南 こうせつ。 南こうせつの学歴|出身大学高校や中学校の偏差値と学生時代

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南 こうせつ

人物・概要• 大分市(旧:大分郡竹中村)のの生まれ。 3人兄弟の三男。 卒業、中退。 寺は次兄・光洋が継ぐ予定だったが早世し、現在は、東京でサラリーマンをしていた長兄・慧昭 (えしょう)が定年退職後に跡を継ぎ、を務めている。 その長兄はにのドキュメンタリー番組「」(制作)で取り上げられた。 なお、竹中と言う地名はかぐや姫の楽曲「ひとりきり」の歌詞にも出てくる(南が作詞を担当)。 同じ年10月「南高節とかぐや姫」としてベース奏者、らと『酔いどれかぐや姫』をリリースする。 認知度を上げるため、所属事務所の指示でに出場、4週勝ち抜いた翌週、審査員をしていたに「フォークをやるならこの番組に出るべきでない」と言われ、落選した。 その後、と新生かぐや姫を結成、かぐや姫解散後にソロ活動を開始した。 3月、日本武道館で、日本人ソロ・としては初めてのワンマン公演を開催する。 同年5月には追加公演も行われた。 1980年代はオールナイトの野外コンサート『』を毎年九州で中心となって開催し、多数の観客を集めた。 1983年6月には、フジテレビ系列「」にて、とで「」を歌った。 その後2人は親交を深め、翌年で行われた「世界湖沼会議」の前夜祭にてジョンとともにライブを行った。 またには、ジョンとのデュエット作品『岩を砕く花のように』を発売している。 2009年9月には、こうせつの還暦記念として、つま恋でサマー・ピクニック・コンサートが行われ、約2万人の観客を集めた。 に、12月2日にで行なわれたの来日コンサート「」東京公演で、前座を務めた。 名前を平仮名表記にしているのは、レコードに印刷された「南高節」という文字を見て、「私はこの『 なんこうぶし』という曲を聴いてみたい」と近所に住んでいた老人が発言したから、と本人が「」や「」で説明している(がこうせつの持ってきたデモテープのラベルに「南高節」と書かれていたのを、「なんこうぶし」と読んだというエピソードもある)。 が帰国した直後、自作曲『』を入れたMDを送り、話題を呼んだ。 放送の『』で、杵築の自宅の広大な土地で気に入った樹木を植えて育てている様子が紹介された。 仕事を終えて自宅に戻ると、決まってそれらの樹と話をするという。 また、家庭菜園にも勤しんでいると紹介された。 さらに同番組で、南の歌声を日本音響研究所で分析したところ、通常人には聞こえない超音波の域まで声が出ていることと、やの音にみられるようなゆらぎがあって、聞く者に癒しを与えるという結果が出た。 オペラ歌手のが、中学の頃かぐや姫の歌をギターで弾き語りしており、南に憧れていたと語り、ステージで「」を2人で歌った。 後に「( ・ ・ ・ )」を象徴する歌となる「(発売)」の作曲を手掛ける。 エピソード• かつて、大の嫌いであったため、国内移動ではできる限り陸路を使っていた。 過去に飛行機での移動がとなり、あまりの恐怖で手にカビが生えるという奇病にかかったことがある。 後に飛行機嫌いは克服している。 を中退しているが、上京する理由を作るために大学進学したため、実際にはほとんど通うことなく中退している。 現在はに広大な土地を購入して家族と生活しており、仕事が入れば上京する。 それまではの麓などで生活するが、夫婦共に冬の寒さに限界を感じたのがきっかけで大分県への引っ越しを決意する。 の校歌を妻の育代と共に手がけている(育代作詞・こうせつ作曲)。 また、の校歌も手がけている(こちらは作詞・作曲ともにこうせつ)。 3月に、日本人アーティストとして初めてにてワンマン公演を行う。 後にライブ・アルバム 「グッド・バイブレーション/ミスターKOSETSU イン武道館」を発表した。 普段の活動で見せる人の良さとは裏腹に、より喧嘩が強いらしい。 で移動の際に同じ両で酒を飲んで横柄な態度をとっていたに対し、をつかんで「 ハイ!! 皆さん、どうも南こうせつでございます。 こういう方は許して良いんでしょうか皆さん」と言ったという。 『』のロケが在住の杵築市で行われた際、地元住民の一人として出演している。 のアルバム『』収録曲でかつシングルでも発売された(アルバムと同日発売)「絹街道」に「ホイヤー」というコーラスで参加している。 一方、細野も同時期に南のアルバム「かえり道」にで参加している。 『南こうせつのオールナイトニッポン』でパーソナリティを務めていたとき、ある少女から一通のファンレターが送られてきた。 南の大ファンだが、1975年4月12日のかぐや姫解散コンサートに行くことができないとあった。 何故なら少女は不治の病に侵されており、この手紙は病院のベッドの上で書かれたものだった。 それを収録で読んだ南は「何弱気な事言ってるんだ! 必ず会場に来てくれよ」とマイクを通じてエールを送った。 だが数日後、あの少女の友人と名乗る人物から手紙が届いた。 「彼女は亡くなりました。 でも、今度のコンサートには彼女の写真を持って行きます」と書かれていた。 南は涙ながらその手紙を読み、後日コンサートが行われた。 当時のコンサートにはを持ち寄り録音する観客が多く、南のコンサートに訪れた観客たちが「(録音したテープの中の)間奏中に女の子の声がする」とコンサート主催のに電話が殺到した。 この話を聞いた南はディレクターに頼み、会場のの音源を確認すると、会場の喧噪を遮るように「わたしにも聞かせて」と寂しげな女性の声が入っていた。 これを聞いた南は号泣し、その一部始終を見聞きしたのが、当時おなじく『オールナイトニッポン』のパーソナリティだったであった。 なお、その直後から稲川とその関係者に降りかかる異常事態が怪談『』であり、作中ではこの南のエピソードを導入部としている。 の楽曲「野の仏」 『』収録 の歌詞に登場している。 空よ大地よ(テーマソング)• AIZU その名の情熱(イメージソング)• 」CMソング シングル「」 2015年• 2005年8月28日放送の『』より談。 2001年9月29日放送分。 南は、この番組にゲストとして出演したことはない。 しかし、『』で取り上げられた際、女の子の話は嘘情報ということを取り上げられた。 そしてその声は、ラジオでの葉書をモチーフにした悪戯とみなされている。 稲川淳二Presents 生き人形• 2019年9月24日閲覧。 2019年9月24日閲覧。 2019年9月24日閲覧。 2019年9月24日閲覧。 ORICON NEWS. oricon ME. 2019年9月24日閲覧。 2019年9月24日閲覧。 2019年9月24日閲覧。 、2014年8月1日閲覧.

