僕 の 腕 に 噛み 跡 つけ た あと。 【完結】フーディーニの魔法

愛溢/Shunsuke

僕 の 腕 に 噛み 跡 つけ た あと

35 帰りの電車に、満水さんがいる。 たったそれだけなのに心が弾んで、高ぶった気持ちを落ち着かせるように胸の前で抱えていたバッグをぎゅっと握った。 そんな平静を繕おうとしている僕を煽るように、電車が左右に揺れながら、ゆっくりと進んでいく。 「作れそうなのあった?」 「んー。 あるにはあるんだけどー」 となりに坐っている満水さんは、マフラーに顔を埋めながらスマホをいじっていた。 ちらっと画面をのぞき見ると、色鮮やかな料理の写真の数々が表示されている。 きょうで、二学期が終わった。 終業式は午前中のみで、そのあとどうするか帰りながら話し合っていたところ『お金があまりかからない』『寒いから出歩きたくない』『いっしょにお昼食べたい』『のんびりしたい』とお互いに意見をだし、最終的な結論として『家でお昼を作ってのんびりしよう』となった。 満水さんの家だとマチさんが帰っているらしいので、僕の家へ行くことになった。 そこまで決めたところで次はお昼のメニューを決めようと、さきほどから満水さんがレシピサイトを眺めながら、作れそうなものを探してくれている。 「美味しそうなやつ、むずかしそう……」と満水さんがスマホの画面を落とした。 「ちなみにどんなの作ろうとしてる?」 「簡単に作れて、美味しくて、材料費のかからないもの」 「欲張りだねえ」と僕は笑った。 チャーハンとかは? お米うちにあるし、卵もあるから、買うの野菜とか肉くらいだし。 僕も作ったことあるけど、そこそこ簡単で美味しくできるよ」 「え、恵大、料理できるの?」 「まあ、多少は。 一人っ子だからかもしれないけど、親がいないときとか、自分でたまに作ってる。 そんなに手のこんだものは作れないけどね」 「わたし、恵大の作ったご飯食べたい」 「考えるのめんどくさくなったね?」 「違うー。 ほんとに」と満水さんが笑いながら太股を軽く触ってきた。 「この前、おにぎり作ったから、今度は恵大が作ったのも食べたいなーって」 「あーなるほどね。 たしかに、あのときのお返し、まだ足りない気がしてたし」と僕は手をつないだ。 「チャーハンでよければ作るよ。 そのかわり、真癒子もなにかサイドメニューてきなもの作ってくれない?」 「いいよー。 なに作ろうかな。 寒いからスープほしくない?」 「ほしいほしい」 「じゃあそれと、サラダいる?」 「チャーハンに野菜入ってるし、いらなくない?」 「気持ち程度でしょそれー?」と満水さんがつないだ手を軽く握りながら云った。 「いいやじゃースープのなかにたくさん入れる。 調味料はそろってるよね?」 「たぶんだいじょうぶだと思う。 もし不安なら買ってもいいけどね?」 「んーいいかな。 そこはあるもの使えば」 などなどと話し合っているあいだに、電車は一駅、二駅と各駅を通り過ぎていく。 一度の乗り換えを挟んで、数十分後に僕の家の最寄り駅に到着すると、駅にほど近いスーパーへ足を運んだ。 カゴを持ってから店内へ。 ここは僕がむかしから通っているスーパーで、床にはいくつも靴が擦れたような黒い跡がつき、蛍光灯の光もすこしくすんでいたけれど、なぜかその洗練されていない感じが妙に落ち着いた。 入ってすぐのところが青果コーナーで、バラ売りされているところには定番のじゃがいもやにんじんなどが雑然と並べられている。 「真癒子ってピーマン食べれる?」 「うん平気。 あれでもチャーハンってピーマンだっけ? グリンピースじゃなかった?」 「たぶんそっちのほうが一般的だけど、僕の家だとむかしからピーマンなんだよね。 そっちがいい?」 「恵大決めていいよ。 そういえば嫌いな野菜ってある?」 「食べられないわけじゃないけど、セロリは苦手かな。 あの独特なにおいがちょっと……真癒子は?」 「アスパラ。 むかし一度、給食のなかにすっごいかたいのあって。 青臭くて、噛みきれなくて、それからあんまり好きじゃなくなった」 「へー意外。 そういうのないと思ってた。 でもベーコンのアスパラ巻きとかお弁当の定番じゃない?」 「わたしそれ、お母さんに絶対に入れないでって云ってる。 