紫電 改 の タカ。 紫電改、最強伝説の謎に迫る

日本に唯一現存する戦闘機「紫電改」は愛媛県愛南町にあり

紫電 改 の タカ

ええっとですね、資料がどうにも見当たらないのですが、確か最初に特攻隊になった艦爆隊の隊長機は艦爆の世界で「神様」と呼ばれたエースだったそうです(名前がどうにも思い出せません)。 それで、その人はまあ当然爆弾を敵艦に当てて自分は生き残る自信は当然あったわけで、出撃の直前に「この俺がこんなものに出なければならないんだから、この戦争も終わりだ」というようなことを最後に残しているんだそうです。 なぜそんな非合理的なことをやったのかというと、まあ実に日本人的な話ですよ。 エースと呼ばれるパイロットでさえ特攻に出るんですから、他の奴が「特攻なんて嫌です」なんていえねーだろ、ということです。 「あの人さえ出たんだから!」というわけです。 んで、実際問題特攻つーのは大西瀧治郎をして「作戦の外道」といわしめるのですが、もう当時は特攻でも使わないとアメリカの軍艦を傷つけることができなかったんです。 またこれまた実に日本人的に発想すれば、こっちの部隊は特攻だけど、こっちの部隊は特攻じゃない、となると当然「そりゃ不公平だ」となると思います。 だから「みんな一緒に特攻しようぜ」となった部分もあると思いますよ。 エースといわれるのは規定以上の敵機を撃墜した戦闘機乗りで、攻撃機(爆撃機)のパイロットではありません。 よって爆撃・雷撃・体当たりといった訓練はあまり受けていませんし、原則として特攻には使われません。 というのも戦争末期になるほど防空任務は拡大されるわけで、特攻任務より重大な任務で人手がすべて奪われます。 四発重爆の生産が後回しにされても、戦闘機生産は最優先で進められるわけですし。 優秀な爆撃機・攻撃機パイロットを特攻に使ったかといわれると、一部そういう事例はあったものの多くはありません。 ただ先導機はある程度の経験が必要なわけで、やむなく優秀な人材をあてがったケースはあります。 攻撃の主体が特攻に移っても、通常攻撃をしている部隊は存続しているわけですし、偵察や味方艦の護衛といった任務がより重要なわけです。 結果的には生き残り暫く最前線での戦闘から干されましたが、あの坂井三郎も特攻で出撃しています。 特攻作戦がまだ組織的かつある意味冷静に作成されていた時期は、もちろん質問にあるような論旨で特攻作戦に反対する声も少なくはありませんでした。 しかし確実に大きな戦果を上げるには、それなりに航法や操縦の技術に優れた者を選別することが当然と思われていたのでしょう。 個人的には特攻作戦を思いついた時期というのは、通常の航空作戦で出撃しても結局は全滅する確率が高かったのですから、敢えて攻撃を終えて静観することを考えるよりは、死を覚悟しての片道攻撃のほうがはるかに大きな戦果が立てられると考えたのでも、それなりに無理もなかったのかもしれないと考えたりもします。 しかし当然ですが攻撃を終えれば帰られると考えるのと、もう二度と帰れないと覚悟して出撃するのとでは、士気という戦闘で第一に必要な要素からみればやはり愚策であったというしかないのかもしれません。

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笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊: 空のカケラ ライブラリ

紫電 改 の タカ

紫電改(しでんかい)は、期におけるのである。 紫電(N1K1-J)の二一型以降が紫電改と呼称される。 この項では紫電改と紫電をまとめて紹介する。 局地戦闘機は、水上戦闘機「」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は強風と同じく中翼配置の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(、)が特徴であった。 昭和19年4月7日第27号「航空機の名称」では「試製紫電改」は「試製の機体改造及兵装強化せるもの」として定義づけられており、昭和20年4月11日「海軍飛行機一覧表」における二一型以降(紫電改)は、「試製紫電改 二一型 」「試製紫電改甲 二一型甲 」「試製紫電改一 三一型 」「試製紫電改二」「試製紫電改三 三一型 」「試製紫電改四」「試製紫電改五 二五型 」が該当する。 名称 [ ] 「紫電改」の名称は、兵器名称付与標準に基づき兵器採用前の試製機として「試製紫電改」とされたもので 、「仮称紫電二一型」とも称し、兵器採用により「紫電二一型」となった。 日本海軍の搭乗員からは「紫電」と「紫電改」の呼称の他に 、紫電が「 J」、紫電改が「 J改」と呼称されることもあった。 343空の戦時日記でも「紫電改」「紫電二一型」の両方の記述があり、呼称は統一されていなかった。 連合軍側のは" George"。 紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識され、さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認報告されており、戦後になってから紫電が George11 、紫電改が George21と分類されて呼ばれた。 開発経緯 [ ] 強風から紫電へ [ ] 戦後アメリカに引き渡されてアメリカ本土でテスト飛行を行う紫電一一甲型(N1K1-Ja)。 主翼の中翼配置と二段伸縮式のが見て取れる。 1941年(昭和16年)末、(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、社長の下、次機種制作を討議した。 川西社内での陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった。 川西の設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長少将に計画を提案。 三菱で開発の進められていた局地戦闘機「」と零戦の後継機「」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は 川西の提案を歓迎し 、その場で承認された。 しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ 、(昭和17年)4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた。 完成を急ぐため可能な限り水上戦闘機「強風」の機体を流用することになっていたが、実際にはを「」から大馬力かつ小直径の「」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった。 しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型もで開発されたLB翼型()が強風より引き継がれている。 自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。 1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場(現在の)で初飛行を行ったが 、当初から「誉」の不調に悩まされた。 川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き 、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている。 搭乗員の岩下邦夫大尉はエンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労したという。 紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、の主脚にある程度の長さを必要としていたが、長すぎると格納時に多くの空間を占有するのが問題となったた。 そこで主脚を二段式とし油圧で伸縮する機構を採用した。 試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された。 ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった。 脚部収納にかかる時間は、零戦が12秒に対し紫電改は9秒と若干短縮されている。 また着陸時には引き込み脚部のトラブルにより、343空戦闘301隊では(昭和20年)1月1日から8日にかけて、3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っている。 離着陸時の事故の多発、前方視界不良、米軍新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。 計画では最高速度653. 8時間という性能だった。 速度低下の原因は、が100の燃料を節約するため92オクタンで代用したこと、翼下面に20mm機銃をおさめたポッドを装着したことによる抵抗力の増大等が指摘される。 しかし試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた。 これは、従来の海軍主力戦闘機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、ようやく完成した雷電の実戦配備が遅れていたことが主な原因である。 だが、紫電の操縦参考書には「紫電は強風を急速に陸上戦闘機に改設計したものだから、計画と設計の不備により、改善の余地大なり」と記されていた。 紫電11型の参戦 [ ] 紫電は、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、343空、345空、361空)が紫電装備を予定するほどの期待を集めたが 、(昭和19年)1月に紫電を優先配備することが決まっていた第341海軍航空隊でさえ、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練をで行っていた。 紫電の生産は遅れ、343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。 1944年(昭和19年)8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月には提督率いるを迎撃した。 10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった。 10月15日までを戦った。 11月、341空と201空はフィリピンに進出してに参加する。 紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察 、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった。 1945年(昭和20年)1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した。 こうして341空は全装備紫電を失い 、フィリピンから台湾へ撤退した。 宮崎勇は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評する。 341空飛行隊長だったや201空搭乗員だった笠井智一は、紫電はには手も足も出なかったという。 初めて紫電を見た笠井は、紫電がと酷似していたと証言。 陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという。 紫電改の開発 [ ] 紫電改の防弾ガラス。 厚さ20 mmの硬化ガラスを3枚積層している。 紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した。 海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機 改 N1K2-J」の試作を指示した。 、試作一号機が完成した。 この試作機は主翼配置を中翼から低翼とし、また全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで時の前下方の視界も改善された。 胴体は400 mm延長され、は400 mm取り付け位置が下げられており、全長が460 mm増大、紫電に比べてスマートな印象となっているが、重量は250 kg増加した。 トラブルが多かった二段伸縮式も、主翼の低翼化に伴って全長を短縮できたため、廃止された。 試作機は主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった。 また紫電一一型・紫電一一甲型(N1K1-J、N1K1-Ja)までは20mm機銃を主翼内に各1挺、両翼下面に各1挺を主翼下面に直接取り付けていた(ガンポッドではない)。 紫電改では紫電一一型乙(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。 また零戦が採用した「操縦の低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚との効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。 「強風」以来のも装備し、改良により実用性を高めた。 当時、川西航空機検査部のだった岡安宗吉はこれを評価している。 開発者である田中賀之 によれば、紫電のテストパイロットである志賀淑雄は空戦性能の向上を評価したという。 