僕 の 目 に は 君 しか 見え ない 僕 の 耳 に は 君 しか 聞こえ ない。 1

僕 の 目 に は 君 しか 見え ない 僕 の 耳 に は 君 しか 聞こえ ない

僕は君の顔を知らない。 君は僕の声を知らない。 きっと君は光を浴びているんじゃなくて、 光そのものだから。 ほんとに光を失ってしまうということは、 君が消えてしまうということだ。 だから、僕に光を与えて続けて。 木造の病院。 ストーブの湯気に木の匂いが混ざる。 床を踏んづければギィーっときしむ。 風が吹けば窓ガラスを叩く。 君が泪を流したのなら、 僕にサインを送って。 それを君は義務だと思って。 それを僕は権利だと思ってる。 きっと、心に届いて、僕を濡らして。 ベッドの上で君は、 病室のガラス窓に眼をやり、 外にある景色をいつも眺めている。 ずっと、眺めている。 彼女の世界はそこがすべて。 僕は君の顔を知らない。 それはなによりも見たい景色なのに。 君は僕の声を知らない。 それは誰よりも響いてほしい声なのに。 角砂糖は渦を巻く紅茶に溶けた。 ざらざらしているそれは甘さに変わる。 雪の色も、桃の色も、それは遠い昔の記憶。 真新しい朝。 僕はといえばテーブルを叩くようにして転がるペンを探し、感触に紙の隅っこを確かめて、手探りで文字を書く。 きっと、大きかったり、小さかったり、歪んでいたり、重なっていたりする文字を並べて。 君に宛てた手紙を。 配達人は看護師。 とはいっても隣の病室。 今頃、読んでいるところだろうか。 君はどんな顔して眺めているか。 その歪んだ文字に笑っているの? その文章で笑顔を作れるの? 林檎は赤い。 だけど、赤いだけじゃない。 かじってしまえば、歯型の黄色、白。 上から覗けば、緑でもある。 決まって返事は夕方になって。 時計を見ることのない僕は、届く手紙に過ぎて行った時間を知る。 看護師に手渡された手紙。 捲る指先が心を追い越す。 その文字を目で追うのではなく、指でなぞる。 そうやって文字を読む。 点字の手紙を。 僕は目が見えない。 視力を失った。 君は耳が聞こえない。 聴力を失った。 未完成な僕等の、完成しない恋だった。 ここは田舎町の高台にある精神科の病院。 あれは、16の頃だった。 焦げる匂いに気づき眼を覚ましたのは深夜。 静まり返った二階建ての家。 僕は自分の部屋を出て、冷たい階段を降りた。 台所では知らない誰かが薄らと笑顔を浮かべていた。 ゴミに火をつけ、燃えるのを眺めながら。 その知らない誰かと目が合って、僕は動けなくなった。 動揺する心を抑えきれぬまま、残りの階段を駆け下りる。 そうこうしている間に、燃え広がる炎。 あっという間だった。 見る見るうちに家を包んでいく。 大声で叫んだ。 僕は両親が居るであろう寝室へ向かおうとした。 そんな僕の腕を知らない誰かが掴んだ。 掴まれた腕をはらい、誰かを押し倒した。 しかし、走り出そうとする足を両手で握られ、僕も倒れ込んだ。 意識がもうろうとなる中で知らない誰かは言った。 「人が苦しんでいる顔を見るのが大好きなの」 僕の身体に、知らない誰かの身体に、炎が襲い掛かるのが分かった。 火傷を分け合い、眼を閉じてしまった。 目が覚めた時には病院のベッドに居た。 そこで両親が命を失ったことを告げられた。 そして、目を覚ましたのに、目の前に光はなかった。 その日、僕は失明していた。 失明の原因はあの事件で味わった恐怖体験。 ショックから来る精神的なものだと医者に言われた。 僕は未だに心を治療中である。 知らない誰かの顔は思い出せないが、 その浮かべた笑顔の恐ろしさや、 身体を掴まれた時の感触。 炎の強烈な熱。 煙の匂い。 あの日の恐怖は鮮明に蘇る。 この火傷の跡も消えてはくれない。 そして君も僕と同じような境遇という。 耳が聞こえなくなったのは、精神的ショックが原因だ。 君になにがあったのか? それを僕は知らない。 屋上のフェンス越し。 生温い風に、君の髪は絡まる。 ふたりして黙り込む。 肩を並べて。 僕は君と居る時に言葉を零したりしない。 聞こえないなら哀しくなるだけ。 僕は君の方へ顔を向けない。 見えないのなら苦しいだけ。 でもこうして手を握りしめている。 たしかな温もりにすがる。 でこぼこした点字をなぞって読み取るように、君の手に触れるこの指先で、心の声を読み取れたなら。 君と話がしたくて覚えた点字のように。 心をなぞれたなら、どんな感触で、どんな温度だろうか? ずっと君とふたりきりで居られたならと、ありもしない妄想に耽る午後。 君からの手紙を看護師から手渡された。 温かい飲み物と共に読み始める。 ちょっと前に看護師さんから聞きました。 治療を受けに外国の病院へ行くことを先生から勧められていると。 それなのにあなた断り続けていることも。 私はとっても素晴らしいことだと思います。 だってあなたに光が返ってくるかもしれないのです。 目が見えるようになったらあなたの世界は輝くことでしょう。 何故外国に行くことを拒むのですか? 私のことを気にしているのですか? 私が独りぼっちになり、哀しむだろうと。 私が寂しがるのではと、心配ですか? 私を置き去りに、あなただけが光を手に入れることが気がかりですか? 外国には素晴らしい環境と、腕の良い精神科の医者が居るそうです。 私なら大丈夫。 あなたには幸せになってほしい。 手紙にはそう書いてあった。 僕は名前も知らない感情が込み上げて、胸の中でじたばたしていることに気づいた。 そんな感情のまま、ペンを走らせていた。 君は光を手に入れることが出来ると言いますが、それは違います。 君こそが光そのものなのだから。 君とじゃなきゃ意味がないんだ。 君とじゃなきゃ、僕じゃないから。 ふたりで手に入れたい。 