ナサニエル ホーソーン。 ホーソンとは

ナサニエル・ホーソーン

ナサニエル ホーソーン

まず歴史のお話を少々。 新大陸へやってきたヨーロッパ人たち。 その多くが宗教改革の過程でそれぞれの国の権力者から弾圧された、プロテスタントの一部の厳しい教派の民衆です。 いわば それまでの土地で受け入れられなかった教派の人々が新天地を求めて、自分たちの理想郷を作ろうとしたのでした。 移民の多くを占めた ピューリタン(清教徒)たちは非常に潔癖な、聖書の原理主義的な思想の持ち主です。 彼らの見解によると、 セクシャルなことは罪!もともとキリスト教全隊の倫理観において、性的なことは子供を作るためにだけ許されたことで、快楽のための行為であってはなりません。 この倫理観を極限まで煮詰めた、プロテスタントの中でも過激派に属するこの教派はヨーロッパ圏で弾圧されました。 彼らは楽園を求めて新大陸へ渡ったのです。 自然、アメリカという国において性的なことは抑圧されることになります。 アメリカ文学の大きなテーマは、この性の抑圧について。 表面的にはキリスト教的倫理におさえつけられた人間の肉体的欲求が、どのように個人の葛藤に影響するかがアメリカ文学のミソ。 ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』フォークナー『八月の光』『サンクチュアリ』にその傾向が顕著ですね。 1804年7月4日、 ナサニエル・ホーソーンはアメリカ合衆国マサチューセッツ州セイレム(セイラム、セーレムとも)に生まれます。 ホーソーン家の祖先はマサチューセッツ州の超名門!父方の祖先はクエーカー教徒の迫害に関わった他、セイレムの町で「魔女」という告発を受けた人が次々と処刑され密告と拷問、疑心暗鬼で人々を恐怖におとしいれた集団ヒステリー事件「セーレム魔女裁判」の判事をつとめています。 また、母方の祖先に近親相姦の疑いで迫害された親族を持つホーソーン。 これらの祖先の逸話を聞いて育った彼の中で、 神の教えと善悪に対する思索が膨らんでいったのは当然のことでしょう。 4歳で父を亡くし母方の実家に引き取られて育ったナサニエル少年は、成長してボウディン大学に進学します。 ここで後に彼の人生を変える、詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローや第14代アメリカ大統領となるフランクリン・ピアースと出会いました。 卒業後、ボストンの税関に就職しますが翌々年に退職。 その後また生活苦から今度はセーレムの税関に就職するものの、うまくいかずにすぐ退職。 そんな困難の中で彼が上梓・出版したのが『緋文字』です。 たちまち注目され大ヒット!『白鯨』の作者ハーマン・メルヴィルは、この作品をもってホーソーンを最も優れたアメリカ文学作家と呼びました。 一体どんな作品なのでしょう? 17世紀ニューイングランド。 ある村のさらし台に、生まれたばかりの女の赤ん坊を抱いた1人の若い母親がさらし者の刑に処されます。 人妻だったヘスター・プリンは姦通の罪を犯し、誰とも知らない男との間に子供を成した罪で群衆の前にさらされたのです。 しかし彼女は男の名前を明かしません。 まさにその場にやってきたのが、長年行方不明になっていたヘスターの夫、ロジャー・チリングワース医師。 彼は妻をかどわかした相手に復讐を誓います。 生まれた女の子はパールと名付けられました。 実は ヘスターと姦通の罪を働いたのは、人々から崇拝される若く聡明な牧師ディムスデール。 牧師は自責の念にかられて心身を弱らせます。 チリングワース老人は自分の身分を隠し、医者の立場を利用して妻を盗んだ敵に近づきました。 いわば、夫が間男に対して復讐を加えることを企てたのです。 一方で ヘスターは緋色(深い赤色)の「A」の文字をかたどった刺繍のアップリケを胸にずっとつけることを義務付けられます。 パールとともに村外れに住み、針仕事で生計を立てるシングルマザーのヘスター。 最初は石を投げられ迫害されるヘスターでしたが、美しい針仕事や慈善の仕事に魂を注ぎます。 彼女に対して、そして「A」に対しての世間の目が変わっていくのです。 『緋文字』では小説の早い段階で、ヘスターの姦通の相手がディムスデール牧師であること、ロジャー・チリングワース医師の正体がヘスターの消息不明の夫であったことなどが明かされます。 ミステリー要素は少なく、淡々と読みすすめる読書であることが特徴です。 シンプルなぶん、人物の心のひだの奥がよく感じられる小説になっています。 不義の子パールは天衣無縫に育ちました。 姦通を犯し、父無し子を産んだ 罪の女として差別されるヘスターでしたが、慈善行為や謙遜によって人々から注がれる目が変わってきます。 一方で、良心の呵責に苦しみながらも地域の名士として、社会的地位を捨てることができないディムスデール牧師。 過去にとらわれ復讐にのみ執着するチリングワース医師。 凛として自分の手ひとつで子供を育て生活するヘスター・プリンの見事さが対比的に際立ちます。 彼女の思想はやがて時代を先取りした考えへ傾くのですが……。 ディムスデール牧師に毒牙をかけようとするチリングワース医師のことを警告するためにヘスターは動き出します。 男とは、女とは。 ヘスターの考える新しい未来の形とは? 倫理的に許されない性愛を、愛の結晶の形として祝福した本作は革命的な小説でした。