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南こうせつの学歴|出身大学高校や中学校の偏差値と学生時代

南 こうせつ

スポンサーリンク 恐らく、言葉の使い方が2人とも上手いんだろうなあ、と思います。 「神田川」の歌詞だけ見ても、「ただあなたの優しさが 怖かった」などという言い回しは本当に心を射抜かれました。 お嫁さんのいくよさんも、エッセイストとして本も出版されていますので、言葉を大切にされているのだろうなと思います。 馴れ初め 南こうせつさんとお嫁さんのいくよさんは、どのように出会ったのでしょう。 同じアパートの2つ隣に住んでおり、ある時荷物を預かってくれていたことから知り合いました。 その時、南こうせつさんは下着姿という、何とも色気のない出会いでした。 その後、半年間会えなかったと言います。 その後はゴミ捨て場でたまたま顔を合わせ、トーク力を駆使して引きとめました。 ゴミ捨て場で引きとめるというのも、何だかムードも何もないですが、時代だったのでしょう。 神田川のモデルになった? その後、南こうせつさんといくよさんは同棲生活を始めます。 ですが、いくよさんの妹さんから咎められて、2人で駆け落ちしたんです! 高円寺のアパートから同じ中央線の四谷に引っ越しました。 2人の生活を歌った「神田川」の作詞は喜多篠忠さんです。 歌詞は2人を見ていた仕事仲間が、締め切り間近に捻り出したものだった。 曲は不思議と自然に自分の頭の中で浮かんだ。 勘違いしていました。 「神田川」は南こうせつさんが作詞されたものだとばかり思っていました。 ですが、南こうせつさんといくよさんがモデルになっていたんですね! だからあれだけリアリティのある歌詞だったのだと納得しています。 南こうせつの子供 スポンサーリンク 南こうせつさんには子供が3人いらっしゃいます。 息子は医学部? その中でも息子さんが優秀で、東大医学部を受験したとか、慈恵医大医学部を受験したとか言われています。 ですが、確かな確証もなく、あくまでも噂レベルなので、はっきりと断定出来ません。 ですが、火の無いところには煙は立たないと言いますから、医学部を受けたこともあながち嘘ではないのではないかと思います。 何かの接点があって、噂になるのですから、本当の情報なら今はお医者さんになられているのかもしれません。 年の離れた兄弟 南こうせつさんの3人のお子さんですが、 一番上と一番下は19歳も年の差があるそうです。 南こうせつさんが24歳の時に結婚したと言いますから、お嫁さんのいくよさんももっと若い年齢で結婚して出産されたのかと思います。 19歳差って下手すると親子ほどの年齢差ですよね。 南こうせつさんまだまだパパとして頑張らなくてはです! 南こうせつの喧嘩伝説 南こうせつさんと言えば、いつもニコニコして温厚で優しいイメージがあります。 ですが、芸能界では南こうせつさん、喧嘩最強伝説があるそうなんです。 酒を飲んで酔っ払った反社会団体員と乗り合わせた時、態度が悪いと、胸ぐらをつかんで黙らせたことがあるという南こうせつ。 吉田拓郎が酔っ払って南こうせつに説教を始めたとき、吉田拓郎の胸ぐらをつかんだら、周りの人に羽交い絞めにされて止められたとか、長渕剛のあまりの態度の悪さに土下座をさせたことがある。 どうしても想像しにくいですが、曲がったことが大嫌いな性格なのでしょうか? 単に、酔っ払いが嫌いなのでしょうか? 性格は喧嘩っ早い? 正直、南こうせつさんから胸ぐらを掴むとか、土下座させたとか、イメージとかけ離れすぎてて、戸惑います。 ですが、よくよく聞いてみると、衝動的に喧嘩をしているのでなく、南こうせつさんは筋の通らないことが許せない性格なのです。 元かぐや姫のリーダーを務た南こうせつは、礼儀には厳しい性格。 カッとなって殴る蹴るといった力の喧嘩ではなく、筋の通らない礼儀を欠いた態度を見ると、見過ごせなくなるようです。 良いものは良い、悪いものは悪いとハッキリしている性格なので、人様に迷惑を掛けたり礼儀をわきまえていない態度には、黙っていられないのでしょう。 正義感故の行動だったという訳です。 なあなかこういう一本筋が通った人って減ってきました。 今の若い世代には有り得ない!と理解されないかもしれませんが、南こうせつさん世代は曲がったことが大嫌いという大人が一定数いるようです。