じゃないと幸せと呼べそうにないから。 君のことをいつも見ている。 君のことをいつも見てきた。 きっと、見えている。 ただ、いっしょに居たいと願って。 僕は君にきっと最後になるであろう手紙を書いた。 下手くそな文字で。 真実のように真剣に、 本当のような嘘で、 嘘の手紙を書いた。 窓の外では、一本の木から薄い桃色の花弁が舞う。 絶え間なく、絶え間なく。 雪のように降り積もり、地面を染めていく。 雨上がりの春。 きっと、君はそんな景色を見ている。 そこへ看護師が僕の病室へ入ってきた。 いつもと様子が違う。 きっと深妙な面持ちだ。 「実は、あなたに伝えないといけないことがあるの」 「なんだか嫌な予感がするんだ。 そんなかしこまった言い方されると。 聞きたくないよ」 扉から僕のベッドへ近づいてくる看護師の足音が聞こえる。 「驚かずに聞いて。 明日、外国の病院に移ることが決まったの。 急な話でごめんね」 「何を言っているんだ。 その話なら散々断ってきたはずだ。 呆れるくらいに」 「だけど、決まってしまったんだ。 あなたには心の準備をさせてあげれる時間を作れなくて悪いと思ってる」 「だから、同意書には僕のサインが必要なはずだ。 僕の意向を無視して決めれるものじゃないだろ」 「それが、決めれるの」 「えっ?」 「あなたにとって唯一のご親戚である叔母さんから、同意を得ている。 まだ未成年のあなただから」 「冗談だろ? そんな馬鹿なことがあってたまるか。 僕の気持ちを無視して」 僕の声は大きくなる。 「それもこれも全てはあなたの為なの。 あなたの目の為に……。 」 「認めない。 絶対に」 「あなたには未来があるから」 「未来はここにある」 「お願い、最先端の治療を受けて」 「断る。 出て行ってくれ」 「もう決まったことなの。 この病室だって新しい患者さんが入ることが決まってる」 「えっ?」 「同意書にある保護者のサインに基づいて、力ずくにでもこの病院はあなたを海外に連れていく」 「そんな。 そんなこと、許さない」 「きっと良かったって思える。 海外に移って良かったって。 そんな日がきっと来る。 光を取り戻して」 「……。 」 やるせない気持ちで、一晩中真っ暗な天井を見上げた。 君を浮かべて、眠れない夜を過ごして。 まだ昨夜の冷たさが残る薄暗い朝。 看護師は僕の病室にやって来た。 旅立ちを急かすように。 「準備は出来た? 最後に会いたい人が居るんじゃないの? 手紙があるなら預かる」 「その必要はなさそうだ」 「今後に及んでまだそんなことを。 覚悟を決めて」 「見えるんだ」 僕は看護師の顔を真っ直ぐに見つめた。 「冗談、でしょ?」 「精神的ショックが原因の失明だったよな。 強い意志が奇跡を起こした」 「これは、何本?」 看護師が顔の近くで指を立てる。 「二本」 「ほんとに見えてるのね」 「あぁ」 看護師は何故か申し訳なさそうな顔をしている。 「ごめんなさい……。 」 「どうして謝る?」 「あなたに謝らないといけないことがある」 「うん?」 「あなたにずっと嘘をつき続けてきた」 「嘘?」 「耳の聞こえなくなった女の子なんていない。 存在しないの」 「……。 」 「全て私が作り上げた架空の人物。 点字の手紙だって私が作っていた。 架空の女の子に扮して私が隣にいた。 それも治療の為よ。 歳も近い同じ境遇の子が近くにいたらきっと壊れた心が育まれる」 「知ってたよ」 「えっ?」 「看護師さんが演技してたこと、知ってた」 「冗談でしょ? なんで知ることが出来るの? あり得ない」 「だって、ずっと前から目が見えてた」 「えっ?」 「僕は僕で演技してたんだ。 長い間」 「そ、そんなこと……。 」 「だから隣の病室にはあの子が居ないことも、あの子の変わりに看護師さんが隣に居たことも全て見えていた。 架空の女の子を作り上げたのも、カウンセリングの一環だと気づいていた」 「なんで、そんな途方もない嘘を?」 「あの事件があった直後は本当に見えなかったんだ。 だけど次第に視力は回復した」 「回復しても尚、目の見えない演技を? どうしてなの?」 「好きなんだ。 君のこと」 「えっ?」 「演技をしてる君じゃなくて、看護師さんが好きだ」 「それで?」 「見えてるだなんて言ったら退院しなくちゃいけなくなるだろ? そうなれば君に会えなくなる」 「馬鹿じゃないの?」 「あぁ、馬鹿かもしれない。 でも、手紙に書いたろ? 君は光だったって。 僕にとって、嘘の君じゃなく、本当の君がそうなんだ」 「私達、嘘だらけの関係なのに?」 「それでも好きだ。 手紙は最後にしよう、嘘も最後にしよう」 「うん……。 ありがと」 「これからは、顔を合わせて、耳を傾けて」 私、人が苦しんでいる顔を見るのが大好きなの。 だから看護師になった。 そんなことを思いながら、背中の火傷に手を当てた。

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僕 の 目 に は 君 しか 見え ない 僕 の 耳 に は 君 しか 聞こえ ない

