細川 藤孝。 細川藤孝のすべてを徹底解説!子孫・家系図や明智光秀との関係も紹介

麒麟がくる|細川藤孝・幽斎(眞島秀和)文武両道のエリートは世渡り上手な戦国のミスターパーフェクト

細川 藤孝

《天授庵所蔵の細川藤孝 幽斎 肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》 「貴様は主君を裏切った卑怯者だ! そんな奴には絶対に協力できない! 今後、貴様と私は敵同士だ!」 もっとも信頼し、長年ともに戦ってきた友人に、真っ向からそう言われたら、どんな気持ちになるでしょうか? 明智光秀は、もっとも信頼し、どんなときでも味方でいてくれると信じていた友人「細川藤孝」から、そう言われたのです。 しかし、これはあくまでも表向きの理由です。 藤孝の本心は、別のところにあったと考えられます。 「細川藤孝」の本音は、こうです。 「明智光秀には勝ち目はない。 羽柴秀吉や柴田勝家に、光秀は間違いなく滅ぼされる。 光秀に味方したら細川家も滅びかねない」 だから、光秀に味方すべきでないと判断したのです。 細川藤孝の子孫で、元総理大臣の「細川護熙(ほそかわ もりひろ)」氏が言うには、「本能寺の変」が起こったとき、藤孝は本拠地「丹後(京都府北部)」にいました。 信長が亡くなってからわずか「3時間」ほどで、細川藤孝は「本能寺の変」を知ったらしいです。 京都から100kmも離れた「丹後」へ、わずか「3時間」とは、凄まじい速さです。 このように、完璧ともいうべき情報網を構築していた藤孝は、周囲の情勢を細かく、しかも正確に分析を開始。 そうして導き出された結論が 「明智光秀に勝ち目はなく、光秀は天下を取ることができない」 というものだったのでしょう。 そこで藤孝は、「織田信長への敬意」を表すために、髪の毛を剃ってその死を弔ったのです。 そうすることで「光秀」と敵対する意思を明らかにしたのでした。 しかし藤孝は、予想に反して「光秀が天下をとった」としても、細川家が生き残れるように秘策を用意していました。 その秘策が、「明智光秀」の娘であり、藤孝の息子「忠興」の妻「ガラシャ(玉)」だったのです。 藤孝が用意していた秘策とは? 藤孝は「ガラシャ」を、「明智光秀が天下を取ったときのため」の秘策として温存していました。 もしも「明智光秀」が天下を取ったとしても、光秀の娘「ガラシャ」に光秀を説得してもらい、細川家を許してもらおうと考えたのです。 その証拠に、細川藤孝・忠興親子は、謀反人「明智光秀」の娘である「ガラシャ」を「追放」するでもなく、「処刑」するでもなく、ただ「幽閉」していました。 こういう場合、通常は「実家へ送り返す」のが当時の常識でした。 例えば、「明智光秀」の長女が「荒木村重」の息子「村次」に嫁いでいました。 その「荒木村重」が「織田信長」を裏切って謀反を起こしたのです。 そのとき、「荒木村重」は息子の妻である「光秀の娘」を、光秀のもとへ送り返しています。 「明智光秀」の長女は直後に「明智秀満」と再婚し、荒木村重との関係を断ち切っています。 「関ヶ原の戦い」で、少数の軍団で徹底抗戦した猛将「細川藤孝」が、そう簡単に降伏したとは思えません。 丹後の居城に籠城して、光秀と戦いながら、「柴田勝家」など、織田家の援軍をまつ戦略を描いていたはずです。 しかし援軍が来なかったら、藤孝は「ガラシャ」をつかって光秀との関係を修復しようとしたでしょう。 