犯人 は ヤス と は。 【ポートピア連続殺人事件】犯人はヤス!日本一有名なネタバレ【ファミコン・エニックス・レビュー】

【ポートピア連続殺人事件】犯人はヤス!日本一有名なネタバレ【ファミコン・エニックス・レビュー】

犯人 は ヤス と は

それをいっちゃあおしまいよ…「犯人はヤス」 「犯人はヤス」 とは、要するに 「」 のことです。 物語の結末やミステリー作品などのトリックの謎解きや犯人を、まだ知らない人に喋ってしまうような無粋な行為、あるいは身も蓋もないことを云ってしまうような状態を指します。 「ヤス」 はプレイヤーが操作する警察官の主人公、「ボス」 の従順な部下で、物語はこの 「ヤス」 との二人三脚の形で進みます。 自殺に見せかけられ殺された高利貸。 手を下したのは…実はヤスだった、という訳ですが (ヤスの両親がこの高利貸によって自殺に追い込まれたので、復讐したもの)、途中で 「こいつは臭い…」 なんてピンとくるものの、まだ犯人探しをしている途中で 「犯人はヤス」 と友達に聞かされたら…ソフト代返せ〜と怒鳴りたくもなるかも知れません。 まぁ 「犯人はヤス」 は流行語のような言葉にもなりましたから、いまさらネタバレも何もないんでしょうけど。 なお、この言葉が流行るようになったきっかけとして、当時若者に絶大な人気を得ていたお笑い芸人、ビートたけしさんが、深夜放送 「ビートたけしのオールナイトニッポン」 で 「犯人はヤス」 とコメント。 それを聴いていたリスナーの中学生などを中心に広まったことが大きな要因だったようです。 「堀井ミステリー三部作」 の名と共に… ちなみに1984年発売の 「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」(アスキー)、1985年発売の 「軽井沢誘拐案内」(エニックス) とこの 「ポートピア連続殺人事件」 の3つを称して、俗に 「堀井ミステリー三部作」 などと呼ばれますが、話題性があり安定した人気を持っていたこと (実際に売れたかどうかはまた別の問題ですが)、後に携帯電話向けのアプリとして盛んに移植されたことなどにより、「犯人はヤス」 も繰り返し ・ の界隈で使われるようになっています。 結果、今ではこの の犯人の話や 「ネタバレ」 の意味からも時として逸脱し、他の やゲーム、 などで、ちょっと謎めいた展開となると、とりあえず 「犯人はヤス」 と云っておけば丸く収まるようにもなっています。

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結局「ヤス」はなんの犯人なのか?

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スポンサーリンク ポートピア殺人事件とは 発売当時の現代日本を舞台にしたアドベンチャーゲームで、プレイヤーは神戸市で起こった殺人事件を担当する刑事となり、相棒のヤスと共に事件の背景を探り真犯人に迫っていく。 社会派推理小説を意識したストーリーとなっており、その結末にはどんでん返しの展開が設けられ、真犯人の正体の意外性が話題になった。 発売当時のゲームはSFやファンタジーといった現実から離れた物語のジャンルが主流で、本作のように実在する土地を舞台に、人間ドラマを盛り込んだ小説仕立てのストーリーが展開されるという趣向は、革新的なものであった。 あらすじ 1980年代の神戸。 黒い噂の絶えない金融会社「ローンやまきん」の社長である山川耕造が何者かに殺された。 兵庫県警の刑事である主人公(ボス)は事件の究明のため、部下のヤス(真野康彦)と共に捜査を開始する。 ボスは早速現場に訪れるが、耕造が殺された場所は中から鍵がかけられており完全な密室であった。 ヤスとともにこの事件の真相を暴くに連れ、舞台は京都にも広がり、さらには容疑者が殺される連続殺人事件へと発展してしまった。 はたして真犯人は誰なのか?そして共犯者と犯人、被害者の関係は? ドラクエ以前の堀井雄二の代表作 発表当時のゲーム業界は個人による開発が主流であり、オリジナル版プログラム・シナリオ・グラフィック等の全ての作業を堀井雄二が1人でこなしている。 後に堀井雄二がシナリオを担当したアドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(1984年)、『軽井沢誘拐案内』(1985年)と本作を合わせて「堀井ミステリー三部作」とも呼ばれる。 兵庫県とその周辺が舞台となっており、具体的な地名が登場する。 これはゲームの作者である堀井雄二が兵庫県洲本市(淡路島)の出身であることにちなむ。 ファミコン初のアドベンチャーゲーム コマンド入力型が主流であったゆえにパソコンユーザー向けのマニアックなジャンルであったアドベンチャーゲームを、メジャーな家庭用機種であるファミコンに移植したことによって一般層にも浸透させることに成功した。 コマンド選択型の導入によってハードルが下がったことで遊びやすくなり、反射神経いらずのテキスト主体の思考型ゲームであるADVのおもしろさをぐっと身近にした。 これ以降、ファミコンにおいてアドベンチャーというゲームジャンルが定番として定着していくことになる。 60万本を販売した。 堀井がFCのゲームソフトに関わるのは本作が初となり、本作において成立した堀井雄二がゲームデザインをしてチュンソフトが開発するという体制は、その後の『ドラゴンクエストシリーズ』へと引き継がれている。 その『ドラクエ1』の中において「ねえ わたしの ぽーとぴあと あなたの ドラゴンくえすとを かえっこしてよ。 」と話す村人がいる。 犯人はヤス 当時はファミコン初のミステリーアドベンチャーとして、予想外の犯人にゲーマーたちは驚いた。 本作の結末で明らかになる真犯人の正体は、その意外性で語り草となったが、同時にその人物が何者であるかも瞬く間に知れ渡ってしまった。 そう、犯人の名前はヤス。 本ゲームの主人公の相棒だ。 当時このゲームが流行していた頃の世代には、このゲームを遊んだことがなくても犯人の名前だけは知っているという状況が多く見られた。 この人物は「おそらく日本一有名な犯人」と形容されることもある。 「犯人はヤス」というフレーズは未だにネタバレを意味する言葉としてネットスラングとして使用されている(笑) 1986年1月にタレントのビートたけしがラジオ番組で、ファミコンと本ゲームをスタジオに持ち込み、スタッフとともにプレイして実況生放送した。 この生放送中にビートたけしが「犯人はヤスなんだよな」と喋るというタブーを犯すが、逆にこの放送をきっかけに売上げが更に伸びたとのちのエニックスは明かす。 筆者とポートピア まだ幼かった筆者はファミコン大好き少年ではあったが、アドベンチャーゲームという物をまだ理解できてなかった。 たまたま近所のお兄さんがカセットを貸してくれたのでプレイする事になった。 その時のお兄ちゃんのセリフは「これ犯人はヤスだからやってみな!」 当時はあまり気にしなかったが、今考えると一気にやる気をなくさせる推理ADVの貸し方だと思う(笑) それでもワクワクしながらプレイ開始。 今まで遊んでたマリオブラザーズやドンキーコングとは違い明らかに怖いミステリーの雰囲気。 ストーリーの意味が分かっていたのかは些か自信が無いが、間違いなくその「少し大人の世界」のゲームが楽しくて一生懸命遊んだ。 3D表示の地下迷宮がやたら怖くて、壁にぶつかるたびに「ドン!」と鳴るSE音にとても脅えてた事を憶えている。 結局「こめいちご」の暗号が解けなくてそこで挫折した気がする。 だってその時筆者の家はまだダイヤル式の黒電話だったんだもの! ADV好きのルーツとなった作品 一番好きなゲームジャンルは?と聞かれたら「アドベンチャーゲーム」と答えるであろう筆者。 なんだかんだ言って意味も分からなくポートピアで遊んでいた経験がのちの筆者のADV好きに繋がる事になったのかも知れない。 この3年後に発売される『ファミコン探偵倶楽部』の頃にはどっぷりとADVというジャンルにハマっていた。 その後も『スナッチャー』や『ポリスノーツ』などの沢山のADVの名作たちをプレイしまくってきた。 ここで挙げていったらキリが無いほどのADVをクリアしてきた。 今まで一番プレイしたゲームジャンルは間違いなくADVであろう。 そのADV好きのルーツがこの『ポートピア連続殺人事件』なのかも知れないと思うと感慨深い気持ちになる。 またいつか堀井雄二の手掛けるアドベンチャーゲームで遊びたいと思う、その時は「犯人はヤス(ネタバレ)」だけは勘弁してもらいたいものだが(笑) 今回は『ポートピア連続殺人事件』の紹介でした。 あわせて読みたい.