月が見えない夜は 5 月が見えない夜は 5 written by lapin 目を開くと、見知らぬ天井が視界に映った。 ゆっくりと首を回すと、何もかもが白かった。 そうか、病院だ。 なぜ、病院にいるのだろう。 どうしても思い出せなかった。 がらりとドアを滑らせながら、麗が入ってきた。 花を挿した花瓶を手にしている。 「マヤ!」 「麗!」 うれしくて飛び起きたいが、体がだるくて言うことをきかない。 「あんた、やっと意識が戻ったんだね。 本当に心配したよ」 麗は安堵で顔をくしゃくしゃにしながら、マヤの頭をごしごしと撫でた。 「先生を呼んで診てもらおうか。 意識さえ回復すれば心配ないって言ってたけどね」 麗がナースコールに手を伸ばす。 「ねえ、あたしどうして病院にいるの?」 麗の背中が強張る。 花瓶をベッドの横の台に置く。 ちょんちょんと花をいじりながら、麗が口を開く。 「あんた、最近働きすぎだったんだってね。 水城さんから聞いたよ。 過労でぶっ倒れるまで働くことはないじゃないか」 「ねえ、麗。 お願い。 本当のことが知りたいの」 麗のシャツの端を? むと、ぐっと引っ張る。 大事なことを知らないでいると思うと、心臓がぎゅっと? まれたように痛んで、呼吸のたびにどくどくと不安が広がっていく。 「マヤ…」 麗は痛々しそうにマヤを見つめると、ベッドの端に腰を下ろした。 「…何にも聞いてないの?社長から」 「速水さんから?ううん」 最後に真澄と会ったのはいつだろう。 あの映画の受賞記念パーティーがあった晩だ。 不意に、灯りが消えた部屋と顔をなぞる指が蘇る。 どくんと心臓がはねた。 「そうか…。 あんた、最近ボディーガードついただろ。 今も部屋の外に立ってるけどさ」 「うん。 カイルさんでしょ。 最近、物騒だから気を付けた方がいいって速水さんが。 芸能人なら珍しくないからって…ねえ、何があったの?」 どんどん不安になっていく。 麗は目を伏せて考え込んでいたが、思い切って顔を上げた。 「あんた、狙われてるんだよ。 お茶にヒ素混ぜた奴がいたんだ。 それをあんたに飲ませて…。 あのボディーガードがいなかったらやばかったらしいよ」 「嘘…どうして、あたしが…」 昔、高校生だった頃に、芸能界から追放されたことを思い出す。 あの時も、人の悪意がうまく理解できなかった。 今はもう少しわかる気がする。 でも、なぜ命まで狙われなければならないのだろう。 お芝居のために誰かを殺したいなんて思う人がいるのだろうか。 「どうして…どうして、あたしを殺したいんだろう、その人。 あたし、その人に何をしたんだろう…ねえ、麗、どうしてだと思う?」 麗は苦しそうに顔を歪めると、マヤの肩を? 「あんたは何にも悪くないよ。 何もしてない。 いいかい、自分を責めちゃだめだよ。 わかったね?」 こくりと頷いて見せたものの、一度考え始めたことは止まらない。 自分のせいで嫌な目にあった人を思い出そうとしてしまう。 役を盗られた役者がいたのかもしれない。 自分のせいで大事なチャンスを逃してしまったとか。 考えてもわからなかった。 そういうことはマヤの耳に届く前に処理されている。 でも、殺すほど恨むはずはないとも思う。 仕事以外で自分がやったことで誰かを決定的に傷つけたこと…あった。 マヤが犯した過ち。 真澄と隠れて会っていること。 血の気が引いていくのを感じた。 あの美しい人が。 まさか。 「どなたですの?あなた。 探偵さんか何か?」 男は唇の端を歪めるように笑った。 「まあ、そんなところですね。 あなたの友人と名乗る方が僕はしっくりきますが」 「私の…友人」 寒気がした。 車の中は寒いほどではないはずだ。 でも、体の内側から湧いてくる震えはどうしても抑えられない。 「ええ、そうですよ。 友人としてあなたに申し上げたいことがありましてね、速水紫織さん」 男が自分の名前を口にした瞬間、ひどく侮蔑されたようで、体がカッと熱くなった。 言い返したいと思う。 でも、言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。 「いい目だ…そうですよ、あなたは誇り高い人だ。 違いますか?あんな女優風情に大きな顔をさせておくなんて、僕は嘆かわしい」 男は大げさにため息を吐いた。 そうか。 夫と彼女のことで強請りに来たのだ。 そうとわかれば、まだ対処の仕方はある。 ひとつ息を吸うと、私は口を開いた。 「いくら欲しいのですか?」 男がサングラスの向こうで目を見開いた。 「これはこれは。 出来た奥様ですね。 旦那様を庇うつもりですか?…お金なんていりませんよ」 「じゃあ、何が目的なのです?」 男は、ゆっくりとタバコに火を付けると、長く煙を吐き出した。 「ねえ、奥さん。 本当はあの女が目障りなんでしょ?あの女さえいなくなれば、ご主人はあなたのものだ。 あなたほど美しくて、聡明で、肝も据わってて、ご主人を愛している人が、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんです?」 男は茶封筒から数枚の写真を取り出すと、こちらに無造作に投げた。 彼女のマンションから出て来た夫と、ベランダから見送る彼女が見つめ合っている写真。 「僕に任せてください。 報酬なんてみみっちいことは言いません。 曲がったものを正すだけのことです。 ね?」 男が粘っこい口調で言う。 私は必死に考えていた。 この男はマヤさんを傷つけるつもりだ。 マヤさんに何かあったら夫は絶対に平静ではいられない。 会社のことも、将来のことも、何も考えられなくなるだろう。 私との離婚は確実だ。 夫が自棄を起こすようなことだけは困る。 私は今のままでいたいだけなのだ。 でも、どうしたらいい?お金ではないと言われると、何も浮かばない。 「なぜ私にそんなお話を?私、みんなしゃべってしまうかもしれませんわ」 「ははは。 あなたはしゃべらない。 いや、しゃべれない。 よろしいんですか?これまであなたが嗅ぎ回っていたことが全部ご主人にわかっても。 ご主人だけじゃないなあ。 あなたのお母さん、お父さん、みんな悲しむでしょうねえ」 男は愉快そうに笑った。 こんな虫けらのような男、捻りつぶしてやりたい。 恥を忍んで実家に言えば、ものの数分で片がつくことはわかっている。 でも、そんなことをしたら、間違いなく別れさせられる。 その上、祖父は烈火のように怒り狂って真澄様の不実を責め、場合によっては立ち直れないくらい制裁を加えるだろう。 