でもちゃんと火が入ってれば食べられそうな気がするんだよねー」 「苦手克服します?」と僕はアスパラを手に取った。 「いいー。 いらないいらない」と満水さんが苦い顔をしながら首を振った。 「恵大もスープにセロリ入れたら食べられるよ。 においそこまでしないと思うから。 はい」 「さらっと入れない」と僕はカゴのセロリを売場に戻した。 「スープどんな感じにするの?」 「定番だけど卵スープ。 野菜いっぱい入れる感じで。 えっとネギー。 ねーぎーはーどこだー」 満水さんが陽気に口ずさみながら使う食材をカゴのなかに入れていく。 僕も話しながら使いそうなものを選んで青果コーナーをあとにすると、精肉コーナーで加工された焼豚のパックをカゴに入れてから通路を進んでいった。 「恵大の家って、お菓子あんまり買わないんだっけ?」 「うん、ほとんど食べないからね。 ほしいの?」 「一袋だけいい?」 「いいよ。 食べ終わったあと小腹空くかもしれないし。 ついでにジュースも買おうか」 食後のことも考えて、追加でカゴに入れていく。 レジで清算をすると、野菜のほとんどをバラ売りとハーフカットで買い、焼豚も少量を選んだので合計は千円に届かないくらいだった。 僕がお会計をしているあいだに、満水さんがカゴを運んでいく。 財布をしまいながら満水さんのところへ向かうと、せっせと袋のなかに買ったものを入れていた。 「よし行こー」 「行きますかー」 カゴをレジの横に戻し、満水さんから袋をあずかってスーパーをでる。 ふたりして「寒い寒い」と云いながら小道を歩くこと数分、自宅のマンションに到着すると、自動ドアの横に設置されている機器に暗証番号を入力してドアを開けた。 エレベーターで八階まで上がり、右手に曲がって進んでいくと、僕はカバンから家のカギを取りだす。 「ただいま」 「おかえりー」と満水さんがうしろで小さくつぶやいた。 「いまのもう一回お願い。 ただいま感やばい」 「なにただいま感って。 ねー寒いからはやくなか入ってよー」と満水さんが笑いながら背中を押してきた。 僕は笑いながら靴を脱いだ。 「ごめん、手がふさがっててだせないから、スリッパあとでいい?」 「うん、いいよ。 お邪魔します」 廊下の電気をつけてリビングへ。 壁にあるスイッチを押して部屋を明るくすると、ダイニングテーブルの上に買ってきたものとカバンをどさっとおいた。 カゴに入っているリモコンでエアコンとテレビの電源を入れると、静かで寒かった部屋に音と暖気が満ちていく。 「荷物ここおいてて。 先にスリッパ取ってくる」 「うん。 あとでお金渡すね」と満水さんがマフラーをほどいた。 「わかった。 寒いし、上なんか楽であたたかいもの持ってこようか? そのほうが料理するときもいろいろ気にならないと思うし」 「じゃあいい? 借りても」 「ぜんぜんいいよ。 待ってて」 玄関へ戻ってスリッパを取ってから、自分の部屋でネクタイを緩め、ブレザーとセーターを脱いでいく。 シャツのボタンをはずしながらクローゼットを漁っていると、ネイビーのプルオーバーのパーカーを引っ張りだした。 僕は編みこみのグレーのセーターを着てリビングへ戻ると、満水さんが立ったままセーターを持ち、テレビを見ていた。 ボタンをはずした袖からでているグレーのインナー、半分だけぺろんとでたブラウスの裾、リボンをはずした第一ボタンの隙間から見える首筋。 外では絶対に見れない気の抜けた姿を眺めていると、なんだか心許されているようで、とくんと鼓動が大きくなる。 僕は床にスリッパをおいた。 「パーカー、ちょっと大きいかも」 「ありがと。 あ、それ、恵大が前に着てたやつ」 「気にせず使って」 満水さんにパーカーを渡す。 上からかぶって頭がでてくると、髪がすこしだけぼさっとふくらんだ。 身幅は余りがちで、リブの先端にちょうど指の第二間接がくる。 ざっくり着ている感じがたまらなく好みで、僕以上に似合っているんじゃないかと思った。 満水さんがパーカーの襟に顔を近づけた。 「恵大のにおいする」 「え、くさい?」 「んーんぜんぜん。 いやなにおいじゃない」と満水さんがスリッパに足を入れた。 「さて。 お腹減ったしやりますか」 満水さんがパーカーの袖をぐいっと上げると、肘のあたりに溜まった生地の膨らみが、ほっそりとした腕を余計に際立たせた。 