そうして生き残ることで、なんとか「細川家」の家名を存続しようとしたはず。 光秀も、娘の嫁ぎ先であり、盟友「細川藤孝」が降伏したら、命や領地まで奪おうとはしなかったはずです。 そんなしたたかな細川藤孝のことなので、「明智光秀」に一度は降伏しても、光秀の旗色がわるくなったら、即座に裏切っても不思議ではないと思います。 もしも「明智光秀」が、「羽柴秀吉」に勝利したあと、「柴田勝家」や「徳川家康」に敗北していたとしたら、細川藤孝は「柴田」「徳川」へと乗り換えていたと思います。 もしも「細川藤孝」が「明智光秀」に味方していたら、どうなっていた? もしも「細川藤孝」が「明智光秀」に味方していたら、歴史はどうかわっていたのでしょうか? あれほどあっけなく光秀が敗北することはなかっただろうと思います。 光秀は、もっと生き残ることができたかもしれません。 だが、天下にはとどかなかったでしょう。 「本能寺の変」は、あまりに無計画で無謀な行為でした。 「織田信長を倒す」ことまでは鮮やかで見事だが、「信長を倒したあと」については、まったくの無計画で、行きあたりばったりです。 細川家は、当時10万石ほどの領地しか持っていませんでした。 そのため軍勢も「3千~6千」がやっとだったはずです。 そんな軍勢では、焼け石に水。 とはいえ、「山崎の戦い」で、あれほど明智光秀に味方が集まらなかった理由は、「細川藤孝が光秀に味方しなかったこと」が大きいです。 「娘の嫁ぎ先である細川家からすら見捨てられた明智光秀。 もはや味方する者などいないだろう」 細川藤孝に見捨てられたことにより、周辺の武将はそう思ったのです。 そのため「高山右近」「中川清秀」「筒井順慶」は、早々に光秀を見捨ててしまったのです。 もしも「細川藤孝」が光秀に味方していたら、これらの武将のなかにも光秀に味方してくれたかもしれません。 しかし、それでも「天下」を取ることは難しいです。 「羽柴秀吉」を倒しても、「柴田勝家」「織田信雄」「徳川家康」などの軍が、光秀を囲んでいたのですから。 いわば「光秀包囲網」を、形成していたのです。 「毛利輝元」「上杉景勝」「長宗我部元親」「北条氏政」と協力したとしても、光秀にこれらの敵をすべて倒すことができたとは、考えにくいです。 光秀は「根回し」があまりにも足りなかったということです。 情報漏えいのリスクはあるものの、「毛利」「上杉」「長宗我部」「北条」へと、しっかり根回しをして、協力して織田信長を倒していたら、天下も取れたはず。 とはいえ、「情報漏えい」の危険性を考えれば、それは「至難の業」なのですがね。 「本能寺の変」の真相とは?細川藤孝は黒幕だったのか? 今も謎に包まれている「本能寺の変」。 この謎の真相は、合計で50以上の説が唱えられています。 【 2014年】に発見された新文書により、最近では「四国説」と呼ばれる説が、もっとも有力とみなされています。 しかし、その他にも魅力的な説が数々となえられています。 中でもオススメしたい説は、作家「安部龍太郎」氏による「複数の黒幕説」。 「安部龍太郎」氏は、「イエズス会」や「朝廷」など、複数の黒幕が複雑に絡みあい、信長を死にいたらしめた、という説を唱えておられます。 もう一つが「明智光秀」の末裔「明智憲三郎」氏による「徳川家康・共謀説」です。 安部龍太郎氏は、自らが執筆した書籍「信長はなぜ葬られたのか」の中で、「近衛前久を中心として、複数の黒幕が共同して信長を暗殺した説」を唱えておられます。

