ヨナ書 あらすじ。 【あらすじ】あの有名な『ピノキオ』って、ホントはどんな話?意外と知らない原作のストーリーがこちら・・・

ヨブ記

ヨナ書 あらすじ

構造 [ ] 『ヨブ記』は平易なヘブライ語で書かれており、• 散文調の導入(1:1~2:13)及び終結(42:7~42:17)• ヘブライ語独特の韻文調の議論(3:2~42:6) の2つに大きく区分される。 原典はであるが、との相違点はほとんどなく、長期にわたって正確に伝承されてきたといえる。 散文調と韻文調の表現方法の相違はの間では久しく知られていた。 このため散文に用いられる(抑揚記号)の形式を決定するのとは別に、詩文学(『ヨブ記』、『』、『』)のためのタアミームについても議論を重ねることになった。 また、この相違によって『ヨブ記』の執筆には多数の著述家が関わっていると結論する研究がもたらされたりもした。 文書に不整合があり、『ヨブ記』は複数の別文書を編集して作成されたのではないか、エリフや神の示現は後世代の追記ではないか、難解な表現はアラム語やセム語等の転写ではないか等の議論が絶えず、元々複数の文書であったものを、の時代から紀元前数世紀の長期にわたって一つの文書にまとめ上げられたのではないかとも考えられている。 なお『ヨブ記』には一般的に悪魔の王と思われているが神 の前に現れている。 内容 [ ] 導入部 [ ] はの地の住民の中でも特に高潔であった。 彼は七人の息子と三人の娘、そして多くの財産によって祝福されていた。 ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前にほか「神の使いたち」(新共同訳)が集まっていた。 主はサタンの前にヨブの義を示す。 サタンとてヨブの義を否定することはできないが、サタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘する。 サタンの試みは、ヨブの無償の信仰及び無償の愛の世界観の否定である。 神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受け入れて財産を奪うことを認め 、ただし、命に手を出すことを禁ずる。 サタンによってヨブは最愛の者や財産を失う が無垢であり罪を犯さなかった。 サタンは最初に敗北する。 サタンは、試みが徹底していなかったため、今度はヨブの肉体自身に苦しみを与えようと、再度神に挑戦をする。 サタンは神を挑発して、さらにヨブ自身に危害を加える権利を得て、サタンによってヨブはひどい皮膚病に冒されてしまう。 当時の社会情勢下では、皮膚病は社会的に死を宣告されたことを意味し、ヨブは灰の中に座っていた。 ヨブの妻まで神を呪って死ぬ方がましだと主張するようになるが、ヨブは次のように答えて退ける。 「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。 」 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。 — (2:10) 、『』より引用。 (以下、引用はすべて新共同訳) 神はサタンに勝利する。 そして、壮絶な韻文調の議論が展開される。 三人の友人との議論 [ ] その後、ヨブの三人の友人、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルが彼を慰めるべく、それぞれの国から旅して来た。 社会的に死を迎えているヨブを訪問する行為は賞賛に値する行為である。 彼らは7日7晩、ヨブとともに座っていたが、激しい苦痛を見ると話しかけることもできなかった。 やがて友人たちはヨブに、ヨブがこんなに悪い目にあうのは実は何か悪いことをした報いではないか、洗いざらい罪を認めたらどうかと議論し、身に覚えのないヨブは反発する。 ヨブに襲い掛かるサタン 傾向 [ ] 彼らが交わした議論は主題ごとに五つの区分に分けることができる。 この議論の後、の主張(ただし、ヨブはそれに対して何も答えない)、神の応答と続く。 この一連の議論にはいくつかの傾向がうかがえる。 