試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出した。 この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無であった。 紫電改のテストパイロットをつとめて空母「」に着艦した山本重久は、紫電ではが低かった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、1945年(昭和20年)2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している。 兵曹も、4月12日上空の戦闘で米軍機とを行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感した。 零戦の弱点であった装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。 米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが 、(平成19年)ににおいてのため分解された紫電二一型甲(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属、が確認できる。 操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。 笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという。 1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた。 また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796. 最大速度は11. 1〜24. 日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する。 1944年(昭和19年)度中に試作機をふくめて67機が生産された。 1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J) 紫電改」が誕生した。 そこで乙戦(迎撃戦闘機)でありながらも甲戦(制空戦闘機)としても使える紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。 1944年(昭和19年)3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した。 航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた。 しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる。 また、紫電改は強風を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は零戦より早いと海軍は見込んでいた。 実際に制式採用から僅か3,4ヶ月後の昭和20年5月頃には昭和21年以後を見越した次期主力機の開発が開始されていた。 間に合わなかったものの、本機の更なる性能向上型の他に、凍結されたの試作再開などが検討されていた。 本機は遠方から見るとF6Fとよく似ており、日本海軍パイロット自身が誤認しかけるほどだった。 味方からされることもあり、1945年(昭和20年)3月20日には が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した。 機も紫電改を誤射することがあり、笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという。 同士討ちを避けるため、の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が出張して陸軍兵に実物を見せたことがある。 8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している。 1943年(昭和18年)以降のF6Fや、ら新鋭機の登場によって急速に現実問題化した零戦の旧式化にも関わらず、零戦後継機として軍が本命視していた次期甲戦のは1944年(昭和19年)になっても試作途中段階に留まっており、量産配備はまだ先との見積もりであった。 これに業を煮やした海軍は紫電のを多少改変すれば生産可能であった本機を機体分類上は乙戦のまま、1944年(昭和19年)4月の段階で零戦の後継機として選定し、生産を指示した。 この決定の影響により、分類上はである乙戦のままであったにも関わらず、実戦では主な配備先の三四三空を始めとした部隊では零戦に代わる次世代『』として運用されていく事になる。 紫電改と同時期に開発され、同じ発動機を搭載するの(以下、四式戦と略)と、紫電改の最高速度を仕様諸元上で比較すると、紫電改の方が劣っている。 紫電改の試作時における最高速度は335(620. 4 )。 昭和20年(1945年)1月付けの「試製紫電改操縦参考書」の記述によれば、紫電や紫電改の発動機である誉二一型は運転制限のためがより1割ほど低い状態であった。 当然、試作機の最高速度も運転制限下で記録された。 もっとも、同様の運転制限は四式戦に搭載された誉(ハ45特)も受けており、条件は同等と言える。 同じエンジンを搭載し、自重も同等であるが、翼面積は紫電系列が23. 5、四式戦は21平方メートルであり、紫電改のほうが大きな翼をつけている。 この数値のみで判断すれば、紫電改は四式戦より空気抵抗が増える分やや遅く、かわりにが大きくて旋回性能がよいということになる。 山本重久テストパイロットは、横旋回では零戦に苦戦、縦旋回戦闘では零戦に対し断然優位、零戦2機を相手にしても互角に戦え、性能・急降下性能ふくめ零戦より優っていたと評価している。 1944年(昭和19年)12月10日、速水経康大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機(笠井智一ら)と共に、(B-29の)の迎撃に出動した。 これが紫電改の初陣とされる。 1945年(昭和20年)2月17日、の前哨戦として米軍艦載機が関東地方に侵入()。 指宿少佐指揮のもと、岩下邦雄大尉、羽切松雄少尉、武藤金義飛曹長の紫電改隊、(空技廠)から山本重久大尉、増山上飛曹、平林一飛曹が乗る試作紫電改が零戦48機、雷電、紫電11機と共に迎撃。 米軍機編隊を撃退した上で、岩下、羽切、山本、増久、平林が各1機、武藤が4機撃墜という戦果をあげ、紫電改隊は生還した。 零戦は11機、紫電は1機が失われた。 