僕も袖をまくり、材料の入った袋を持ちながらキッチンへ移動して、手を洗ってから、まずはお米の準備をする。 「わたし野菜切ってようか?」 「お願いしていい? 僕、いろいろ準備してるから」 乾かしていた包丁とまな板を水でさっと洗い、コンロの横の作業スペースにおいてから、満水さんが袋を漁って野菜などをだしはじめる。 僕は計量カップをだすついでに、ザルとボウルをいっしょに棚から引き抜いた。 「はいこれ。 あとで鍋だすから、ちょっと待ってて」 「ありがと。 ねえ、チャーハンにもネギ入れる?」 「すこしほしいかも」と僕はお米を計りながら云った。 「二合くらいでいい? そんなに食べないよね?」 「いいよーそれでー」 僕はザルにお米を入れていき、水をだしながらじゃりじゃりと手でもみこむようにしてお米を洗っていく。 しかしこれがまあつらい。 冬場だからか水温がめっきり低くて、手の甲がみるみる真っ赤になっていった。 口開けて」 「ん?」 満水さんがパックの焼き豚を指でつまんで目の前に差しだしてくる。 僕はザルを持ちながら口を運んだ。 当たらないように注意していたけれど、距離感がつかめなくて、爪と唇が軽く触れてしまう。 「ん、美味いこれ」 「ほんと? わたしも食べよー」 満水さんが気にしたようすもなく焼豚へ手を伸ばす。 僕は口を動かしながらザルを上下させた。 きっと、自分が食べたいから僕に食べさせてきたのだろう。 でもこんな風に食べさせてくれるのなら、つまみ食いくらい何度でもゆるしてあげようと思える。 なんて考えてしまうほどに、僕はまんまと彼女の作戦に乗せられたのだった。 空になった食器をシンクのなかへおく。 お湯で軽くゆすいで、スポンジに洗剤をつけて泡立てていると、満水さんがパーカーのポケットに手を入れながらキッチンへやってきた。 「なにか手伝うことある?」 「いや、ないかな。 ソファでゆっくりしてていいよ」 「んー。 テレビおもしろくないから恵大見てる」 「テレビよりおもしろい自信ないなー」と僕はお皿を磨きながら云った。 「このあとどうする? 特になにするか決めてなかったけど」 「お母さんとか、いつも何時くらいに帰ってくるの?」 「正確にわからないけど、五時くらいじゃないかな? 夕飯の支度とかあると思うし」 「リビングで会っちゃうと気まずいから、恵大の部屋行っていい?」 「いいよ。 暖房つけてないから、ちょっと寒いかもだけど」 「じゃあわたし先に部屋あたためてくる。 リモコンどこにある?」 「たしか勉強机の上。 そっちになかったらたぶん枕元にあると思う」 「わかった。 じゃあそっちで待ってます」 「ん。 あとでジュースとか持っていくよ」 満水さんがテレビの電源を消し、カバンなどを持ってリビングからでていった。 僕はなるべくはやく行こうと思い、ささっと洗い物を済ませて蛇口のノブを上げる。 手を拭いてからお皿をだして、先ほど買ってきたポテチを適当に入れた。 冷蔵庫からそれぞれ買った五百ミリのペットボトルを取りだし、お盆の上に乗せてから自分の部屋へ。 肘でドアノブを下ろしてなかに入ると、エアコンが稼働している音がして、こんもりと羽毛布団が盛り上がっていた。 僕はあえて黙ったまま足音を立てないように歩いていき、ローテーブルの上にお盆をおく。 ちらりとようすをうかがうと、羽毛布団とシーツのあいだに洞窟のような隙間が空いていた。 「でてこないなら真癒子のジュース飲んじゃおうかなー」 「ねえやめてー」と満水さんがひょこっと顔をだした。 「うそうそ。 ぁー、しょ」 ベッドの横に腰を下ろすと、もぞもぞとうしろから音がして、真横に満水さんの顔がでてきた。 両腕を枕のようにして頬を埋め、こちらを見ながらにやにやと笑っている。 僕はつられて笑いながら云った。 「でてくる気ないね?」 「うん。 部屋があたたまるまで」と満水さんがやわらかな笑みを浮かべながら云った。 「お腹いっぱいだねえ」 「ですねえ。 用意したけど、ポテチ食べる気分じゃないなあ」 「わたしも」 ベッドの縁に背中をあずけながら頭を傾けると、満水さんが片腕をついたまま、もう片方の手を伸ばしてきて、前髪をわけるようにいじってきた。 「髪、伸びたねえ」 「最近切りに行ってなかったからね。 