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倫理って絶対? 問い今も ナサニエル・ホーソーン「緋文字」|好書好日

ナサニエル ホーソーン

ナサニエル・ホーソーン「あざ」は何の物語なのだろうか。 科学者の物語、夫婦の物語、あるいは可哀想な女の物語か。 私は普遍的人間の物語であると考える。 それについて考察していくとする。 主人公はエイルマーという名の科学者である。 彼は科学のあらゆる分野に通じた優れた科学者であり、日頃科学研究に身を捧げてきたが、恋愛を経験しその相手の女性を妻にする。 その妻の名をジョージアナという。 ジョージアナはたいそうな美人であったが、頬の上にあざがある。 そのあざの存在を許し得なくなってしまったエイルマーはあざを無くすための手術を行うが、失敗しジョージアナは死んでしまう。 このあらすじだけでは分かりづらいが、この物語はキリスト教との深い繋がりを持つように思われる。 ホーソーン自身がキリスト教徒であったことは言うまでもなく、彼は自身の著書の中で多くキリスト教的人間考察を行っている。 そこで、この物語をキリスト教的に見直してみる。 まず、作品名である「あざ」(birthmark)の存在について考えてみよう。 ジョージアナは「あざ」以外完璧であった。 それさえなければ神々しささえ感じるほどの美しさ、しかしただ1つ「あざ」という欠点が彼女を人間的なものにおとしめている。 このあざは生まれたときから彼女についていて、これは人間が生まれつき持っている「原罪」を表現している。 エイルマーは原罪を受け入れられず、なくそうとするが失敗するのである。 それからここでひとつ、物語を理解するに重要な概念を紹介する。 それは、自然(nature)と人工(art)の対立だ。 これはたびたび様々なものを意味する。 「あざ」はジョージアナが生まれつき持っているもの、つまり「自然」とする。 そして「人工」はエイルマーの科学である。 エイルマーはあざ(自然)に大して科学(人工)をもって挑み失敗する。 ここには人工が自然を超えられるわけがない、超えるべきでない、というメッセージがこめられている。 本文に「科学に対する愛が、その深さと魅力において女性に対する愛に匹敵すると考えられるのは異状ではなかった(it was not unusual for the love of science to rival the love of the woman in its depth and absorbing energy)」とあるが、女性に対する愛が人間の持つ自然な姿であるから、それが科学(人工)に対する愛と比べられること自体、人間の本来の姿から脱線しているだろう。 そしてこの後、この妻に対する愛と科学に対する愛の結合が、この物語において、注目すべき結果と印象深い教訓をもたらした、と語り手は物語の主題を読者に示している。 ここでもう一歩踏み込むと、聖書の中で、神は創造主(The Creator)、人間は被造物(Creatures)と表される。 つまり自然=神、人工=人間であり、これは人間が神を超えようとする物語なのだ。 物語の時代では、科学の進歩・発展が大きく、熱心な科学の信望者の中には、やがて人間が天地創造の秘密を把握し、さらには人間が新世界を創造するとこまで行くのではないか the philosopher should lay his hand on the secret of creative force and perhaps make new worlds for himself)という風潮さえあったとされている。 しかしこれは人間が神にとってかわり、神の地位に身を置こうとする行為である。 またこれが教訓となる結果をもたらすのである。 不完全さ(mortality)という言葉が作品中に登場する。 その他にmortalというのは、堕落した、腐敗した、死に至る宿命を持った、などの意味を持ち、つまり人間のことである。 反対語としてimmortalityがあり、これは完全さ、永遠性を意味し、神のことである。 mortalityとimmortalityの対立も作品の重要なテーマである。 人間は不完全な存在であり、ジョージアナのたった1つの欠点あざはそれを語っている。 人間はそのmortalityゆえに、低級な動物同様土に還らなければならない。 この作品は人間のmortalityを忘れてしまった人間への警鐘となっているのだ。 エイルマーの強い語り口は作品を通して印象深い。 その言動からは傲慢さ、思い上がりが伝わってくる。 結婚した妻の欠点を、強い「衝撃を与える(shocks)」ものとし、見る度顔色を変えてしまうような男である。 