三人の友の中ではエリファズが筆頭であり、聖職者であることがうかがえる。 それにビルダド、ツォファルが続く。 倫理的には、明らかに悪循環に陥っている。 」(27:7)と答えるほど雰囲気が険悪化している。 議論の進展に伴い、抽象論から具体的に的を射たものになっていく。 宗教的指導者と苦境にあるもの代表としてのヨブとの議論であり、ヨブは前者の説教への疑問を呈しており、本来は自分の主張は宗教観に含まれるべき(聞いてもらうことが慰め )と主張している。 議論の内容 [ ] サタンの試練に遭って、苦しみの中でヨブは憂鬱な態度で自分の生まれた日を呪い(混沌に帰したい)、死以外の解決方法を見いだせないでいた。 三人の友人はエリファズを筆頭に、慰めを兼ねて因果律を説く。 三人の友人の主張は、前述のサタンの主張と関連 しており、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。 )を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものであった。 しかし、ヨブには思い当たるふしがなく、えん罪を主張する。 仮にヨブが罪を認めて元の境遇に戻してもらうよう祈った場合、利益のための信仰でありサタンが勝利する。 混沌に帰すことは神に対する冒涜とも考えられるが、サタンは勝利宣告をしていない。 複数の文書の編集故か不明であるが、少なくとも形式的な倫理が主題ではないのかも知れない。 また、友人との議論の段階では、自らの境遇の変化に対して心理的に後退しており、受け入れ方に若干の相違がある。 友人たちは、神はこの世を正しく裁いており、その裁きに疑念を抱く余地はないと執拗に繰り返し、ヨブが罰せられた以上、彼は間違いなく何らかの罪を犯したのであるから、神と和解して正しい教えを抱き祈るのが答えであると諭す。 また、神の前では正しい人間など一人もおらず、それぞれがその罪に応じた罰を受けるものであると主張する。 ヨブは神だけが把握している認識できない罪まで問われるのは正当でないと反論する。 当初からヨブは無垢な信仰を持っていたが、サタンによる試練や友人との議論をきっかけに、災いと罪との安易な関連づけに疑問を持ちながら、神自身の登場を待つところまで信仰について深く踏み込んでいく。 ヨブは議論を経て、塵である自らを(無償で)贖う方の存在を予告し、因果応報と異なる世界観の存在を宣告する。 エリファズの主張は三人の友人の議論を先導しており、ヨブが富んでいたことに対して、神の正義に照らした場合、本来は貧しい者の所有物を奪っていた行為によるものなのではないかと断言する。 双方は引けないところまで議論が進み、一方でヨブが、権力を持って生まれ非道に奪い抑圧する者によって、貧しく生まれ貧しく生きる無垢の人々が自分と共にいることを認識するに至り(24章の貧者の詳細が鮮明なのは、貧者の状況に目が行き届いていることを示している)、自分は因果応報の一般論だけではなく、どこかに結論を得なければならないことを知り、三人の友人に比べて言葉を増すようになる。 ヨブは自らの正しさを確信し、友人は沈黙する。 それに対してエリフが怒る。 【新約聖書と貧困・災難や社会正義の関連】• 貧困や病苦の存在と因果応報に関する友人との議論は、当時のユダヤ人の宗教的指導者及びユダがイエスの十字架による救いではなく政治的な栄光による救いを求めていたことを連想させる。 イエスは積極的に貧困や悲惨を肯定的に捉えている。 社会正義については、イエスは毒麦は刈り入れまで待つと言及している。 【新約聖書における因果応報と災いの考え方の例】• 因果応報による例• イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 (ルカ5:20)• その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 (同5:25)• 因果応報によらない例• 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。 それとも、両親ですか。 