明日でかける用事あるし、空いてれば行こうかな」 クリスマスプレゼントを取りにいくついでに、とはさすがに云えない。 話がしにくかったので向きを変えると、ベッドに肘をかけ、前傾ぎみに正座をしながら満水さんと向き合った。 「なーに?」 「さっきの体勢、首痛くて」 「そうなの?」 「うん」 息がかかりそうなくらい、すぐそばに、満水さんの顔がある。 無言で見つめ合っていると、どくんどくんと胸が高鳴りだした。 そういう空気が流れている、と肌で感じた。 満水さんの目元が、わずかにとろんとたるむ。 彼女も、おそらく同じようなことを感じ取っているだろう。 そのいつもと違う惚けた表情を見て、僕は音を立てないように唾を飲みこんだ。 ここでキスをしたら、間違いなく、その先を求めてしまう。 だけど、そのための準備を、僕はなにもしていない。 つけずにするのはもちろん論外で、流れを断ち切って近くのコンビニまで走って買ってくる選択肢も『なし』だった。 それに、仮にそういうことをしようとして、もしも満水さんに拒絶されてしまったら。 ふたりで計画を立てて、弓峰さんにも相談してプレゼントを考えたのに、クリスマス直前で気まずくなって、すべてが台無しになってしまう。 だから。 いまはこれが、精一杯。 僕は下からすくい上げるように腕を伸ばして満水さんを抱き寄せた。 手が軽く震え、ほんのちょっと腕に力が入る。 あたたかくなったパーカー越しから、じんわりと彼女の熱が伝わり、やわらかなあまい香りが鼻に入ってくると、耳の奥から聞こえる心臓の音が、どんどん大きくなっていった。 「このまま、ちょっと話してもいい?」 「う、ん」 「年明けに、親が旅行に行ってて、いない日があるんだけど」と僕は小さな声で云った。 「もしも、真癒子がよければ、泊まりに来ない?」 僕が行くことを渋っていたのはそういう理由もあった。 この機を逃したら、たぶんこの先なかなかできないと思ったから。 なるべくはやく話そうとは思っていたものの、内容が内容なので勇気がでず、つい先延ばしにしてしまっていた。 いまのできっと、満水さんは気づいただろう。 いま、僕がどういう気持ちで抱きしめているか。 はっきりと云ってないけれど、僕はそういうつもりで誘っている。 だから、来てほしいなんて、気持ちを押しつけるような強い云い方はしなかった。 いや、できなかった。 「行き、たい」と満水さんがささやいた。 「行けるように、する」 首に満水さんの腕がまわる。 家の事情とか、いろいろなことがあるだろうから、あくまで願望でしかなかったけれど、彼女の意思をひしひしと感じるくらい、強く抱きしめられた。 僕も応えるように、同じくらいの強さで抱きしめ返す。 暖房が効いてきたのか、それとも抱き合っているせいなのかわからなかったけれど、満水さんの体温が上がっているような気がして、首筋から漂う彼女の香りがいっそう濃くなった。 そのまま抱き合っていると、離れるタイミングがわからなくなってきて。 なんだかおかしくなって、ふいに笑ってしまうと、満水さんもくつくつと笑いだし、僕らはしばらくのあいだ、だらだらとくっつき合いながら笑い合っていた。

次の

第35話 だらだら終業式

僕 の 腕 に 噛み 跡 つけ た あと

それは明らかに愚かしく無意味な行為であるという自覚はあるし、この手紙を最初に〝読む〟のは君ではないということもわかっているつもりだ。 だけれど僕は、R嬢、あくまで君に向けてこの手紙を書いている。 僕の言葉と、僕の文字で、この手紙を、君のために書いている。 どうかそのことを忘れないでいてほしい。 たとえ君にとって、僕という存在が、食欲を満たすためのものでしかなかったとしても。 僕のことを、理解してくれている存在だと。 少なくとも、僕はそう思っている。 だから、もし、君自身も、ほんの少しでもいいから、僕のことを、友達だと思ってくれていれたら、僕はそのことを何より嬉しいと思う。 僕はただ一点において、決定的に他の人間から乖離してしまった存在であったから。 僕はあのとき、霧の湖に釣りにいった帰りだった。 どうして妖怪の時間である夜更けに、僕が里を出て釣りに行ったのか、それは大切なことだけれど、あとで語ろうと思う。 ともかく、僕はあのとき、どうしても小用を足したくなって、野道を外れて森の入口に足を踏み入れた。 