沖縄戦以降 [ ] 詳細は「」を参照 1944年(昭和19年)12月の制空権奪還という構想によってで編成された(通称「剣」部隊、以下「343空」とする)に紫電改が優先的に配備された。 「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げ 、太平洋戦争中盤の1943年後半以降、劣勢の度を濃くしていった日本海軍戦闘機隊に、を中心とした連合国軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える新鋭戦闘機として紫電改は本土防空の任務についた。 紫電改の配備が遅れたため、そろわない分は紫電で代用していた。 1945年(昭和20年)3月19日343空は初陣で米艦上機160機に対し、紫電7機、紫電改56機で迎撃して、米軍機58機撃墜を報告した(なお米軍側の記録では不時着含む機体の損失は14機、死亡8名である)。 343空の活躍で戦後は「遅すぎた零戦の後継機」として認知され、零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知される。 その経歴やネーミングから人気の高い機体である。 五航艦の命令に従い、343空は紫電改で・等のの護衛任務に就いたが、もともと特攻戦は想定しておらず、紫電改の航続距離も不足しており 、奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒の制空戦闘を実施した。 343空は通常の援護ではなく、紫電改で制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとっていた。 紫電は、沖縄戦で偵察十一飛行隊、偵察十二飛行隊に配備され、台湾から出撃した。 ここでは制空任務だけでなく、強行偵察、戦果確認、索敵任務に投入された。 本土防空戦にも数多くの紫電が参加した。 5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機のを迎撃して4機を撃墜するなど 、劣勢ながら奮戦している。 なお、1945年(昭和20年)2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電に搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空で落下傘降下。 (なお、山崎は降下の後に暴徒化した市民によって殺害され、以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽に日の丸を縫い付けることとなる)尾翼にカタカナのヨ-のマークをつけた紫電は横須賀海軍航空隊に配備され終戦まで京浜地区の防空にあたる。 では、343空に配備されていた機体を除く全ての紫電改、紫電を集め、彩雲、百式司偵と共に爆装することで、米護衛戦闘機や対空砲火の高速突破による高い命中率(命中率25パーセント)を期待している。 もっとも紫電改の生産数が月70機を越えることはなく、計画は中止となった。 1945年(昭和20年)10月16日に米軍に引き渡すための空輸の際 、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ紫電改3機(志賀淑雄少佐、田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行。 武装撤去、銃弾未搭載のため軽量)に、実弾を装備した監視役の6機のは置き去りにされそうになったという。 紫電改で戦った搭乗員からの評価は高く、は「軽戦に対する重戦でありながらも零戦の塁を摩する」「零戦は軽戦、紫電改は重戦と言うべく十分使えた」、、は「零戦同様に使えた」と評し、磯崎は最大の欠点として高速ダイブ中の戻りに対する強度不足を挙げている。 笠井智一、佐藤精一郎は失速性その他に注意しながらも紫電改で戦えたことを最高の誇りとし、20ミリ4銃の威力と包路線型フラップの効用を評価した。 やはF6Fと互角に戦える素晴らしい機体として歓迎した。 笠井によれば、紫電改にとって最も手強かった米軍戦闘機はF6Fで 、紫電と紫電改には雲泥の差があり、紫電改配備後の訓練搭乗機に紫電を指定されると、全員が気落ちしたという。 は、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性を評価し、戦後の三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧は紫電改とP51であると述べている。 紫電改のテストパイロットだったは紫電改は猪のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという。 当機での実戦経験はないが教育に関わったは、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していた。 しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった。 坂井は、343空に教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』(一一型を紫電改と間違えている)を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」など批判するが、「の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀は常温で酸化しない)」などの非科学的な内容を含んでいる。 米技術雑誌『ポピュラーメカニック』では、米空軍の試験で紫電改のマグネットを米製に替え、100オクタン燃料を使って空軍で飛行した結果、速力はどの米戦闘機にも劣らず、機銃威力は一番強いと紹介された。 の著書「空戦」では、紫電改が高度6,000mで44年型と同程度のスピードを発揮したことからマスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していた。 また、川西航空機設計課長だった菊原静男によれば、1951年(昭和26年)に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。 どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。 ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという。 スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも「B-29に対する有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能が優れているとは言えなかった。 これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器 や二段式機械過給機()を実用化できなかったためである。 なお、この紫電改の高高度性能不足の対策として、一時は生産中止されそうになった雷電の生産促進がなされている。 主力戦闘機として大生産計画が立てられたものの、実戦配備がB-29による本土爆撃が本格化した1944年(昭和19年)末であったこともあって紫電改の生産数は約400機に留まり、「大東亜決戦機」として3,000機以上生産され、文字通り大戦末期における陸軍の主力戦闘機となった四式戦とは対照的と評価されることがある。 近藤芳夫(疾風開発者)は「疾風は一撃離脱のが原点。 紫電改は空中格闘戦に拘っていた」と述べている。 『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spick著)P. これらの数値は連合軍による機での試験データに基づく数値と注釈で触れられているが、元となった試験情報の出典など詳細は不明である。 英国のブランドフォード社の『原色航空機百科』(K. マンソン著) では「太平洋戦線に出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。 武装は翼下のガンポッドに20mm機銃2挺、胴体7. 7mm機銃2挺。 紫電一一型甲(N1K1-Ja) 胴体の7. 7mm機銃を廃止し、翼内20mm機銃2挺を追加した武装強化型。 紫電一一型乙(N1K1-Jb) 翼下ガンポッド内の20mm機銃を廃止して翼内に20mm機銃4挺を内蔵した型。 増速用火薬ロケット6本装着の機体存在。 紫電一一型丙(N1K1-Jc) 一一型乙の爆装を、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。 試作のみ。 51号機以降は20mm機銃の取り付け角度を3度上向きに変更。 爆弾投下は手動式。 紫電二一型甲(N1K2-Ja) 二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。 テストパイロットを務めた山本重久少佐によると、操縦性と安定性のバランスが改善された。 生産機101〜200号機。 試製紫電三一型(N1K3-J) 試製紫電改一。 爆弾投下器を電気投下式に改良。 発動機架を前方に150mm延長し、機首に三式十三粍機銃一型2挺を追加した武装強化型。 生産201号機以降で、1945年(昭和20年)2月に少数が生産。 試製紫電改二(N1K3-A) 試製紫電三一型に、尾部の補強などの改造を施した型。 試作2機。 1944年(昭和19年)11月12日、山本久重少佐の操縦で東京湾で行われたでの着艦実験に参加。 試製紫電三二型(N1K4-J) 試製紫電改三。 三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型(NK9H-S ハ四五-二三型)に変更した型。 鳴尾517、520号機のみ。 試製紫電改四(N1K4-A) 試製紫電改三(試製紫電三二型)に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型。 試作機が製作されたとされている。 試製紫電改五(N1K5-J) 二一型甲の発動機を次機艦上戦闘機となるはずであった「烈風」と同じハ四三-一一型(離昇2,200馬力)に変更した型。 13mm機銃は廃止され、機首の形状が変わった。 完成直前に工場被爆によりテスト飛行中止。 二五型、もしくは五三型とも表記される。 仮称紫電性能向上型 発動機を二段三速過給器付きの誉四四型(ハ四五-四四型)に換装した航空性能向上型。 計画のみ。 仮称紫電練習戦闘機型(N1K2-K) 二一型を複座とし練習機としたもの。 胴体は延長されておらず、速力若干低下。 小数機生産。 紫電改鋼製型 紫電改を鋼製化したタイプで、計画のみ。 重量が増大するため、翼端延長の予定。 現存する機体 [ ] 紫電 [ ] 紫電は試験の為に数機が米国に輸送されたが、現存しない。 紫電改 [ ] 紫電改は3機が米国に輸送され 、の、 ()内 、内 にそれぞれ展示されている。 日本国内では(昭和53年)に愛媛県の久良湾から引き揚げられた機体が内、紫電改展示館で保存されている。 目撃者によると、スムーズな着水であったが、機体はすぐに水没してしまったということ。 以来、久良湾の海底には戦闘機が沈んでいるという言い伝えが残され、それが後年のダイバー探索による発見に繋がった。 フットバーの位置が一番手前にあることから搭乗者の身長は低く、「空の宮本武蔵」と言われた中尉(戦死後昇進)機もしくは米田伸也上飛曹機の可能性があるが決定的証拠はなく 、特定には至っていない。 武藤夫人は未帰還パイロット6名共通の遺品とすべきと述べている。 引き上げ時、操縦席に遺骨はなかった。 この紫電改が水没した7月24日、付近の横島で20歳前後の日本軍搭乗員の遺体が回収されたが、関連性は不明である。 引き上げには不発弾を懸念する宿毛海上保安部から懸念が寄せられたが、当時は参議院議員となっていた源田実元大佐・343司令が各方面に交渉し、また愛媛県議会も回収予算捻出を決定したことで回収が可能となった。 この機体は回収後に、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されている。 二一型 2007年11月 アメリカ の別館 公開 静態展示 川西5341号機。 性能 [ ] 制式名称 紫電一一型 紫電二一型 機体略号 N1K1-J N1K2-J 全幅 11. 99m 全長 8. 885m 9. 376m 全高 4. 058m 3. 96m 翼面積 23. 7mm機銃2挺(携行弾数各550発) 翼内20mm機銃4挺 (携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発 爆装 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発 生産機数 1,007機 415機• 生産機数はそれぞれ一一型全体、二一型以降の数値。 登場作品 [ ] 映画 [ ] 6『』 TVアニメ [ ] 『』 一一型と二一型が登場する。 紫電一一型は主人公らのコトブキ飛行隊と同じ雇われ用心棒のナサリン飛行隊が使用する。 第1話では運動性の高い二一型に翻弄され全機撃墜される。 後に脱退や落とされて二人だけとなったナサリン飛行隊は度々コトブキ飛行隊らの援軍として活躍する。 紫電改は9話に登場、所属不明機が穴を調査する主人公キリエらが操縦するを撃墜する。 10話以降は同じカラーリングのイケスカ所属機が登場。 