「ようやくわかっていただけたようですね。 では、始めましょうか」 眠れなかった。 一度その考えに取り憑かれると、他のことが何も考えられなくなった。 確かにずっと酷いことをしてきた。 なるべく、そう考えないようにしていただけで本当はずっとわかっていた。 あの人は奥さんなんだから、あんなにきれいで、何でも持っていて、恵まれてるんだから…だから、人の夫を奪っていいことになるだろうか。 きっと、とっくにばれていたのだ。 何てずうずうしい、汚い真似をする小娘だろう。 平気で人を欺いておいて笑って見せて、と心の中で思いながら、あの人は上品な微笑を浮かべて自分に答えていたのだろうか。 いたたまれなくなる。 間違っていることはわかっていた。 でも、どうしても自分を抑えることができなかった。 …嘘だ。 本当に抑えようとしたことなんてあっただろうか。 愛していると言われたときから、有頂天になった。 自分から彼に応えた。 あの雨の晩から、今までずっと。 本気で彼を拒んだことなど一度もない。 情状酌量なし。 不意に吐き気が込み上げる。 慌ててベッドの側のゴミ箱を引き寄せる。 ほとんど何も食べていないのに、断続的に吐き気が襲ってくる状態が続いていた。 入院する前から、体調はあまり優れなかった。 そう言えば、生理が遅れている。 不意に、頭を金槌で打たれたような衝撃が、ゆっくりと体の端まで伝わっていく。 最後にあったのはいつだろう。 あの人はいつ来たのだっただろう。 頭が回らない。 夢の中で誰かに追いかけられていて、どうしても足が進まないときのように、背後に迫ってくる気配に怯えながら、どうすることもできない。 じっとりと汗をかいていた。 心臓がどくどく打ち、赤黒い血が指先まで巡ってきて、そこでとくとく脈打っているのを感じる。 ごめんなさい。 もう遅いかもしれませんが、許してください。 何でもします。 だから、お願い。 どうすればいいのだろう。 どうやって屋敷に帰ったのか覚えていない。 気づくと、車が玄関に横付けされていて、運転手がドアを開いていた。 あの男と別れてから何をしたのか少しも覚えていない。 夢遊病のような状態で車を降り、待たせていた車までひとりで歩いたのだろう、きっと。 頭がいっぱいで、考えなければいけないことがあるのに、ひどくぼんやりしていた。 「簡単なことです。 僕があの女からご主人を取り返して差し上げます。 報酬はいただきません。 ただ、あなたに少ーしお手伝いしていただきたいんです。 ま、いきなりお返事をいただくのも何ですのでね、こうしましょう。 僕が本気だということを近いうちにお見せします。 あなたはそれを見てからゆっくり決めればいい」 そう言うと、男は私のハンドバッグから覗いている封筒を手に取り、チケットを1枚抜き取った。 あっという間の出来事だった。 「このコンサートの日までに、あなたを驚かせて差し上げます。 当日にお会いしましょう。 ごきげんよう」 ドアが開いた。 狂ったように陽気な口笛を背に、車を降りた。 黄昏の往来を、忙しなく行き交う人の群れ。 その瞬間、ぐにゃりと世界が歪んで見えた。 一日も早く、病院に行って検査してもらわなければ。 病院にいるのに病院に行くというのも変だが、まさかここでついでにというわけにもいかない。 会社で手配してもらった病院だ。 間違いなく彼の耳に入る。 それだけは困る。 もし、本当にそうだったらどうしよう。 その可能性に気づいたときからそればかりを考えていた。 言えない。 それだけははっきりしている。 彼は優しい人だ。 きっとすごく苦しむ。 全てを捨ててしまうかもしれない。 それだけはやめさせなければ。 彼がどれほどの重圧と戦っているかはよく知っている。 想いが通じた後での結婚は、自分以上に彼にとって苦渋に満ちた選択だった。 大勢の社員や社会的な立場、逃げられない責任が彼を固く縛っている。 今だって十分苦しんでいるのに、これ以上悩みを増やすようなことを言えるはずがない。 じゃあ、ひとりで産んで育てるのだろうか。 舞台はどうすればいい?…無理だ。 だいたいすぐにばれるだろう。 彼は必ず真実を突き止めるに違いない。 それが仕事なのだ。 八方塞だった。 マヤは両手でこめかみを押さえながら、無意識に体を前後に揺すっていた。 極度の緊張から、独りでに体が動く。 ぴくっと動きが止まる。 両手で頭を抱え込んだまま、マヤはゆっくりとベッドの上にうつ伏せた。 結局、それが唯一現実的な選択だった。 愛している人との間に子供を授かったとしても、その子は決して祝福されることはない。 それが、マヤの選んだ道、二年間歩いてきた道の果てだった。 そういう関係を、世間では不倫と呼ぶ。 初めてそれが実感できた瞬間だった。 心が真っ黒に塗り潰されていく。 これは罰だ。 無償の愛を無償の愛で返せなかった、欲張りで弱い自分に対する報いだ。 ホールは静かな緊張で満たされていた。 微かな衣擦れや咳払いさえほとんど聞こえない。 ぴんと張り詰めた空間に、音が充満している。 宙に描き出されていく色や形が見えそうなほど、くっきりしていて、鮮やかな演奏だった。 固唾を呑んで聴き入る聴衆の中で、紫織は独り、無音の空間に座っていた。 あの男は本気だ。 マヤさんは毒を盛られて倒れた。 伏せられているようだが、夫のあまりの憔悴ぶりに嫌な予感がして調べてみたら、すぐにわかった。 それ以来、怖くて仕方がない。 気持ちばかりが焦って、何も考えられないまま、今日を迎えてしまった。 隣の席は空いている。 そこにぽつんと置かれている銀色の物体。 いつそれが鳴り出すか、びくびくしながら待っている。 ついに最後の曲を残すだけとなった。 舞台の上でピアニストは最後の調整を行なっている。 その時だった。 