口ではジョージアナのことを思いやって手術をやってあげるようだが、ジョージアナが困惑しているのは明らかであるし、それでエイルマーの気が済むのなら、と受け入れる彼女のほうがむしろ愛情深いように思える。 そして手術が失敗して死んでいく彼女の姿は、これまで以上の神々しさと神聖さをもって描かれるのだ。 この美しい姿に、ホーソンが自然(Nature)に軍配をあげたことが示されている。 このことにキリスト教的教訓があらわれているといえるだろう。 では、行われてきたホーソーン研究にのっとって「あざ」を再解釈してみよう。 ここでは矢作三蔵の「アメリカ・ルネッサンスのペシミズムーホーソーン、メルヴィル研究」(1996年、開文社出版株式会社)を参考にする。 この研究の中で「内と外」という概念が登場する。 ホーソーン文学では、情景として「内」と「外」、そしてそれを超えようとすることがよくある。 「中心から外への動きを読む読み方は、ホーソーン文学研究において、とくに目新しいことではない。 作品の多くが、なんらかの原因でこれまでの生活を捨てざるをえなかったり、また、自分から積極的に知らない世界へ乗り出すといったテーマを扱っていることを思えば、それも当然のことである。 」とある。 では、この作品「あざ」においては、何がそれにあたるのだろうか。 登場人物が場所的な大きな動きを見せることはない。 不完全さをのりこえ、神の領域にまで憧れ踏み入ろうとするエイルマーが「中心から外への動き」なのである。 では、ホーソーンは「外」をどのような世界と見ているか。 「夢や希望を抱いたり語ったりすることは否定されないが、夢や希望をいそいで実現しようとすると手厳しく批判される。 」「ロマン的な心情には肯定的だが、ロマン的な行動はきっぱりと否定する。 」とあるが、まさにその通りで、外へ向おうとする動きは失敗する。 これが「あざ」を悲劇たらしめるのである。 しかしここのバランスはとても微妙で、エイルマーが妻のあざを取り除くことを夢見るとこまでは、ジョージアナ本人の「気高く純粋」という言葉で評価されている。 では何がいけなかったのであろうか。 それは矢作三蔵の著書によって明らかにされている。 「もしエイルマーがもっと深い叡智に達していたならば、天上での生活と同じ識地せこの世の生活を織り込んでくれたであろう幸せをこのように投げ捨てる必要などなかったであろうに。 一時的な状況がエイルマーには強すぎたのである。 エイルマーは、時という影の領域のかなたを見つめ・・・・・・現在のなかに完全な未来を見つけるということができなかったのである。 」ホーソーンは反超越主義であり、同時にロマンティシズムへの賞賛・反対を併せ持っている。 キリスト教的に解釈して「人工(Art) VS 自然(Nature)」、「不完全性(mortality) VS 完全性(immortality)」という概念がある。 そして「内と外」という概念がある。 合わせて考えると、2つの世界の狭間に生きる人間の姿が見えるだろう。 私たち人間は常に動き、向上を求め、絶えず境界を超えようとする。 人工が自然を超えようとする機会は多々ある。 たとえばハイテクノロジーコンピュータ、高層ビル、原子力発電所などだ。 自分たちの力以上のものを求め、作り出し、やがては手に負えなくなる。 果たしてそれは幸せなのだろうか。 ロマンを追い求め実現し、何を得たのだろう。 どんどん次のものが欲しくなる、叡智的だとはいえないループだ。 「創造主」の完全性、「被造物」の不完全性を忘れるエイルマーの姿は、まさしく普遍的人間をあらわしている。 「あざ」の時代から200年経つ今でもそれは変わらず、ホーソーンは鋭い教訓を私たちに示し続けている。 もっと日常的なことに置き換えれば、私たちが日々行動する際「内から外へ動こうとする」ことが絶え間なくある。 何か新しい趣味をはじめるとき、資格を取得しようとするとき、買い物をするとき。 全て純粋な好奇心、向上心からきているとしても、それが自分の力以上のものになっていないか。 強欲ではないか。 ある程度のものが手に入れられるようになった今、あえて「手に入れない」ことを選択することが人間に必要なのではないか。 取捨選択をして生きていくことが必要なのではないか。 妻のあざに不完全性を見出してしまっても、その中に幸せを見出すことが必要なのではないか。 欲張ると失敗する。 「人工」と「自然」、「不完全性」と「完全性」、そして「内」と「外」。 このバランスを絶妙に保って生きていかなければいけない。 これが、この物語の主題であり、衝撃的で興味深い教訓となっているのではないだろうか。