その他映像 [ ] 『紫電改』 『撃墜 3人のパイロット〜命を奪い合った若者たち』 ドキュメンタリードラマ らの物語 『ザ・コクピット』 『戦場まんがシリーズ』OVA作品の第2話『音速雷撃隊』にて、主人公たちの乗る一式陸上攻撃機を護衛する零戦と共に紫電が登場 漫画・文芸・小説 [ ] 『』 『』 『』 『』 登場人物の1人、の乗機として登場し、黒王軍の竜を何頭かする。 『』 『』 プロローグにて紫電改が登場。 大和沖縄特攻の際に米海軍のヘルダイバーやアヴェンジャー、ヘルキャットを撃墜し大和の護衛に成功する。 中将の強い要請により史実よりも航続距離が向上している。 『』 第1話に紫電が登場。 ゲーム [ ] 『』 プレイヤーの操縦機体として、一一型甲・二一型・二一型甲が登場する。 『』 として「紫電改二」(N1K3-A)、「紫電改四」(N1K4-A)が、基地航空隊の局地戦闘機として「紫電一一型」、「紫電二一型 紫電改」、いわゆるネームド機として」が登場する。 『』 各キャラクターの搭乗可能機体として一一型と紫電改が登場。 一一型はイヅルマ市自警団の主力機体のため、同組織内の広報部隊であるカナリア自警団も六人全員が一一型を本来の搭乗機としており、リッタに至っては一一型に乗るために入隊志願した経緯を持つ。 脚注 [ ] []• 壱「試製紫電改 仮取扱説明書」pp. 海軍上飛曹(343空)と岩下邦雄海軍大尉()の対談より。 "J"と"J改"は笠井。 岩下は"紫電"と"紫電改"。 『最強戦闘機紫電改』114頁「『紫電改』は何とよばれたか」• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』36頁、碇義朗『最後の戦闘機紫電改』44-45頁• 124 強風、紫電、紫電改』37頁• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』85-86頁「試作計画混乱のしわよせ」• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』37、74頁• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』76頁• 菊原静男(元川西設計課長)「最強戦闘機の生涯」• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』100頁• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』142頁• 『最強戦闘機紫電改』160頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』75頁「あまりに拙速だった『紫電』 N1K1-K 」• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』94頁「事故が頻発した『紫電』のテスト」• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』75頁• 『最強戦闘機紫電改』160頁• 124 強風、紫電、紫電改』38頁• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』141頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』77頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』62頁• 124 強風、紫電、紫電改』63頁• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』216-218頁「紫電偵察隊の活躍」• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』213頁• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』218-220頁「特攻出撃した紫電隊」• 『最強戦闘機紫電改』145頁• 124 強風、紫電、紫電改』64頁• 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』157頁• 『最強戦闘機紫電改』161頁。 岩下邦雄(341航空隊401飛行隊長)、笠井智一(201空)• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』218頁• 124 強風、紫電、紫電改』40頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』78頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』田中賀之「自動空戦フラップ操作装置開発の記」81-85頁• 124 強風、紫電、紫電改』84頁• 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』145-147頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』85頁。 田中はやの前線に出張して調査。 『最強戦闘機紫電改』136-137頁• 『最強戦闘機紫電改』167頁• 『最強戦闘機紫電改』193頁。 小池田忠「海軍搭乗員の安全装備」• 丸1月別冊『蘇る海鷲 最強戦闘機「紫電改」』13頁• 『最強戦闘機紫電改』169頁• 124 強風、紫電、紫電改』41頁• 124 強風、紫電、紫電改』42頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』42-43頁• 決定版 局地戦闘機 歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル9 ISBN-978-4056063288 内の陣風の項目ページより• 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』181頁• 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』181-182頁、『最強戦闘機紫電改』166頁• 『最強戦闘機紫電改』168頁• 決定版 局地戦闘機 歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル9 ISBN-978-4056063288 紫電改の項目より• 『最強戦闘機紫電改』116頁• 『最強戦闘機紫電改』138頁• 『最強戦闘機紫電改』124頁「『戦闘馬力』と最大速度」• 『最強戦闘機紫電改』117頁。 古峯文三「決戦戦闘機『J改』完成への軌跡」• 124 強風、紫電、紫電改』71頁• 『最強戦闘機紫電改』138頁 山本久重「紫電改操縦法」。 