」(ヨハネ9:2)• 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。 」(同9:3) エリフの主張 [ ] 三人の友は受けた災いの故にヨブを断罪するが、それに対してヨブは自らの神に対する潔白を主張し、なおかつ正義を盾に引き下がらない。 このような堂々巡りのまま彼らがヨブの説得を果たせずにいるところにエリフが登場し、ヨブの罪を示せなかったことに憤慨しながら意見を述べる。 エリフはヨブには罪があるかどうかは神が判断することであって、議論の方法に問題があると主張する。 仮にヨブの主張を認めると、神の正義は完全でなくなり、神の倫理が無秩序なものになってしまうことに憤慨している。 ただし、エリフの主張は、神の万能性に倫理の根拠を置いており、倫理的な関連性についてではなく形式的な視点に基づいており、文章中の情報から評価することは難しく、文章中から明確な論点が導き出せる場合を除いて、詳細な解釈は避けた方が無難である。 神の応答 [ ] 言葉を尽くしたヨブは、この苦難に関する疑問を保留すると、内なる声に耳を傾ける。 そのとき、嵐の中から神自身がヨブに顕現する。 神は二度語る。 ヨブは知識が欠如している が正しく語った と神は評価している(因果応報が究極ではないということ)。 神はヨブに戦いとして 逆説的な質問を投げる。 神は最初に、(人は神が創造した最高傑作であるものの)神の計画の主人公ではないどころか創造に全く関与しておらず 、神の活動の目的は人間の活動を超越したところにあることを指摘する。 ましてや、神の性格を人間が決めているのではない。 やという最も強い獣を象徴する(空想上の)動物の解釈は様々であるが、素直に各々の動物の性質や物語の意義を考えて、(ヨブが遭遇した)混沌・災い(をもたらす動物)も神の創造の活動の一部であると理解することもできる。 世界には人が思い通りにならない災いがあるが、世界は災いではなく、すべては神の支配下にある。 ヨブは、神には計画が成就されつつあることを知り、新たな発見があり、神に出会えて喜び、自分の神への失礼に気づき塵と灰の上で伏して自分を悔い改める。 ヨブの不満はなくなった。 神の正義も災いも、無償の愛に起因して、無償の愛の中に成立している。 (「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。 」(2:10)と述べたヨブの正しさに帰結する。 ) エピローグ [ ] 物語の結末において神の怒りは三人の友に向けられている。 ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。 — (42:17)• ヨブは災難の後に財産を二倍にされて境遇が以前より優れているのは、物語の構成上に違和感があるが、最低限の価値としてのわかりやすさを優先しているのかも知れない。 永遠の観点からはヨブの信仰の価値としては低すぎると考えられるが、ヨブの一生で表現しなければいけないという物語の制約が大きい。 ヨブは140歳まで生きているが、ノアの時代に人の一生が120年とされ 、ヨセフ110歳 、モーセ120歳 、ヨシュア110歳 に比べても、主によって寿命が加えられている。 全体の構図 [ ] とは「どこから来たのか」という共通する問いかけに対して、は「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 」 と主張するのに対して、は「地上を巡回しておりました。 」 と異なる主張をするように、自分と創造主との関係の認識に相違がある。 これが38章以降の主の応答の中で活きており、ヨブは自分自身が創造主に与えられた客体に過ぎないことを理解する。 ヨブは自分の出生を呪い 、苦痛のために元の塵に戻りたいと考えているが 、エリファズは、塵から災いは出てこないとヨブの主張を否定して 、地上的な願望のために神との和解を求めている。 三人の友人はよく地上の世界観を理解してヨブに説いているが、世界の境遇は人間の善悪の帰結であると説明して 、神から与えられた人生の中に罪を見いだそうとする(塵に過ぎない人間が、自分を我がものにする不幸と罪がある)。 