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犯人はヤスの元ネタ・意味

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機密指定解除「NAKASONE」ファイル(5) 1984年3月以降、レバノンで計7名の米国人が誘拐された。 犯人は、イランが影響力を持つイスラム教武装組織。 困り果てたレーガン大統領は85年7月、夏休みで軽井沢に滞在中の中曽根康弘総理に一本の電話をかけた。 人質救出に協力してもらえないか、と。 *** 中曽根康弘は今年の春に満100歳を迎える。 海軍士官として敗戦を体験して政界入りし、復興から高度経済成長、そしてバブル景気とその崩壊に立ち合った彼は戦後史の目撃者と言っていい。 その哲学を回顧録で次のように語っている。 「私のモットーは、結縁・尊縁・随縁の三縁主義でね、つまり、縁を結び、縁を尊び、縁に随う。 縁は神様が与えてくれたものだから、向こうが破らない限り、こちらから縁は切らない、結ばれた縁は尊重するという意味があります」(『』新潮社) 総理在任中に生まれたロナルド・レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係も、その縁の一つだったが、それを米国政府が自らの国益のため最大限利用したのは第3、4回で述べた通りだ。 だがレーガンが中曽根本人に対して抱いた信頼と友情は本物だった。 そして、それが中曽根を米国のある外交工作に巻き込んでいった。 中東でイスラム教武装組織に拉致された米国人人質を救出するCIA(中央情報局)の極秘工作である。 政権発足から3年目、欧州歴訪から戻ったばかりの1985年7月27日から中曽根は夏休みで軽井沢に滞在していた。 ホテル鹿島ノ森に宿泊して友人とゴルフを楽しんだが、そこへレーガンから電話が入ったという。 「レーガンから軽井沢に突然電話がかかって来てね。 レバノンのベッカー高原に捕らえられているアメリカ人の人質救出に協力してもらえないだろうかと相談してきました」「休暇中に、直接軽井沢まで電話をかけてきて、アメリカ人の人質を何とかしてくれというのは、お互いが親しくなければできない事です。 レーガンは、日米の親密な関係を頼りにしている。 だから私は、『これは本気で助けてやらんといかんな』と思いました」(前掲書) そしてこの後、中曽根はレバノンと関係が近いシリアとイランに、元駐フランス大使で中東調査会の中山賀博(よしひろ)理事長を派遣して交渉させたという。 これについては外務省が2017年12月に公開した80年代の外交文書でも言及しているが、これだと何の前触れもなくレーガンが突然電話をかけてきたように映る。 だが米国側の文書や関係者の証言によると話はそう単純ではなかった。 あわせて読みたい関連本•

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