『最強戦闘機紫電改』137頁• ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング209-212頁、碇『紫電改の六機』313頁• 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p333、碇『紫電改の六機』312-322頁「散り行く勇者」。 ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング212頁• 『最強戦闘機紫電改』150-154頁。 石坂光雄(戦闘403飛行隊分隊長)「不死身の愛機紫電『182号』の奮戦」• 『最強戦闘機紫電改』165頁• 『最強戦闘機紫電改』146頁「『紫電改』と特攻作戦」• 『最強戦闘機紫電改』57頁• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』263頁、田中の証言。 但し田中はF4UではなくF6Fとしている。 『最強戦闘機紫電改』164-165頁• 『最強戦闘機紫電改』168頁• 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 55頁• 坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』340頁• 世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』170頁• 世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』174-177頁• 『最強戦闘機紫電改』108頁• 『最強戦闘機紫電改』110頁。 菊原静男、元川西航空機設計課長談。 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』269-270頁• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』80頁• 『最強戦闘機紫電改』136-137頁• 『最強戦闘機紫電改』118頁• 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』265頁• 紫電改引き揚げ30周年記念ウエブブック• 124 強風、紫電、紫電改』30頁• 碇『紫電改の六機』45頁「紫電改浮上」• 碇『紫電改の六機』11頁「真夏の空中戦」• 碇『紫電改の六機』363頁• 碇『紫電改の六機』46、50頁• 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』206頁• 碇『紫電改の六機』364頁• 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』229頁• 碇『紫電改の六機』53頁• 碇『紫電改の六機』48頁• 国立海軍航空博物館 紫電二一型• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』26頁、『最強戦闘機紫電改』16頁• アメリカ空軍博物館 紫電 二一型甲• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』26頁• 国立航空宇宙博物館 紫電 二一型甲• 『世界の傑作機No. 124 強風、紫電、紫電改』20頁、『最強戦闘機紫電改』2頁• 渡辺義之 2000 『局地戦闘機紫電改』、学習研究社 p. 182、海軍側のデータを元に• 参考文献 [ ]• (国立公文書館)• Ref. A03032263000「試製紫電改 仮取扱説明書」壱• Ref. A03032263100「試製紫電改 仮取扱説明書」弐• Ref. A03032263200「試製紫電改 仮取扱説明書」参• 『 丸メカニック NO. 『 世界の傑作機 no. 149 特集・「紫電」と「紫電改」』(文林堂、1985年)• 碇義朗『紫電改の六機 若き撃墜王と列機の生涯』 (、1987年) (光人社NF文庫、2004年)• 『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』(光人社、1993年)• 碇 義朗『最後の戦闘機 紫電改 起死回生に賭けた男たちの戦い』 (光人社、1994年) (光人社NF文庫、2006年)• 『 世界の傑作機 No. 53 強風、紫電、紫電改』(文林堂、1995年)• 野原 茂『 エアロ・ディテール26 川西局地戦闘機「紫電改」』(大日本絵画、1999年)• 『 歴史群像 太平洋戦史シリーズ24 局地戦闘機紫電改 海軍航空の終焉を飾った傑作機の生涯』(学習研究社、2000年)• 野原 茂『日本海軍戦闘機 強風 紫電 紫電改』(モデルアート社2001年6月号臨時増刊、No. 587)• 松葉稔 作図・解説『 航空機の原点 精密図面を読む9 日本海軍戦闘機編』(酣燈社、2005年) p86〜p109• 『 世界の傑作機 No. 124 強風、紫電、紫電改』(文林堂、2008年)• 雑誌「丸」編集部 編『最強戦闘機紫電改 蘇る海鷲』(光人社、2010) 関連項目 [ ]• — — — —• - 上記の事故が起きた機体の所属地。 2019年に、紫電改の実物大模型が跡地内の施設で公開された。 外部リンク [ ]• (国立公文書館 アジア歴史資料センター)•

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「紫電改」が実物大模型に 旧日本海軍の切り札戦闘機 [空襲1945]:朝日新聞デジタル

紫電 改 の タカ

米軍は戦後、他の日本戦闘機と同様に、同じ条件で「疾風」の詳細な性能テストと空戦演習を1946年4月2日から5月10日にかけて1ヶ月以上米国本土で実施したが、米航空博物館は、「国・民間」共に、四式戦「疾風」を1機も保存・展示しなかった。 これが答えです。 航空史に特筆すべき機体なら、「零戦や紫電改」の様に保存・展示したはず。 一撃離脱なら高性能レーダー管制で、優位高度から迎え撃つ米軍機の十八番。 やるか、やられるかの命のやり取りをしてるのは搭乗員な訳で、追尾され振り切る格闘性能が無ければ米戦闘機には勝てない。 500機生産されたが、稼働率が低く、同じエンジンで生産機数が僅か400機の【紫電改】に比べて目立った戦果がなく、影が薄い。 近藤芳夫 疾風開発者 は、「疾風は一撃離脱のキ44 鐘馗 が原点。 紫電改は空中格闘戦に拘っていた」と述べている。 急旋回に耐える機体強度を下げ、一撃離脱に特化した【疾風】と、自動空戦フラップで格闘戦も、一撃離脱も「甲乙戦」両方ともに戦えた【紫電改】。 