エリフはヨブに対して言葉は激しいが、ヨブと世界観は共有し 、へりくだり待つように伝え 、憐れみ深い人を苦しめない とヨブに伝え、主を待ち望む。 ヨブの主張である「不遇も含めて、創造主から人生全てが与えられていること」と 、三人の友人が神から与えられる人生を自分本位に善悪を判断している傾向が浮かび上がる形で、創造主の応答が外挿されており、最終的に、主がヨブは正しいと三人の友人に説明する。 財産を倍にされた後、ヨブは塵にかえり 、ヨブの主張のとおり、全てが主へささげられる。 『ヨブ記』の伝統的な解釈 [ ]• によるいくつかのにおいては、ヨブはの祭司と同時代の人物で、彼と同じくの宮廷で仕えていたとされている。 一方では、その説に疑問を呈するに及んで「ヨブは実在の人物ではなく寓意に過ぎない」という伝統的なそれとは趣を異にする見解を提示している。 『ヨブ記』では、神の創造の計画は人間の理解を超えているので、義人の苦難という問題は理解の外にあるものとして位置づけている。 文章上は、人間が生きている世界は神だけでなくサタンの支配も及んでおり、場合によっては正義が災いを受けて悪が栄えることもあるが、最後は神の影響力が勝利すると理解することができる。 サタンが冒頭だけで、他は出てこないところも意味深長である。 ただし、神とは何か、サタンとは何か、神とサタンは同じものなのか等の様々な疑問は残るところで、ヨブ記には、(本来は記述すべきであった)記述しきれない情報が大量にあることも理解しておく必要がある。 ラムバン()の見解によれば、ヨブはの思想を示唆していたのであり、それこそが勧善懲悪の問題に対する真の解答になるとしている。 彼以外の注釈者たちも『ヨブ記』には来世についての暗示があると強調しているのだが、実際のところ同書には輪廻転生の思想を匂わす記述は見当たらず、あべこべに、ヨブには人間の希望が死後にあることを否定している節さえ見受けられる。 」 — (14:11~14:12)• 別の注釈では、『ヨブ記』は勧善懲悪の問題に対する解答をはぐらかしているのではなく、神の権威を示すことこそが同書の本義なのであり、その思想は後半部の自然界、動物界に関する描写に反映されていると述べている。 また、人間同士の議論を経たところで神の営みを理解することは不可能であり、とにかく人間は、神の崇高さを前にしては謙虚に振舞い、些細な事にも気を配らねばならないと説いている。 『ヨブ記』の成立年代についてはタルムードの中で繰り返し議論されている。 最も早期に見積もる説ではヨブの生きた時代をとしており、それ以外にはの時代、の時代を挙げている。 『ヨブ記』に関する批判的な意見 [ ]• 神とサタンの対話、ヨブの試練に関する両者の合意、及びヨブが自らの苦難に対する報いを受け入れる大団円の場面は、いわゆるの枠に該当すると見なされているのだが、そもそもはこの枠の部分が単独の物語として存在し、それが伝承される過程で詩文学の章句が組み込まれたとする説がある。 また、この枠の部分は偶像崇拝のモチーフが混在しており、実際、の神話との類似性が認められてもいる。 『ヨブ記』には旧約聖書の他の書物には見られないがために語義を正しく確定できない単語が多すぎる、という点が指摘されている。 また、ヨブ記の難解な点を説明する偏った見解として、同書がから翻訳されたとするものがあり(この説はすでにによって提示されている)、さらには多くの章句が様々な言語によって解釈できるとしている。 例えば30章24節の前半は以下のようになる。 『』 バーバー・バトゥラ 14. 1:12• 1:13~19• 1:22• 2:5• 2:7・8• 2:11• 2:13• 5:27• 21:2• 19:22• 9:17~35• 19:25• 22章• マタイ5:3~12、19:23等• マタイ13:30• 38章・39章及び40:7~41章• 38:2• 42:7• 38:3• 38:4~11• 38:12~20• 38:25~41• 39:5~12• 39:15~25• 40:2• 40:4・5• 40:9~14• 42:1~6• 創世記6:3• 創50:26• 申34:7• ヨシュア24:29• 1:21• 1:7• 40:4、42:6• 3:1• 7:21• 5:6• 18:2、22:30• 34:15• 35:14• 37:23• 2:10• 42:7• 42:17• バーバー・バトゥラ 15. 