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南 こうせつ

大分舞鶴高校の文化祭。 後輩の伊勢正三さん(左)らを誘ってフォークグループを結成、オリジナル曲を披露した。 こうせつさん(右)のコンサートの原点だ。 東京の大学でフォークをやっていた僕のもとにも、3社から誘いがありました。 で、ソロでデビューすることになり、気持ちよく歌ってたんですが、これがまったく売れない。 それですぐに『南高節とかぐや姫』(第1期かぐや姫)を結成して、『酔いどれかぐや姫』という曲を出したんです。 「あれはね、本当に偶然なんです。 第1期かぐや姫のあと、高校の後輩だった伊勢正三と、当時人気だったシュリークスが解散するというんで、そこのベースの山田パンダを誘って『かぐや姫』(第2期かぐや姫)を結成します。 そこそこ売れたんですよ。 僕はね、反論しましたよ。 僕らにとっては水道を止めるぞと言われているようなもんで、慌てて取りなしました。 そもそも〈まあまあの南〉が当時の僕のニックネーム。 何せ曹洞宗の寺の三男坊ですからね。 かのお釈迦様も6年の苦行で体を壊し、その時にスジャータという少女からミルク粥を施してもらい一命を取り留めた。 苦でも楽でもない、その真ん中、中道こそ生きる道だと悟るわけです。 「『僕の胸でおやすみ』はオリコンチャートで60位台までいきました。 会社はともかく自分たちは大満足です。 でも本当にかぐや姫の時代が来たのは、その直後です。 当時『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)という深夜番組のパーソナリティをやっていたんですが、そこでアルバム『かぐや姫さあど』のB面の『神田川』を何の気なしに流したんです。 そうしたらリスナーから驚くほどの葉書が届きました。 僕らじゃない。 聴いたファンがこの曲の良さを発見してくれたんです。 「戦後すぐ、街には『リンゴの唄』が流れました。 これらは、その時に人々が求めていた歌だったのでしょう。 『神田川』もそうです。 挫折し、傷ついた若者を、『神田川』が救ったのかもしれません。 実際あとになって、安保闘争のリーダーのひとりが『神田川』に慰められたと聞きました。 暴走族や不良からの人気も高かった。 強がっている人ほど、なぜか惹かれていたのです。 でも、この歌を皆が見つけてくれたことで、今の僕がある。 「実は違うんですよ。 僕らかぐや姫の歌で『神田川』のように暗い曲はそんなにない。 自分たちの本当の姿はここにないと思っていました。 ところが、徐々にコンサートの観客動員数も落ちていき、CDも売れなくなってくる。 当時は故郷・大分の国東半島に居を構え、妻も子どももいました。 養わなければいけないけれど、前途が見えない。 「『愉快にオンステージ』という番組で、さだまさしや堺正章さんが交代で進行を務めるというものでした。 迷いましたし、不安でした。 これまでこだわって生きてきた自分にとって、テレビ番組の司会はあり得ない。 でもそのこだわりって何だと考えたら、こだわりに縛られてがんじがらめになっている自分に気づいた。 だったらこだわりを捨てて、挑戦しよう。 「あれだけ拒否してきた『神田川』を番組で披露したんです。 そしたらすごい数の葉書が届いたんです。 『神田川』を歌うことで元気になってくれる人がいる。 「本当にそうだなあ。 いつも皆から教えられているんだな、きっと。 でね、その番組で三波春夫さんや八代亜紀さん、都はるみさんと共演するわけです。 ジュリー(沢田研二)とも一緒にやりました。 演歌、歌謡曲……ジャンルじゃないんですね。 それぞれの歌に救われている人たちがたくさんいる。 フォークだ、ロックだってこだわっていた自分はいかにちっぽけか。 