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『ウェイクフィールド』ナサニエル・ホーソーン|宇宙の遭難者

ナサニエル ホーソーン

こうしてウェイクフィールドは、生きている世界から姿を消し、死者の仲間にも入れてもらえぬ境遇となった。 常ならざる者の存在はいつだって、記録と記憶に強烈な爪痕を残していくものだ。 例えば、メルヴィルが生み出した奇妙奇天烈な男。 そしてこの男、ウェイクフィールド。 ホーソーンはすばらしい短編小説をいくつも書いている。 百年以上たったいまも読まれているんだ。 そのうちのひとつに、ウェイクフィールドという名の男が、妻にちょっとしたいたずらを仕掛ける話がある。 仕事で、二、三日旅行に出かけてくる、とその男は妻に言うんだが、実はどこへも行かずに、四つ角を曲がったところに部屋を借りて、ただ成行きを見守っているのさ。 ……何日かが何週間かに代わり、何週間かは何か月かに代わる。 さらに何年かが過ぎ、かれこれ二十年以上の時が経つ。 ボルヘスが「ホーソーンの短編のうちの最高傑作であり、およそ文学における最高傑作のひとつと言っても過言ではない」と激賞しているのを知って期待はいやおうなしに高まった。 往々にしてこういう期待は裏切られるものだが、本書においてはまったくの杞憂だったといってよい。 シンプルな話である。 ウェイクフィールドという男が、失踪したふりをして、家から目と鼻ほどのある部屋に潜伏する。 やがて時は過ぎ、葬式が済み、寡婦となった妻が日々生活しているのを、ウェイクフィールドはただ眺めている。 20年間もそんな生活を続けたウェイクフィールドがついに動くことで、この短い物語は幕を閉じる。 たった十数ページの物語だが、読んでいるうちに、まるで底なしの谷間をのぞきこむような奇妙な感覚を覚えた。 ホーソーンは、ウェイクフィールドの狂気じみた行動の仔細を書き込んでいくが、心境についてはなにひとつ語らない。 なぜ行方をくらましたのか、そのきっかけはあったのか、家の近くを選んだのはなぜか、自分の葬式を眺めるのはどんな気分か、20年も孤独な生活を続けたのはなぜか、どうして最後にああいう行動をしたのか……圧倒的な不可解さで、この異常な物語は構築されている。 なにも書かれていないから、わからない。 わからないから、考える。 「自分がいなくなった後も平然としている世界」を見て、彼は何を思ったのだろうかと。 人間にとって「自分」は唯一の存在、世界の中心だ。 自分が死ねば自分にとっての世界は終わる。 しかし、自分が消えても世界は終わらない。 かつて自分がいた場所には他の誰かがすべりこみ、なに食わぬ顔をして世界は回り続ける。 「私」は世界にとっては代替可能な任意の一点であり、その存在は耐えられないほどに軽い。 