バイブ音が低く鳴り響いた。 慌てて携帯を? み、震える指で受信メールを開く。 『舞台裏の階段付近で待つ』 小声で謝りながら座席の間をすり抜けると、右脇の扉を押して廊下に出る。 演奏中の舞台の裏は、閑散としている。 蛍光灯の灯りが虚ろなほど白く明るく、とても静かだ。 踊り場に出る扉に手をかけた瞬間、後ろから声をかけられる。 いつの間にか、あの男が後ろに立っていた。 「お楽しみいただけましたか?ちょっと愉快だったでしょう。 まだまだこれからですがね」 「私に何をさせるおつもりですか?」 「話が早くていいですね。 何、大したことではありませんよ。 ご主人とあの女を呼び出していただきたい。 これだけです。 ふたりであなたを裏切っているのですからね、血相を変えて駆けつけるはずですよ。 後は高みの見物と参りましょう。 あなたと僕と、ふたりで」 ぎゅっと唇を噛んで睨みつけるが、サングラスの向こうの目は面白げに細められたままだ。 「その携帯は持っていてください。 近いうちに連絡を差し上げます。 では、ごきげんよう」 黒い影は楽屋の方角に消えた。 扉に手をかけて開く。 螺旋状の階段が続いている。 ゆっくりと一段目に足をかけると降り始める。 どこかにスピーカーでもあるのだろうか。 ピアノの音色が流れてくる。 何だろう、この曲は。 初めて聴くのになぜかなつかしい。 限りなく優しく、美しく、でもどこか虚しい響き。 小部屋の中で、壁に向かって延々と独り言を言い続けている老女のような閉じた旋律。 何段くらい降りただろう。 少しも進んだ気がしない。 なんて長い階段なのだろう。 私は永遠にこの階段を降り続けているのではないか。 ああ、そうか、これはきっと罰なのだ。 過ちだと知りつつ正すことができなかった、卑怯で臆病な自分に対する報いだ。 「北島さん、どうぞ」 看護婦の事務的な声に、心臓がどくっと脈打つ。 ついに来た。 審判の瞬間。 血の気が引いた真っ白い顔で、マヤはふらふらと診察室に入っていった。 結局、病院には3日間いた。 表向きは過労で倒れたことで処理されたらしかった。 ドラマの撮影は急遽台本を変更することで、主役不在のまま終了していた。 実質的なクライマックスは撮り終わっていたので大きな問題はなかった。 もっとも、問題があったとしても、真澄のひと言で決着は着くわけだか。 麗とカイルに伴われてマンションに戻った。 仕事復帰は翌週からだった。 その前に、どうしてもやっておかなければならないことがある。 気が重かったが、考えても仕方がない。 行動することにした。 最初に浮かんだのは水城だったが、立場上、上司に隠し事をすることは難しいだろうと考えて相談するのはやめた。 彼女なら真澄とのことを知っているし、いろいろと詳しそうだから味方についてくれたら心強いと思ったが、やはり巻き込むのは気が引けた。 後は麗しかいない。 マヤから事情を打ち明けられたとき、麗はぎょっとした顔で一瞬口を開きかけたが、結局何も言わなかった。 てっきり怒られて、すぐに別れろと言われるだろうと予想していたマヤにとっては、意外な反応だった。 憔悴しきったマヤを前にして、とてもじゃないがきついことなんて言えないと麗は思ったのだった。 もっとも、結果によっては真澄にはっきり言ってやるつもりだった。 どう考えても責任が重いのは真澄の方だ。 既婚者で所属事務所の社長でありながら、10歳以上年下の所属女優を2年も不倫関係に置いた上、さらに追い詰めているのだから。 マヤと真澄の関係は、ふたりにとっては純愛でも、傍から見ている者にとっては、マヤが一方的に傷を負う不当な関係にしか見えない。 憤りを感じているのは麗だけではなかった。 カイルも同じ気持ちだった。 マヤが診察を終えて待合室に戻ってくる。 紙のように白い顔をしている。 まさか、本当に…。 麗は何と言って言葉をかければいいのかを必死で考える。 何も思いつかない。 マヤが隣にすとんと腰を下ろす。 「…麗、大丈夫だった。 違った」 聞き取れないほど小さな声でマヤが言う。 「ほんとかい?!あー、よかった。 よかったよ。 あんた、ほんとによかったね、マヤ」 麗は涙がにじみ出るくらいほっとしていた。 ひとしきり喜んだ後で、マヤの様子がおかしいことに気づく。 少しもうれしそうではない。 むしろ、ここに来るまでよりもさらに思い詰めた顔をしている。 「マヤ?あんた、どうかしたのかい?」 マヤの顔を覗き込みながら、恐る恐る尋ねる。 マヤの顔が強張る。 指が白くなるほど強く、スカートを? んだまま、マヤはゆっくりと口を開いた。 「麗、あたし、速水さんと別れる」 「いよいよですわね、真澄様」 冷静な声の中に、抑え切れない興奮をわずかににじませながら、水城が言う。 「ああ、そうだな。 君には本当に世話になった」 真澄から面と向かって礼を言われると、さすがの水城も一瞬狼狽する。 しかし、すぐに立ち直る。 「いいえ。 私は秘書として当然のことをしたまでですわ」 水城らしい物言いに苦笑を浮かべながら、真澄は改めて思う。 やっとここまで来た。 あの雨の匂いのする部屋からここまで来るのに2年近くかかってしまった。 明日、正式に辞令が下りる。 真澄は、大都グループの総帥に就任する。 紫織と結婚して間もない頃、真澄は英介に呼び出された。 屋敷でも会社でもなく、英介が贔屓にしている小料理屋でふたりは会った。 予想がつかない行動を取る義父に、真澄は不安が隠せなかった。 こんなことは初めてだった。 座敷で向き合うと、英介は唐突に尋ねた。 「おまえ、本気なのか?」 真澄は冷や汗を流しながら、義父の耳の早さに舌を巻いていた。 「何のことです?」 あくまでもシラを切り通そうとする真澄に対して、英介は言下に言った。 「とぼけんでもよろしい。 