末以降とくに顕在化した資本主義の矛盾とその全般的危機に対する対応策として出現したものであることがわかる。 しかし、この両者はまったく違った道を歩み、社会主義国家は民主主義社会の建設を目ざし、ファシズム国家は、個人の自由や民主主義を否定する全体主義的な国家体制の確立を追求し、そのことは帝国主義的侵略主義と結び付き、結局、この両者は第二次大戦において対決することになる。 [田中 浩] ファシズムの性格ドイツでは、ファシズムという語よりもナチズムという語が用いられ、日本では天皇制ファシズムあるいは全体主義という語が用いられたように、ひと口にファシズムといっても、3国におけるファシズムの内容はかならずしも同じではないが、共通する性格について述べる。 (1)国家による経済の統制・監督 ファシズム運動は、そもそも自由主義的な資本主義経済の危機を契機に発生したこともあって、ファシズムにおいては国家による経済の統制・監督という思想が強い。 ムッソリーニは、このような干渉主義を混合経済とよび、そのような政治・経済体制を資本と労働の協同体方式によって建設することに全力を注いでいる。 またドイツの政治学者カール・シュミットは、ファシズム国家を全体主義国家totalen Staatと規定し、この国家の特質は「国家が社会(経済)を呑 の み尽くす」点で全体的であると述べている。 もっとも19世紀末以来、資本主義国家においても福祉国家への転換が図られ、国家や政府の指導・監督がしだいに強化されつつあったし、社会主義国家においては計画経済の下に経済は完全にコントロールされている。 この点については、三つの政治・経済体制は一見似通ってみえる。 しかし、ファシズム国家の場合には、市民的自由や労働者の権利はまったく否定され、個人の経済活動も国家利益に従属させられているという点で、資本主義国家や社会主義国家の場合とその様相を大きく異にしているといえる。 (2)狂信的民族主義 ファシズムの第二の特質は、その偏狭な狂信的民族主義にある。 ムッソリーニは、ファシスタ党が政権をとる「ローマへの進軍」を前にして、民族の概念がマルクス主義的な階級の概念よりも優位しているとの演説を行った。 彼によれば、国家とは民族が政治制度において具現化されたものであった。 彼は、ファシズム国家は「下から形成・組織された国家」であると述べ、国民に対して国家への民族的統一を呼びかけ、階級闘争による国家分裂の行動を否定している。 他方、フランス革命当時にあってもなお300を超える領邦国家に分裂していたドイツ人にとっては、イギリスやフランスのような近代的統一国家の形成は、いわば民族の悲願ともいうべきものであった。 統一国家=帝国 ライヒ Reichと民族 フォルク Volkという概念がドイツ民族統一のための長年にわたる合いことばとなったのはこの理由による。 ここから「ゲルマン民族の優越性」「血の純潔」「血と大地」「反ユダヤ主義」というドイツ特有の民族概念が生まれた。 ドイツ人によれば、ユダヤ人は世界中の国々に潜入して資本主義的利益を獲得するために狂奔し、他方では、ユダヤ的マルクス主義は、インターナショナルな楽園をこの地上に創出すると称して民族の統一を妨げている、というわけである。 ナチ党がユダヤ人を大量虐殺し、またユダヤ人マルクスの唱えた社会主義や共産主義を憎悪しこれを厳しく弾圧したのは、ドイツ人特有の民族概念を知ることによって初めて解明できる。 この点、日本における民族概念の政治的機能は、イタリアやドイツの場合と異なる。 日本では、国家は有史以来、大和 やまと 民族というほとんど単一の民族で構成され、その民族が天皇を頂点として統合されてきたと考えられていた。 日本において、「下からの革命」という運動が欠如しているのはそのためである。 そして、こうした民族概念は、明治維新以後の「富国強兵策」の時代から十五年戦争期にかけて、天孫民族による世界統治こそ神聖至上なりとする「八紘一宇 はっこういちう 」の思想にまで高められ、それは国民意志を統合する最重要な精神的契機となり、明治以来のアジア侵略や帝国主義戦争を正当化する思想となったのである。 もっとも民族的使命感を強調する思想は、15、16世紀以来、帝国主義的植民地略奪を遂行しつつあった西欧人の間でも、「白人の責務」「キリスト教国民による未開人の教化」という形で唱えられたが、ファシズムの場合には、偏狭な民族主義が極端な形にまで進んだものといえよう。 (3)反自由主義・反議会主義・反マルクス主義 ファシズムは社会主義と異なり、資本主義そのものは否定しないが、その政治思想や政治制度には反対する。 そのことが一見ファシズム国家は反資本主義的性格をもつと思われがちだが、ファシズムの真の敵はマルクス主義、社会主義国家である。 ではなぜ、ファシズムは反自由主義、反議会主義の立場をとるのか。 