71~15. 72 参考文献 [ ]• [訳] (1971年) 『旧約聖書 ヨブ記』 <岩波文庫> 岩波書店• [著]、斉藤武[訳](2008年) 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』 <岩波現代文庫> 岩波書店• , New York. 関連項目 [ ]• ウィキソースに の原文があります。 ウィキソースに の原文があります。 外部リンク [ ]• 『ヨブ記』が書かれた内容とその解説。

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ヨブ記

ヨナ書 あらすじ

緒論 [ ] 構成 [ ] 構成は、大きく分けて2部に分かれている。 前半(1~2章)は、ヨナ自身の悔い改めの物語を描き、後半(3~4章)は、ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたことと、その後日談が描かれている。 主人公 [ ] 旧約聖書・によると、ヨナ書の主人公であるアミタイの子ヨナは、預言者として、(周囲の国々からの圧迫が減り、それによって)イスラエルの領土が回復することを預言している。 間もなく、イスラエル王統治下で、イスラエルは実際に失地を回復している。 主題 [ ] ヨナ書の主題は3つある。 宣教者として神の指示に従わなかったことと、の人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (= 神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられる (=間違った選民思想を正し、異邦人に対する偏見を捨てる。 神に仕える者としての考え方を正す) である。 神学 [ ] 神学的にはの否定の外に、「神は、1度言ったこと(ニネヴェを滅ぼす)は必ず実行する・実現する」という信仰(神の不変性の神学)に対して、「神は、一旦言ったこと、決めたことでも、考え直す、変更する」という信仰(神の可変性の神学)が基盤にあると思われる。 成立年代 [ ] 『ヨナ書』がいつ書かれたのか正確な年代を特定することは難しい。 伝統的には、預言者ヨナが実際に活動した前半と考えられてきた。 ニネベの悔い改めについて語っていることから、どんなに遅くとも、の(滅亡)の前であることは間違いない。 また、ニネヴェが悔い改めたために滅ぼされなかったという内容から、ニネヴェ陥落の直前とは考えにくいことから、遅くとも、中ごろまでであるように思われる。 物語 [ ] 『ヨナ書』の主人公はアミタイの子、預言者ヨナ(イオナ)である。 ヨナは、神から、イスラエルの敵国であるの首都に行って「(ニネヴェの人々が犯す悪のために)40日後に滅ぼされる」 という預言を伝えるよう命令される。 しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対の方向のに逃げ出す。 このため、神は船を嵐に遭遇させた。 船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったかくじを引く。 そのくじはヨナにあたったので船乗りたちは彼を問い詰めると、彼は自分がヘブル人で海と陸を造られた天の神、主を畏れていることを告白する(神から逃げていたことは既に話してあった)。 ヨナは自分を海に投げれば嵐はおさまると船乗りたちに言う。 最初、船乗りたちは陸にたどり着こうと努力したが、激しい嵐のためできず、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込んだ。 ヨナは神が用意した大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたが、神の命令によって海岸に吐き出された。 