現存する疾風 知覧特攻平和会館で展示 は1機のみで、その唯一の「疾風」は、アメリカ本土で性能テストされた後、戦後アメリカの私設航空博物館 プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 に払下げられた機体。 その後、栃木県宇都宮市の日本人実業家 元海軍下士官で戦闘機操縦員 に買い取られ、1973年 昭和48年 に日本へ移送され、現在に至る。 昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。 どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった」と評した。 こういう比較を「実戦部隊」でやったので、結構有名なのは、アメリカ軍の在ヨーロッパ戦闘機部隊で、彼らは時期によって「P-39」「スピットファイア」「P-47」「P-51」などを部隊ごとに幅広く使用したので、自然、これらの機種を比較する「模擬空戦」を試みたようです。 んで、結果は、というと、ほぼ「スピットファイア」の一人勝ちだったそうです。 「スピット」は古参の機体ながら高い運動性を持ち、一方、凝った造りの薄型翼は空気抵抗も少なく、着実な出力アップにより高速をも実現していたんです。 ただ、英空軍は短い航続距離をほとんど改善することが無かったので、米軍の作戦の上では全く使いにくいものにいなっていたんです。 だから、米軍パイロットの多くは、「空戦での強さ」よりも、「戦場での便利さ」から、航続距離にゆとりのある「P-47」や「P-51」を支持したと言います。 実戦的にも、「高速機動戦」を多用するドイツ空軍に対して、「空戦能力の高さ」はさほど必要とは思われず、それよりは多様な運用が可能な自国製戦闘機の方が優れている、と判断されたようです。 この辺、昼間戦略爆撃を行わず、本国の防空を重視したイギリス空軍は、「V1号」の迎撃にも有効な「スピット」を最後まで愛用したし、これらに敵対するドイツ空軍でも、米軍機を上回る上昇力と高い横転性能を誇る「Bf109」や、高い火力を誇る「Fw190」にかなりの満足を感じています。 これを考えても、三者が三様に、かなり異なる「強さ」を求めていたことがわかります。 面白いのは、これらの「要求するもの」が、「日本」と比べるとかなり違いがあることで、最も顕著なのは、欧米機、特にドイツ機が最大に重視する「横転性能」を日本機が全く無視していることです。 特に「海軍機」、「ゼロ戦」などは、高い旋回性能を誇りながらもロール率は最低で、ドイツ人パイロットは絶対評価しないだろう性能で、実際、ドイツの駐日武官は、日本人が微妙に評価する「二式戦」を「最高!」と言っていますね。 ともかく、「戦闘機の強さ」というのは、こうした、ぶっちゃけ「好み」、もうちょい美しく言えば「運用方針」にもよるので、「最強」といった判断は、よほどの特殊性、例えば「Me262」とか入れるのでなければ、なかなか同意には至らないでしょうね。 例えば、日本では、アメリカ情報が強いので、「P-51最強(最優秀?)説」が根強いですが、ヨーロッパ人はほとんど賛成しませんね。 ぎりぎり「最優秀米国戦闘機」といった言い方はしますが、少なくとも「最強」とは絶対に思っていません。 まあ、そんな長い前置きの上で言うならば、「最強」という見方をした場合、せいぜい1200馬力の「零戦」がまず落ちるのは仕方のないところですね。 問題は「紫電改」と「疾風」ですが、これはどちらもエンジンは「ハ45」で、微妙にパイロットの好みが違った「海軍」と「陸軍」の機体ですから、公式には(^^;)まあ、どちいでもいいと思っています。 ですが、個人的見解と言うか、「紫電改」としては活動期間たった数か月、生産機も本家川西でたった400機というレベルと、活動期間で確実に1年長く、生産機も3500機の「疾風」を比べること自体がどうかと思います。 言うならば「Bf109G」と「Ta152」を比較するようなもんでしょう。 まあ、「紫電とその改良型」という捉え方をすれば、活動期間はほぼ同じになりますが、生産数はそれでも1400機と少しですから、それをどう考えるかですね。 技術的な観点で見るなら、どちらも日本機としては高い翼面荷重ながら、欧米機と比べれば、わずかに高い「疾風」でさえ、まだまだですね。 この両機を比べると、欧米機的な「高速戦闘機」を提唱しながら「二式戦」で不評を被った中島が、多少妥協して受けを意識して作ったのが「疾風」であり、より保守的だった海軍で、「雷電」の受けの悪さに困って、実績ある機体を流用したという「紫電改」の特殊さというのがかなり目立つと思います。 「疾風」は、本来なら、もう少し大口径プロペラを採用しても良かったと思いますが、これによって開発も早まり、各部の信頼性も上がり、機敏さも強調されて、かなり実用性が上がっています。 対する「紫電改」は、「水上戦闘機」という特殊な機種からの流用なので、各部に特殊性が目立ち、特に「層流翼」と「自動空戦フラップ」をそのまま残したのには、恐らく議論もあったんだろうなあ、とか思ってしまいます。 案の定、ベテランパイロットの一部には嫌われたみたいですね。 まあ、いろいろ書きましたが、少なくとも、「技術的」「戦史的」な判断からすれば、どちらを上位にすべきかは明確な気もするんですが、気軽に考えるなら「人気」というのも重要な要素ですから、お好みで選べばいいんじゃないですかね。 使う局面にもよります。 支那事変の頃のように遠距離攻撃機の護衛をやるとか、ガタルカナル攻防戦の頃のような長大な航続力を求められる局面では零戦以外は使えません。 紫電改や四式戦は航続距離が短いですから、零戦のように遠距離を進出して戦闘するということが出来ません。 零戦は遠距離侵攻戦闘機として最良の存在です。 紫電改や四式戦は基本迎撃機なので近い距離での防衛戦といった局面がメインになります。 では、紫電改と四式戦はどちらが強いのか? 両機とも同じエンジンですから出力は同じ。 しかし、主翼の面積は大きく違っていて紫電改は格闘戦重視で大き目の主翼、対して四式戦は速度重視の小さい主翼という設定です。 紫電改は自動空戦フラップを装備していて、旋回性能は高い性能があります。 四式戦は小さい主翼のメリットで高速を発揮できる、けれど同じエンジンなので紫電改との速度差は決定的なほどでもありません。 防御面では海軍機としては珍しくというか、川西の飛行機らしいというか二式大艇同様に紫電改は防弾ガラスに加えて、燃料タンクに防弾ゴムと金属網、自動消火装置を持ちます。 以前、似たような質問で紫電改には防御が無いという回答がありましたが、紫電改はしっかりと防御が施されているのが実態です。 結論としては同じような腕前の搭乗員同士であるのなら、同じエンジンで旋回性能に勝り、火力に勝り、同等の防御力を持つ紫電改が優位。

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