それは、シュミットによれば、議会制民主主義は、本来敵であるべき社会党やとくに共産党の存在を許しているためだ、という。 また20世紀に入って労働者階級の力が強大となったが、敵を敵として扱わず、討論相手にしているような議会制民主主義のやり方では、とうていこの強大な新しい社会階級に敵対できない、したがって、いまや議会主義ではなく一党独裁によって階級敵に対抗し、これを絶滅しなければならない、というわけである。 こうして、ファシズムは、いずれの国においても社会主義運動や階級闘争を厳しく弾圧したが、そのことは、日本の「治安警察法」や「治安維持法」の適用にもみられるように、市民的自由や議会制民主主義などの一般的民主主義までも全面的に否定することとなり、ここに、全体主義的なファシズム国家体制が確立されたのである。 [田中 浩] ファシズムの成立と形態(1)イタリアのファシズム ファシズム国家という点でもっとも典型的なのはイタリアの場合であろう。 なぜなら、そこでは、資本主義の危機を乗り越えるために、国民のナショナリズムに訴えて大衆的支持を得ることを目ざし、政治と経済の緊密な協同・結合を図ってファシズム体制をつくりあげようと試みているからである。 この協同体では、頂点に「協同体全国協議会」があり、その下部に22の協同体が設けられている。 各協同体はそれぞれの生産部門の経済活動を監督・指導する。 「全国協議会」は、生産の私的イニシアティブは尊重しつつ、それが協同体において全経済の利益、国家の利益と調和するように図る権限を有する。 この協同体国家への改編は34年2月に協同体に立法権が与えられることによって完成した。 こうしてムッソリーニは、資本主義の矛盾とコミュニズムからの脅威を克服したと称する強大な国家建設と世界進出の夢を結合させることによって、33年1月に政権を獲得したドイツ・ナチズムと連帯を強めつつ、エチオピア侵略、国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結を経て、枢軸国の一員として第二次大戦に参戦するのである。 (2)ドイツのナチズム ナチ党は、1923年のミュンヘンでの一揆 いっき に失敗して以後、議席拡大による合法的な権力獲得の道を追求し、敗戦によって失われたかつてのドイツ民族の栄光を回復するという旗印を掲げ、大量の失業軍人や不安定な状況に置かれていた広範な中・小生産者層を結集し、また「国民社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名によって労働者階級の一部をも引き付けることに成功した。 29年に始まった世界大恐慌の出現は、ナチ党の党勢拡大に弾みをつけた。 32年の選挙ではついに第一党の地位についたが、その狂信的政治信条を恐れた支配層は、ヒトラーに政権を移譲することをためらった。 しかし、30年代の深刻な政治的・経済的危機を解決する能力を失った支配層は、コミュニズムの脅威よりもファシズムをよしとして、ついに33年1月にヒトラーに政権を渡した。 この時点では支配層は、ナチ党をコントロールできるものと楽観視していたようである。 しかし、首相ヒトラーは、ワイマール憲法第48条に規定された大統領の非常大権を有効に活用して組合運動や政党活動を抑圧し、33年3月24日には「民族と帝国の危難排除のための法律」を制定してたちまちいっさいの権限をその手中に収めた。 この法律によりワイマール共和国は崩壊し、以後、ヒトラーは、「歓呼」と「喝采 かっさい 」という方式によって彼の命令と意志を無条件に支持する全体主義的独裁体制を確立し、第二次大戦への道を目ざして戦争準備を始めることになる。 (3)日本のファシズム 日本のファシズムは「天皇制ファシズム」とよばれるように、明治憲法体制の下で長年かけてつくりあげてきた国民の天皇信仰を背景に、軍部・官僚による「上から」の強権的国家体制を形成して十五年戦争を遂行したという点で、「下から」の革命を目ざして国民を組織し、ファシズム政権を獲得したイタリアやドイツの場合と様相を異にする。 この点をめぐって日本はファシズム国家ではなかったと主張する者もいる。 しかし、この時期の日本でも国家による経済の監督・統制の強化、「八紘一宇」の観念による侵略的民族主義の高唱、反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義などの思想教化、さらには国内的には国家総動員法の制定(1938)、大政翼賛会・大日本産業報国会の結成(1940)などを通じて機構的に天皇制ファシズム体制が確立され、国際的には満州侵略(1931)、国際連盟からの脱退(1933)、日独伊三国同盟の締結(1940)などを断行した経過をみると、日本がファシズム国家であったことは間違いない。 (4)その他のファッショ体制 1920、30年代には、主要3国以外にも、ファシスト政権やファシズム運動が各国で相次いで出現している。 