ヨナは悔い改め、ニネヴェにいって神のことばを告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改めた。 指導者はニネヴェの人々に悔い改めとを呼びかけ、人々が実行したため、神はニネヴェの破壊を考え直して、中止した。 ヨナは、1度滅ぼすと言ったがそれを中止し、イスラエルの敵であるニネヴェの人々をゆるした神の寛大さに激怒する。 ヨナがその後庵を建ててニネヴェがどうなるか見るためにそこに住んでいると、その横に(とも)が生えた。 ヨナはひょうたんが影を作り日よけになったので喜ぶが、神は虫を送ってひょうたんを枯らしてしまう。 ヨナが激怒して、怒りのあまり死にそうだと訴えると、神はヨナに向かい、ヨナがたった1本のひょうたんを惜しんだのだから、神が12万人以上の人間と無数の家畜がいるニネヴェを惜しまないことがあろうかと諭す。 イエスの説教における引用 [ ] ではがヨナの名前に言及する場面がみられる。 たとえば(、)や()で、イエスはしるしを求める人にむかって「ヨナのしるし」のほかには何のしるしも与えられないと言っている。 では伝統的に、ヨナが魚の腹にいた3日3晩とイエスが死んでから復活するまでの3日間を対応するものとしてとらえてきた。 そのような解釈からの当該部分はヨナの体験を自らの死と復活のとしてイエスが語っているというふうに理解されてきている。 後代への影響 [ ] イスラエルの神である「唯一の神」の慈悲が、イスラエルの民()のみならず、他の国の人々(異邦人)におよぶ事を示す。 同時に、異邦人(非ユダヤ人:の人々)の方が神の意思に従っており、むしろ、ヨナに代表されるユダヤ人の方が神の意思を理解できていない事を示している。 この考えは後にに引き継がれ、(後のキリスト教としての)神の意思は、ユダヤ人には受け入れられず、むしろ、異邦人に受け入れられるという認識となり、キリスト教はその様に広まって行った。 (パウロがヨナ書の影響を直接受けていたかどうかは疑わしい。 新約聖書のは神による直接的な介入があったことを表している。 ) ヨナがイエスの死と復活のと捉えられたことから、(ビザンティン典礼)においては、のの8つの歌頌のうち、第6歌頌中のにおいてヨナを記憶する。 ではロシア風再建音を採って「イオナ」と祈祷書中に記載され、同教会のでも「イオナ」と歌われる。 系のキリスト教会(特に)では、ヨナ書はの物語として読まれることが多く、弱くても神の援助によって宣教するキリスト者の姿を描いていると解釈されている。 新聖歌488番でも、そのように歌われている。 同じ話がの『(コーラン)』にもみられ(クルアーン第10章)、ヨナは預言者の1人という名前になっている。 脚注 [ ].

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[ヨナ②] ヨナの時代について 〜地理〜

ヨナ書 あらすじ

ある日のこと。 大工のチェリーはぐうぜん、言葉を話す丸太の棒を見つけます。 斧を丸太めがけて振り下すと「痛い」と言うし、カンナを掛けると「くすぐったい」と笑います。 その丸太の棒は、人形の材料を求めてやってきたおもちゃ職人、ゼペット爺さんの手に渡ります。 ) こうして世に生を受けたピノッキオでしたが、その性質はあまり褒められたものではありませんでした。 作ってもらっている間中も落ち着かず、手足が付いて歩き方を教わった途端、ジェペット爺さんのもとを逃げ出します。 探し回ったジェペット爺さんは、ようやくピノッキオを捕まえることができましたが、人形を虐待していると疑われて警官につかまり、牢屋に入れられてしまいます。 ピノッキオはと言うと、これ幸いと自由に怠けて暮らそうと考えます。 ピノッキオは自分だけで自由気ままに暮らそうとしましたが思うようにいかず、困っていても助けてくれない世間の冷たさに打ちのめされます。 しかも濡れた足を焚き火で乾かしていて、両足を燃やして無くしてしまいます。 困り切ったピノッキオ。 そこへ、警察から釈放されたジェペット爺さんが帰ってきます。 