40歳で引き受けたこの番組は、自分が脱皮する大きな転換点になりました。 「楽になりました。 「ようは心のありようなんです。 先日、島倉千代子さんの七回忌法要に参列しました。 離婚結婚を繰り返し、男に騙され、十数億円もの借金を背負い……という人生を、人は不幸というでしょう。 でもね、本当に不幸なら人は顔がおかしくなります。 最後のレコーディングに立ち会いましたが、島倉さんは素敵な笑顔で、声も美しかった。 ところがその日の晩に緊急入院し、3日後に逝ってしまった。 この時わかったんです。 島倉さんは、壮絶な人生を自分で選んだんだと。 そりゃ大変だったと思いますよ。 でもすべて承知の上で、誰のせいにすることもなく、自分の人生を楽しんでいたんじゃないか。 だって死ぬ間際まで、あんなに笑顔や声が美しかったんですから。 「朝、目が覚めるでしょ? 目が開いた時に、ふと湧いてくるインスピレーション、これはかなり正しいです。 歯を磨いた後に浮かんだことは駄目ですよ。 これはもう自分の都合ですから、邪念が入っている。 詩人の三好達治も《ああ智慧は かかる静かな冬の日に/それはふと思ひがけない時に来る》と詩に詠んでいます(「冬の日」)。 その声に従うと、自分の人生を楽しむことができる。 「ボーッと過ごす。 こんな贅沢なことがありますか? 何日も前からスケジュールを埋めていくほうが、僕にいわせれば、自分の人生を誰かに明け渡しているような気がするな。 懐かしむことは、明日を生きる薬です。 決して後ろ向きじゃありません。 ボーッとしながら思い出すんです、あの頃を。 僕なんかよくやってますよ。 月夜の晩、とっておきのお酒を引っ張り出してきて、月見酒です。 「何にでも終わりがあります。 人生だってそう。 人生の終わり、いいじゃないですか。 歳を重ねるということは、若い時分のエネルギーと同様、とても神聖なことです。 若さや老い、生や死を、僕は同じ場所に入れています。 僕らがこの世にいることだって、何か意味があるんです。 この世に生まれ、神様から子どもを授かり、家族となり、様々な縁を結んで、また繋がりができて。 「今、日本の医療費は高騰していますよね。 音楽療法が健康にいいこともわかってきましたし、人は笑顔でいると免疫力が高まるという研究もあります。 僕らは、ビートルズやボブ・ディランに音楽の楽しさを教わった世代です。 彼らがそうして来たように、もし僕が歌い続けることで人が笑顔になるなら、こんな嬉しいことはありません。 歌えなくなったらしょうがないけど、だから最後まで歌っていたい。 「人は、自分以外の人の役に立つことで満足感を得る、そういう生き物です。 自分には人の役に立てることがない? そんなことはありません。 例えば今より健康になれば、医療費も減って、税金もかからない。 その分を若い人に回す。 ほら、役に立ったでしょ? 遅くはありません。 共に、自分の人生を楽しみませんか?」 大分在住なので、東京ではホテル住まいだ。 泊まった翌朝は必ず、近くの並木道や公園を歩いて訪れ、木に挨拶をする。 「あの人たち(木々)を抱きしめると、何かを感じますよ」 南こうせつ(みなみ・こうせつ)昭和24年、大分県生まれ。 昭和45年にデビュー。 直後に「かぐや姫」を結成、『神田川』『妹』など数々のミリオンヒットを記録。 33歳の時に大分の国東半島に転居、以来田舎暮らしを続ける。 現在はソロとして「サマーピクニック」など精力的に活動。 デビュー50周年を記念した3枚組ベスト・アルバム『南こうせつの50曲』、5年振りのオリジナル・アルバム『いつも歌があった』、エッセイ『いつも歌があった』が共に好評発売中。 年齢・肩書き等は掲載当時のものです。 (取材・文/角山祥道 撮影/太田真三 ).

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