多くの人は、この不愉快な事実から目をそらして生き続ける。 だが、ウェイクフィールドは違った。 おそらく彼は、「自分の存在価値」をその目で確かめようとしたのではないだろうか。 自分の消失が世界にどれほど影響を与えるのか、どれほどの人が自分の消失を悲しみ、覚えていられるのか。 自分の死後、世界はどう変わり、どう変わらないのか。 人を思う心は彼なりに無傷のままで持ちつづけ、いまだに人の世のことがらに関心を絶やさずにいるのに、彼のほうからそれらのことがらに波紋を起こす力は失っている、これが前代未聞の運命だ。 それは途方もない、恐ろしい試みだ。 ふたを開けなければ知らずに済むのに、そしておそらく知らずにいた方が幸せに過ごせるのに、ウェイクフィールドはふたをこじ開けた。 オースターは「ニューヨーク三部作」で、都市における個人の代替可能性について書いた。 だから、ウェイクフィールドの逸話が『幽霊たち』に登場することは、ひどく似つかわしいように思える。 住み慣れた町で遭難し、個人として持つものすべてを捨て、「宇宙の遭難者」となったウェイクフィールド。 彼は肉体を保持しながら死者のレッテルを貼られ、都市の中の幽霊となった。 しかし、住み慣れた路地裏は異空間へもつながっている。 住み慣れた町で遭難し、生きながらにして死者の仲間入りを果たすことだってあるのだ。 人間の感情に裂け目を作るのは危険なことだ。 裂け目が広く長く、ぱっくり口を開いてしまうからではなく、その口があっというまに元どおり閉じてしまうからだ。 人面の大岩: 人面の大岩がある小さな村には、「大岩と同じ顔をした人間がいつかやってくる」という伝説がある。 いつも大岩を眺めながら実直な生活を営んできた男は、伝説を信じて「大岩の賢人」が来るのを待ち続ける。 ホラー系の話かと思いきや、『木を植えた男』のような、素朴で実直な賢人の物語だった。 地球の大燔祭: 大きな大きな焚火で、過去の古い遺物、慣習、悪しき影響を与えるものをすべて燃やしてしまおうと人々は考える。 財宝、王冠、ギロチン、衣服、書物、すべてがごうごうと炎上する。 真っ暗な地球の中でただひとつ、真っ赤に燃える炎を想像した。 おもしろいんだが、妙にキリスト教色が強い。 本消失系なら『華氏451度』『あまりにも騒がしい孤独』の方が好き。 ヒギンボタム氏の災難: ある行商人が、「金持ちのヒギンボタム氏が殺された」という噂を耳にする。 町でその噂の真偽を確かめると「そんなわけあるか! ヒギンボタム氏はちゃんと生きている」と反論される。 デマと証言が錯綜して、やがて行商人はある意外な事実にたどりつく。 ポーの推理小説のようなおもしろさ。 『予告された殺人の記録』が好きな人はけっこう好きかもしない。

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