ピノッキオは新しい足をつけてくれたジェペット爺さんの温かみに触れ、心を入れ替えて真面目に勉強する決心をします。 学校へ通うには、ABCの教科書が必要でした。 「わしに任せておけ!」とジェペット爺さんは外へ出かけていき、寒空にシャツ一枚で帰ってきました。 唯一の上着を売り、そのお金で教科書を買ってきたのです。 ジェペット爺さんに感謝して、学校へと向かうピノッキオに、最初に訪れた大きな試練。 それは、賑やかな「人形芝居小屋」の誘惑でした。 教科書を売れば、そのお金で芝居小屋のチケットが買える・・・なんて考えていたピノッキオでしたが、結局芝居小屋に引きずり込まれてひどい目にあってしまいます・・・。 ピノッキオは自分で動くことはできても頭は人形なので、騙されてばかりいます。 良いことと悪いことの区別もつかないので、正しい判断というものが何なのか全然わかっていません。 いろいろとひどい目にあった挙句に、芝居小屋の人形たちの助けもあって、やっとのことで解放されたピノッキオ。 芝居小屋で手に入れた5枚の金貨とともにジェペット爺さんのもとへ帰ろうとしますが、今度はきつねと猫に騙され、またまた苦難の道へと進んでいきます。 ジェペット爺さんはというと、行方知れずになったピノッキオを探すために旅に出て、ボートで海に出たまま消息を絶ってしまいます。 ・・・・・。 その後もピノッキオは、失敗しては反省しての繰り返し。 今度こそ心を入れ替えて学校へ通い、勉強に専念して成績を伸ばします。 でもある日、仲の良い友達が「遊んで暮らせる国へ行くんだ」と言い出し、誘われて一緒に行ってしまいます。 その国は子供たちが遊んで過ごせる楽園でしたが、長い間いるとピノッキオの身体はだんだんとロバに変わっていってしまいました。 遊んで暮らせる国いうのは子どもたちをだます口実で、その実態は、怠け者の子どもを子ロバに変えて売り飛ばすのが狙いだったのです。 まんまとだまされて子ロバになってしまったピノッキオは、サーカスに売られますが、そこで足を痛めて使い物にならなくなり、ついに海へと放り出されてしまいます。 海で必至に泳いでいるうちに。 魚に突っつかれて人形の姿に戻れたピノッキオ。 でも今度は、巨大なサメに飲み込まれてしまいます。 そして大ザメのおなかの中で出会ったのは、行方不明になっていたジェペット爺さんでした。 ジェペット爺さんを背負って大ザメのおなかから逃げ出したピノッキオは、同じくサメのおなかにいたマグロに助けられながら陸へとたどり着きました。 それ以来、今度こそ心を入れ替えたピノッキオは、身体の弱ってしまったジェペット爺さんを労りながら、人助けをしたり、まじめに働いたりする日々を送ったのでした。 そしてある晩、夢の中に妖精が出てきます。 「あなたは本当にいい子になりましたね」と妖精はピノッキオを褒め称えます。 そしてその翌朝目が覚めた時、ピノッキオの姿は・・・。 正しい行いとはどういうものか、頭でわかるというよりも経験で身につけたピノッキオは、そのご褒美として妖精から魔法をかけてもらいます。 ピノッキオが学んだことは賢さや容量の良さではなくて、優しさや思いやりといった心の温かみなのでしょう。 学校に行っていただけでは身につかなかったことかもしれません。 原作『ピノッキオの冒険』の内容は、ディズニー作品とは少々異なり、社会風刺を含み、子供向けには結構きつめと思われるような物語です。 ピノッキオは何度も失敗を繰り返す人間の子供そのものであり、そのたびに残酷とも思えるような仕打ちを受けます。 「こども新聞」への連載ということもあり、教訓的な意味合いが濃かったのだと考えられています。 しつけを兼ねていたのですね。 実は初回連載では、狐と猫にだまされて木に吊るされてナイフを刺されたピノッキオが死んで物語が終わってしまうという、現代では考えられないようなストーリー展開になっていました。 これには読者の苦情が殺到。 慌てて再連載し、ピノッキオを生き返らせて、現在の物語のような話の流れになったそうです。 死んでしまっては、元も子もありません。 『ピノッキオの冒険』は各国で手が加えられたり、残酷な描写が省略されたりしています。 また翻訳者によっても解釈が異なったりで、物語の内容も様々なパターンがあります。 