わしに隠し事ができるとでも思っていたのか、おまえは。 …どうやらあの娘はおまえの天女様らしいな」 真澄は怪訝そうに英介を見た。 疫病神だの女狐だのと言われるならともかく、天女と言った英介の声に皮肉は感じられなかった。 「おまえ、本気なのか?」 もう一度、同じことを尋ねられる。 「…はい。 僕は、本気です」 一番警戒しなくてはならない相手である義父に対して、なぜか素直に真澄は答えていた。 自分の覚悟を見せておきたかったのかもしれない。 「そうか」 英介は怒った様子もなく、手酌で杯を満たすと、ぐいっと呑んだ。 手の甲で口を拭う。 「どうする気だ?鷹宮との提携はもう動き出している。 うちからも相当出資しているだろう?」 責める調子ではなかった。 むしろ、一緒になって考えてくれようとしているようだった。 真澄は混乱していた。 激しい調子で見合いを勧め、強引に決めたのと同じ人物とは思えない。 「お義父さん。 何を考えてらっしゃるんです?」 警戒心を剥き出しにした真澄の顔を見ると、英介は面白そうに笑った。 「おまえがどういうつもりかは知らんが、あの娘は紅天女だ。 日本の宝だよ。 大事にせにゃならん。 おまえが紫織さんと別れることができて、何とか会社も傾かずに済んだとしても、今のおまえとじゃあの娘がかわいそうだな」 「どういう意味です?」 「おまえは芸能社の経営者だぞ。 そして、あの娘は女優だ。 商品に手を出したと言われる。 あの娘だって、色仕掛けで業界の有力者に取り入ったと言われるだろうな。 どちらにとっても面白くない」 英介の言っていることは真実だった。 もちろん、真澄自身はそんなことは痛くも痒くもない。 だが、マヤに肩身の狭い思いをさせたくはなかった。 「真澄。 大都の総帥になれ」 英介が低い声で言い切る。 有無を言わさぬ迫力だった。 「お義父さん…」 つまり、英介は引退しようとしているのだ。 グループ全体の経営を司る最高位を譲ろうと言っているのだ。 「おまえが大都の総帥になったら、おまえとあの娘との結婚を許してやろう。 わしの許しなどおまえにとっては鬱陶しいだけかもしれないが、あの娘にとってもその方がいいだろうな。 鷹宮との提携で得ている利益を維持しろ。 それが就任の条件だ。 鷹宮がビジネスだけの関係で納得してくれるならそれでいい。 もし、提携が継続できないなら他の手を考えろ。 おまえの腕の見せ所だ。 わかったな?」 「お義父さん…」 真澄は驚きと何かわけのわからない感情で胸がいっぱいだった。 それは感動だったかもしれないし、初めて向けられた親子の情のようなものに対する気後れしがちな喜びだったかもしれない。 英介がマヤとのことを知っていて、なおかつ認めようとしてくれていることが少しも嫌ではなかった。 それは、雪解けだった。 英介が第一線を退く決意をしたために、ビジネス一辺倒の冷たさが和らいだこともあったし、期待通りの成長を見せた真澄に満足していたということもあった。 念願の紅天女の上演権が大都に帰属したことで、長年の確執がひと段落していたことも関係している。 とにかく、その晩、ふたりは初めて穏やかに向き合い、酒を酌み交わしたのだった。 それから約2年。 打てる手はすべて打った。 外堀は埋まった。 後は紫織との離婚を残すだけだった。 鷹宮家にしても、離婚くらいですべての提携関係を破棄するとは思えない。 しかし、もしそうなったとしても迎え撃てるだけの万全の準備が整っていた。 真澄の携帯が鳴る。 聖だった。 「そっちはどうだ?…よし、わかった。 そのまま進めてくれ。 頼んだぞ」 報告だけ受けると、さっと切る。 もう一息だった。 早くマヤの曇りのない笑顔が見たかった。 それだけを頼りにやってきたようなものだった。 マヤがいるから、真澄は日々立ち上がることができるのだ。 また携帯が鳴る。 公衆電話からだった。 「もしもし、速水だが」 電話の向こうから低いざわめきが聞こえてくる。 相手は賑やかな場所にいるようだった。 しばし沈黙に耳を傾けると、真澄は口を開いた。 「マヤ?」 今までマヤが真澄の携帯にかけてきたことは一度もない。 だが、真澄は確信していた。 マヤだ。 「…速水さん」 やはりマヤだった。 「どうしたんだ?何かあったのか?」 電話の向こうにいるマヤを思い浮かべながら、真澄は優しく尋ねた。 「…速水さん…速水さん…速水さん…」 小さな声でマヤが幾度も幾度も真澄を呼ぶ。 答えることも遮ることもできないまま、真澄はマヤの声を一心に聴いていた。 どんな愛の言葉よりも、ただ名前を呼ばれることが、こんなにも心を揺さぶる。 会えない切なさと溢れるほどの愛しさ、ひとりでは持ちきれないほどの想いが一気に突き上げる。 「…ごめんなさい」 はっとしたときには電話は切れていた。 呆然としたまま電話を見つめる。 あれは、ふたりが会うようになって間もない頃だった。 あまり会えないこと、会っても時間が限られていること、ふたりの関係を隠さなければならないこと、嘘を吐かせていること、何も約束できないこと…すべて自分のせいだった。 あるとき、マヤは言ったのだった。 謝らないで、と。 真澄といることを選んだのは自分なのだから、勝手に加害者になるのはずるい、と。 それでも真澄は心の中で謝り続けてきた。 きっとマヤも心の中で謝り続けてきたに違いない。 あの雨の晩にふたりが落ちた穴は、底が見えないほど深く、暗かった。 どちらが悪いとか、誰の責任かを指摘すること自体が不可能だった。 抗えない波に呑まれて、ただただ流されるしかなかった。 それでも、ふたりは何とかやってきた。 共犯関係というのが一番近いのかもしれなかった。 どちらが被害者でもなければ加害者でもない。 ふたりで犯した罪をふたりで背負ってきた。 だから、絶対に謝らない。 2003.