たとえば1920年にはハンガリーにホルティ政権、28年にはポーランドにピウスツキ政権、33年にはポルトガルにサラザール政権、34年にはオーストリアにドルフス政権、36年にはスペインにフランコ政権、40年にはルーマニアにアントネスク政権、また第二次大戦中には、チリ、ブラジル、アルゼンチンなどにファシスト政権が誕生した。 そのほか、政権獲得までには至らなかったが、イギリスのモズリー一派の「イギリス・ファシスト同盟」、アメリカの「アメリカ・ナチス党」、フランスのモーラスらの「アクシオン・フランセーズ」などのファシズム運動が、またカナダ、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィンランド、インドなどでもファシズム運動が出現したのである。 こうした政権や運動は、第二次大戦後ほとんどその姿を消したが、フランコ政権のように戦後に至ってもなおしばらく生き残った政権もあった。 [田中 浩] 戦後のファシズム問題第二次大戦での日独伊3国の敗北によりファシズム国家はひとまずこの地上から姿を消した。 しかし、ファシズムの運動や思想が民主主義への挑戦・否定を含むものであったということからすれば、今日においてファシズム再現の危険性がまったくなくなったとはいえない。 戦後はファシズムという用語よりも全体主義ということばが用いられているようだが、たとえば1950年代前半における米ソの対立激化のなかで、アメリカはスターリン体制を全体主義として非難し、他方旧ソ連は、当時、思想・信条の自由を抑圧していたアメリカのマッカーシズムを全体主義として攻撃した。 第二次大戦が、人権と自由の観念が希薄であり、民主的な政治制度の確立がきわめて不十分であった日独伊3国によって引き起こされたことを考えれば、それは、今日の時点においてファシズムの再現を防ぐ方法は何かをわれわれに教えているといえないだろうか。 第一次世界大戦後のイタリアのファシスト党の運動,ドイツのナチズム,日本の軍国主義など,後進資本主義国でを握ったが,アメリカやイギリス,フランスなどでも一定のを得ていた。 世界恐慌などに伴う資本主義の危機に乗じて国家主義・反資本主義・・反自由主義そして議会制民主主義の否定を唱え,小市民・中間層をひきつけてを握り,労働者の革命化を抑圧して基本的も否定,軍事独裁的な反革命体制をつくった。 また,国民に排外主義をあおり,外には露骨なを遂行した。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について の解説 20世紀のの段階に現れた特殊な全体主義的思想・運動・体制 ムッソリーニが1921年ファシスタ党を組織し発展させて,同様な傾向のものを,第二次世界大戦におけるドイツ・イタリア・日本がファシズムのとされた。 日本ではドイツ・イタリアのような下からの大衆運動というがとれず,軍部・官僚などの国家機構によって推進された点から,「上からのファシズム」とされている。 本来,権力行使機関であるの国家組織がそのまま転用されて,新たな政治使命を付与されたもので,その国家機構を支えているものが天皇制であり,政治の主要部を占めたのが軍部であった。 軍部による対外侵略がに先行し,いわゆるファシズム体制は'40年のので成立したと考えられる。 出典 旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について 世界大百科事典 内のファシズム の言及 【チャップリンの独裁者】より …サウンド版の《モダン・タイムス》 1936 に続くチャールズ・の最初のトーキー映画。 チャップリンの4日後に同じ貧困と無名のうちに生まれ,チャップリンとはいわば正反対の方向に進んで世界制覇の野望に燃えたヒトラーとそのファシズムに対して,チャップリンが〈たった1人の戦争〉をいどんだ作品で,〈時代の歴史〉に対するもっとも痛烈な風刺喜劇として評価されている。 そもそもの着想はイギリスのプロデューサー,アレクサンター・によるもので,その内容が表ざたになると,駐英ドイツ大使の抗議,ヒトラーとゲッベルスからの直接的な圧力をはじめ脅迫状や製作中止勧告が相次いだが,チャップリンは独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の二役をみごとに演じて,誇大妄想狂の〈独裁者〉の内面をあばいてみせた。 … 【ドイツ零年】より …1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《》 1959 は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。 【柏倉 昌美】。

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