それでも共通するテーマは「正しい心を持てば幸せになれる」ということ。 変わることなく伝えられ続けるテーマです。 楽天で購入 原作ではあっさり死んでしまうコオロギも、ディズニー作品ではピノキオの良き相棒で彼の良心とされている ジミニー・クリケットとして重要な役割を担っています。 ちなみに劇中でジミニー・クリケットが歌う『星に願いを(When You Wish Upon a Star)』は、第13回アカデミー賞の歌曲賞を受賞し、現在も名曲として親しまれています。 原作と異なる設定は他にもたくさんありますが、サメではなくてクジラだったり、ネコやキツネ、人形劇団の親方等、主要な登場人物に名前が付いていたり・・・。 ジェペット爺さんが飼っている猫や金魚にまで名前があります。 でも一番の違いは、ピノキオがピノッキオと比べて、見た目に愛らしいキャラクターだということでしょうか。 ディズニーが映像化していなければ、ここまでの人気は出なかったかもしれません。 ディズニーランドのアトラクション ディズニーランドには映画『ピノキオ』をモチーフにしたアトラクション『ピノキオの冒険旅行』があります。 映画の中でピノキオが初めて人形芝居のステージに立った際に共演した2体の操り人形の姿も見えます。 アトラクションでは、映画『ピノキオ』のストーリーに沿ってライドで進みながら、物語を疑似体験できます。 スタート直後から、ピノキオは早々にずる賢いならず者のJ・ワシントン・ファウルフェロー(キツネ)とギデオン(ネコ)に騙されます。 金儲けをたくらむストロンボリ親方や馬車屋もいます。 悪役のオンパレードです。 「喧嘩し放題の家」も・・・。 全体的に薄暗くて不気味な雰囲気なので、小さいお子さんにはちょっと(かなり?)怖いアトラクションかもしれません。 ご配慮ください。 アトラクション周辺のワゴンショップやプロップスにも、映画にリンクしたこだわりが見られます。 映画に登場する人形芝居小屋の親方ストロンボリは、アトラクション前にあるワゴンショップ「ストロンボリズ・ワゴン」に名前が使われています。 ちなみにこのワゴンショップは、よく見ると人形芝居用のステージワゴンの形をしています。 その横にあるドリンクショップ「クレオズ」の店名は、ジェペット爺さんの飼っている美しい金魚「クレオ」の名から。 ピノキオは他のアトラクションにも登場します。 「イッツ・ア・スモール・ワールド」に登場する人形たちの中に、 ピノキオの人形を持った人形が一体あり、見つけると幸せになれるとか・・・。 リニューアル後のコンセプトの変更次第ではもう見られないかもしれません。 ディズニーランド都市伝説はなおも継続中です。 その他の『ピノキオ』ネタ ・スピルバーグ監督のSF映画『未知との遭遇』では、主人公のロイ(リチャード・ドレイファス)が、「今週は映画を観に行く約束よ」と奥さんにせつかれ、新聞を見て「いい映画をやってる。 『ピノキオ』を観に行こう。 子供たちはまだ観てない」と提案。 でも奥さんは「嫌よ」、息子は「子供向けのマンガなんか観たくない」と却下されます。 ちなみに『未知との遭遇』のエンドロールでは『星に願いを』が流れます。 スピルバーグの『ピノキオ』へのオマージュだと言われています。 おわりに 世界中の子どもたちから愛されるピノキオ。 彼は「本当の人間の子どもになりたい」という強い願いを持ちながらも、誘惑に勝てなかったり騙されたりでなかなか思うように前へ進めません。 言ってみれば「ダメな子の見本」みたいなピノキオ。 誰が読んでいても、彼が本物の人間になれるなんて思いもしません。 それくらい騙され易いし、意志が弱いのです。 でもそのもどかしさや未熟さが見られるからこそ、誰もがピノキオに感情移入し、知らず知らずのうちに応援してしまいます。 そして最後に望みがかなった瞬間に心から喜べるのでしょう。 子どもの頃にアトラクションに乗ってトラウマになった、というような人も、今なら大丈夫。 もう一度体験してみてはいかがですか。

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