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かつての少女は大人になった。その後は誰も知らない。|僕は君の顔を知らない。君は僕の声を知らない。|NOVEL DAYS

僕 の 目 に は 君 しか 見え ない 僕 の 耳 に は 君 しか 聞こえ ない

それから数時間。 そろそろ晩ご飯の心配をしないとなあと思い、のそのそとベッドから起き上がると、それと同時に部屋のドアが開けられた。 「……真白?」 立ち上がったまま止まっていると、ひょこりとドアの隙間から真白が顔をおずおずと覗かせる。 僕の顔色を窺うように、さながらエサをもらうときに機嫌を尋ねるような要領でじっと見つめている。 「あ、あの……その……」 やがてその膠着状態が飽和して、真白が口を開いた。 「さっきは……すみません。 気を悪くするようなことを言って……」 どうやら彼女は僕に謝りにきたようだ。 別に怒っているわけじゃないのに。 「いや、そんな気にしているわけじゃないから……謝らなくても。 僕のほうこそ、大人げなくてごめん……」 「ただ……その、優太さんが優しい人だっていうのは、私の本心ですので……そこだけは」 もじもじと両手を前で合わせてはしきりに動かしている。 ……ここだけは譲らない、っていう意思を汲み取ったので、僕もそれについては何も言い返さず、次の言葉を口にしようとしたけど、 「「あ……」」 口を開くタイミングが揃ってしまい、気まずい時間がまた流れる。 「……晩ご飯、どうしようか?」 そのいたたまれなさをどうにかするために、頭をポリポリと掻きながら僕はそう切り出した。 「買い物、行けなかったから……家にあるものでどうにかするか、外で食べるかだけど……」 どうする? と静かに尋ねる。 「昨日のうどんがちょっぴり残っているので、それにしませんか? うどんは足して煮込めばいいだけなので」 「……お餅くらいは、焼こうか」 「お餅ですか? いいですねっ、私人間になったらお餅を食べてみたかったんですっ! 毎年お正月になるとみんな食べていて、どれだけ美味しいんだろうなあって」 急に元気が出てきた真白は、お餅のことを想像してじゅるりとよだれを飲み込んでいるようだ。 食欲に忠実なのは……ある意味猫っぽいかもな。 二日目のカレーは美味しいとよく言うけど、二日目のうどんは大して味は変わらなかった。 つまり、美味しい。 残り物だから野菜とかの具は少なめだけど、致し方ない。 明日はきちんと買い物に行かないと。 真白待望のお餅は、安いパックの切り餅だったけど満足してくれたようだ。 表面を少しキツネ色に焦がしたそれをうどんのおつゆに通して力うどんにしたり、シンプルに醤油を垂らして食べたり、きなこをまぶしたり。 ……お餅を三つも食べるとは。 僕は二つで限界だ。 まあ、お餅を口に入れた瞬間「んんんー美味しいですー」と頬を押さえながら幸せそうに食べている真白の様子は、見ていて微笑ましかった。 しまいには「お餅、まだ家にありますかっ?」と聞いてくるし。 まだいくつか残っているよと答えるとすごく嬉しそうにしていた。 ないはずの尻尾が揺れているような、そんな感じ。 「また今度食べちゃいますっ」って。 なくなったら、またパック切り餅買ってきてあげるか……。 そんな同居生活二日目の晩ご飯も終わって、僕はお風呂に入ることにした。 風邪を引いている間は一切入れなかったし、昨日もシャワーで済ませてしまった。 やっぱり冬はゆっくりお湯に浸かりたい。 台所の隣、つまりまあ、僕の部屋と反対隣にある脱衣所で服を脱いで洗濯機に放り込む。 お湯をはってあるとき特有のお風呂場の湿った空気をたっぷりと吸い込んで、ゆっくりと浴槽に体を沈める。 「はぁ……やっぱり気持ちいいなあ……」 祖父はこういうときに「あずましい」なんてよく呟いていた。 北海道の方言みたいで、気持ちいいとか心地よいときに使う。 まあ、お風呂に入ったときにしばしば使われるらしい。 僕は東京育ちだから、なかなか勝手に口を衝くことはないけどね。 もとは祖父のひとり暮らしで使っていた家ということもあって、ある程度バリアフリー的な設計をなしている。 浴槽の高さは低めだし、端っこには段差もついて出入りしやすくなっている。 高さが低い分幅と長さはたっぷり取られていて、足を伸ばしてのびのびとくつろぐこともできる。 手すりも至るところについていて、まさに装備はばっちり。 祖父は体が悪かったわけじゃないけど、いつどうなるかわからないということで、このようなリフォームをしていたみたいだ。 そんな祖父の恩恵にあずかりつつゆったりしていると、脱衣所のドアが開く音が聞こえた。 ……ん? 真白? 何か用事でもあるのかな……。 なんて思っているけど、いつになっても僕に声をかけることはなく、浴室のすりガラス越しには動いている真白のシルエットしか見えない。 「っっ?」 少しして、そのシルエットの動きがおかしいことに気づいた。 ……なんていうか、その、両手を足の下まで伸ばして、片膝が上がっているというか……。 その、つまりはボトムスを脱いでいる体勢のように見えたんだ。 「まっ、真白? どうした? 急に」 確認の意思も込めて少し大きな声で脱衣所の彼女に尋ねる。 