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細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)とは

細川 藤孝

細川藤孝は元々、室町幕府幕臣(申次衆)の三淵晴員 和泉守護細川元有の子)の次男で 和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子になったので、元々和泉半国守護に補任され、阿波国・讃岐国・伊予国を支配していた大家なので本家の細川家が没落していって没落したままだっただけです。 また藤孝の生母は後妻の智慶院(清原宣賢の娘)で、彼女は足利義晴から下げ渡され晴員の妻となったため、一説には藤孝は義晴の落胤であるという血筋です。 また、細川藤孝は田辺城の戦いで才を惜しんだ後陽成天皇が勅命をだすほどの人物です。 剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人でもあった。 剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘、吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。 膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。 また、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたという。 三条西実枝に古今伝授を受け、その子三条西公国とさらにその子(実枝の孫)三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承した。 当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いの際、後陽成天皇が勅命により幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためだといわれる。 門人には後陽成天皇の弟八条宮智仁親王、公家の中院通勝、烏丸光広などがおり、また松永貞徳、木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。 島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が足利義昭に仕えていた頃から交流があった。 引用wikipedia.

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細川藤孝のすべてを徹底解説!子孫・家系図や明智光秀との関係も紹介

細川 藤孝

『麒麟がくる』で眞島秀和演じる細川藤孝は、戦国時代きっての文武両道エリートして知られる。 さばかりか、室町幕府奉公衆として仕えながら、戦国の荒波を巧みに乗り越えて、子孫は、肥後熊本藩54万石の大大名として家名を伝えた。 昭和・平成期には第18代当主・護熙が参院議員、熊本県知事を経て衆院議員に転じて、内閣総理大臣に就任している。 藤孝から始まる細川家の華麗な足跡を辿る。 * * * 細川藤孝(後の幽斎)は、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流歌道伝承者・三条西実枝(さんじょうにし・さねき)から歌道の奥義である〈古今伝授〉を受けた。 古今和歌集の解釈を師から弟子へと秘伝として伝えられたもので、藤孝の才能の高さがわかる。 一方で、塚原卜伝から剣術を学んだ剣の達人としても知られる。 室町幕府13代将軍足利義輝とは剣の同門である。 弓術や蹴鞠などにも長けた万能エリートだった。 明智光秀とは、光秀息女の玉(後のガラシャ)を嫡男・忠興に嫁がせるなど、親しい存在だった。 本能寺の変後に、光秀は足利義昭を京に迎え、室町幕府を再興したうえで、藤孝嫡男の忠興を管領につけようと画策していたとも伝えられる。 それだけ、光秀から頼みにされていたにもかかわらず、藤孝は出家してしまい、光秀の前から姿を消す。 〈秀吉にリークしたのは藤孝?〉という説も根強い。 藤孝の嫡男・忠興は、〈利休七哲〉のひとりに数えられる茶人大名。 医道への造詣が深く自ら薬を調剤したという。 忠興三男で初代熊本藩主の座についた細川忠利は、小倉藩主時代に国産ワインの醸造に挑戦したことがわかっている。 細川家の膨大な古文書群を丹念に調査している熊本大学永青文庫研究センターによって近年明らかにされたもので、キリスト教が禁教となるまで、忠利はワイン作りに執心していたという。 忠利の母は、光秀息女ガラシャなので、光秀の孫が国産ワイン醸造に励んでいたと考えると面白い。 忠利以降の熊本藩主も相撲を後援した綱利、蘭癖大名とあだ名された重賢などが出た。 明治に入ってからは、日本美術刀剣保存協会初代会長・細川護立が有名だ。 「美術の殿様」と呼ばれ、目利きとして知られる白洲正子は、護立の家にも足しげく通い、古美術について学んだといわれる。 発足時の『白樺』同人で、志賀直哉や武者小路実篤らのパトロンとしても知られる。 護立の子・護貞は、戦前の近衛文麿内閣で首相秘書官を務めた。 息子・護熙の政界入りには反対の立場をとった。 1993年に自民党政権を倒して首相に就任した護熙は、陶芸家として活躍する一方で、世界遺産・薬師寺(奈良市)の襖絵を手がけるなど、藤孝以来の文化人としての血脈を今に伝えている。 『麒麟がくる』で展開されている、細川藤孝、三淵藤英、松永久秀、明智光秀らの〈戦国青春グラフィティ〉で、後世まで家名を伝えたのは藤孝のみである。 文/一乗谷かおり.

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