「よかったらお背中流しますよ……?」 バスタオルで一通り身体を隠した真白と、こうなると予想していなかったのですっぽんぽんの僕。 ……あの、でも指の隙間空いてますよ? 僕も慌てて湯船のなかに戻って身体全部をお湯で隠す。 幸い、入浴剤を入れているのでお湯越しに透けることはない。 ……とはいってもばっちり見られたよね……今? ……もうお婿行けない。 行くあてもないけど。 「に、人間観察をしていると、同居する男女は一緒にお風呂に入るものだと知ったので入ってみたんですが……ご迷惑でしたか?」 「一体どこのお家を観察していたの?」 それ絶対見ていた家間違えているよ……。 カップルかな? このニュアンスだと親子ってわけじゃなさそうだからな……。 「そ、それじゃあ失礼します……」 って結局入るの? マジで? 真白が湯船に足を踏み入れようとしてきたので、僕は伸ばしていた足を慌てて畳んで体育座りをする。 端っこの段差がないほうに寄っていると、真白は僕の目と鼻の先のスペースに入っては、お湯に浸かり始める。 真白さん……近くないですか? それも人間観察の成果ですか? ……怖いから聞かないですが、その観察していた人たち、変なことおっぱじめてないですよね? 「はうう……こ、これがお風呂なんですね……すごく変な感じがしますぅ……」 肩まできっちりお湯に沈むと、真白は目を半分閉じつつそう漏らす。 「……そういえば、猫って水苦手なんじゃ?」 今まで猫みたいに熱いものはふーふーしていたし、髪の毛だって猫っぽいし。 だからお風呂も苦手ではないのかなと思った次第。 「苦手は苦手ですよ? でも、人間さんがあんなに心地よさそうに入っているのを見ていると、これも興味が出て来ちゃいまして……えへへ……」 少しだけ赤く染まった頬を触りながら、真白は答えた。 ……っていうか普通に会話しているけどどうしよう、この状況。 今僕全裸だから湯船から出る訳にはいかないし、かといって真白が僕のいる浴室で身体を洗うのも精神衛生上非常によろしくない。 ……じゃあ真白が身体洗っている間僕はお湯に潜っていればいいのかな。 どれくらい時間がかかるかわからないけど、十五分とか? ……世界チャンピオンになれる気がするよ。 それだけ息を止めていたら。 「ま、真白? そ、それも人間観察……なのかな?」 「はい、女の人、ちょくちょくこうやって男の人の腕のなかに入ってましたよ?」 ……絶対に真白は僕以外の誰かとかかわりを持たせたら駄目かもしれない。 特に男に対しては。 色々間違いが起きそうな気がする。 というかこの体勢、僕の僕(察して)が真白のちょうど……背中と……なところに当たりそうで反応しそうなんです。 バスタオルがあるにしてもね。 今必死でこらえてますけどね。 けどそんな我慢空しく。 やはり真白のふわふわな身体には勝てずに、 「…………」 「あれ? 優太さん、身体洗うんですか? だったらお背中流しますよ?」 無言でくるっと反対を向いて湯船から出て、そのまま浴室を出ようとした、のだけれど。 「あっ、ダメですよ優太さん、ちゃんと身体は洗わないと。 汚いままだとモテませんよ?」 真白も一緒に立ち上がって、逃げ出そうとした僕の右手をがっちり掴んで引き留めては、そのまま僕をお風呂場の椅子に座らせた。 ……多分、あれだ。 真白は、自分の裸を見られたり、触られることには一定の羞恥があるのだろうけど、知識は伴っていないからどういうことをしたらどうなるのかってことをわかっていないんだ。 なんていうか、思春期が来る前、もしくは来たばっかりの小学校中学年くらいの感覚? なのだろう。 子供はキャベツ畑で拾ったり、カッコウが落とすんだよと教えられるお年頃くらいの。 だからこういうことも普通にできてしまうんだ。 ……うん、性教育って大事。 人間観察だけじゃ賄えないからね。 天使も例外ではない。 「洗っちゃいますねー」 持ち込んだタオルにボディーソープを数滴プッシュして、真白は僕の背中をごしごしと洗い始める。 ……ああ、もう駄目だ。 為すがままに進んでしまっている。 「こ、これも……恩返しの一部なの?」 どうしようもないのでとりあえずそんなことを聞いてみる。 「優太さんがそのつもりなら全然それでも構いませんけど……とくにそういった気はありませんよ?」 ……じゃあこれは素なんですね。 わかりました。 「かゆいところありますか?」 「……大丈夫だよ」 「はーいわかりましたー」 ……おじいちゃん、ごめんなさい。 せっかく残してくれた広々としたお風呂をこんなふうに使ってしまって。 僕は悪い子です……。 「それじゃあ背中はこれくらいで……次は」 「前は僕が自分でやるから。 真白はお風呂入っていていいよ」 食い入るように叫んでは、僕は真白が持っているタオルをひったくった。 「そ、そうですか……? それならお言葉に甘えて……ほわぁぅ……」 ちゃぽんという音と真白のとろけるような声が聞こえてきたのを聞いて、僕は湯船の真白に背中を向けて残りの前と、頭を洗い始めた。 多分、過去一番で早く、そして丁寧に洗えたのではないかと思う。

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