そうして、用を足して引き返そうとしたときだった。 初めに僕が君の存在を認識したのは、嗅覚によってだった。 生き物の血がたてる、むせるようなあの臭い。 普段は仕事柄、不感症になっている臭いだけれども、だからこそ、仕事を離れた場所で僕の鼻は、その身体に染みついた臭いを敏感にかぎ分けたんだ。 僕は逡巡した。 森の中から漂ってくる血の臭い。 そして死臭。 それは危険と幸運の隣合わせだった。 この先で何かが死んでいるのは間違いない。 それはつまり、それを殺した存在もまた近くにいるということだ。 この幻想郷には、里の人間を妖怪は襲わないというルールがあることになっているけれど、実際は怪しいものだ。 ルールを理解できない妖怪に襲われてしまえば、人間はひとたまりもないし、実際に毎年そういう犠牲者が出ている。 その血の臭いに近付くということは、僕もまたそういった不運な犠牲者のひとりに名を連ねる可能性を高めることだった。 臭いの強さからしても、野兎程度ではあり得ない、大きな獲物だ。 いずれにしても、もし運良くそれを回収できれば、しばらく食べるものに困らない。 僕は迷った。 決定打になったのは、釣った魚を入れるバケツの中身の心許なさだった。 ほとんど坊主に近い釣果だったことが、僕に無謀な勇気を与えた。 そうして僕は、森の中に足を踏み入れ、そして君に出会った。 君は、引きちぎられた人間の腕をくわえて、僕の方を振り向いたね。 その口元を血で染めながら、噛み切った肉片を咀嚼して、ごくりと飲み下し、そしてあどけなく首を傾げた。 そう、幼い子供が不思議なものを見たときのように。 事実、君にとってあのときの僕は、珍しい、不思議な存在だったのだろう。 「あなたは、食べてもいい人間?」 そして君は、僕に向かってそう問うたね。 君の足元に散らばった、かつて人間だった肉塊と。 それを食らう君の姿を見て、僕は稲妻に打たれたような衝撃を受けて立ちすくんだ。 そして、僕は長い間、自分の中に燻り続けていた衝動の正体を知って、その感動に打ち震えたんだ。 僕がなぜ、そんな衝動を抱くようになったかについての話をしよう。 僕の家は、人間の里の外れにある。 里の人間でさえ、我が家の人間以外は普段誰も近寄らないような辺鄙な場所に、隠れるように存在している。 いや、誰も近寄らないのは立地のせいだけではない。 我が家の周辺には常に、血臭と死臭がたちこめて、空気そのものが穢れてしまっているからだ。 里で飼われている豚、牛の屠殺。 我が家はそれをほぼ一手に引き受けている。 僕自身も父に仕込まれ、豚一頭はひとりで解体できる程度の技術は持っている。 食用となる豚や牛を殺し、解体して肉屋に捌く。 工場になっている家の中には、血と脂の臭いが常にこもっていて、僕たち家族の身体の隅々まで、その臭いは染みこんでいるのだ。 里で屠殺が賤業であることを知ったのは、いつ頃だっただろうか。 僕には友達がいなかった。 同世代の子供たちの輪に入ろうとすると、臭いと言われ石を投げられた。 皆、僕が近付くと鼻をつまんで逃げ出し、大人たちも陰で眉をひそめていた。 最初はそれがどうしてか、なかなかわからなかった。 血の臭い、死の臭いは我が家ではあまりに当たり前のものだったから、それが悪臭であることにも気付けなかったのだ。 両親にそれを訴えても、それが稼業である以上どうしようもなかった。 僕が覚えたのは、夢よりも希望よりもまず諦観だった。 我が家が屠殺の家である以上、僕に友達はできないし、皆から鼻をつままれ顔を背けられる存在なのだ。 四つ下の弟にも、僕はまずその諦観を覚えることを教えた。 そして、弟と本を遊び相手にして幼少期を過ごした。 屠殺屋に学はいらないと、父は僕が本を読むのにいい顔をしなかったけれども。 あの夜、僕が妖怪の時間である夜中に釣りに行っていたのも、そのせいだ。 僕のような賤民が昼間に釣りに行ったら、釣り人から白い眼で見られ、せっかく獲物を釣ってもバケツを蹴倒されたり、湖に突き落とされたり、ろくなことがない。 だから僕は、危険であっても夜中に釣りに行くしかなかったのだ。 僕の里での生活は、万事がその調子だった。 身体に染みついた臭い故に、どこにいても屠殺の家の子だとすぐに察され、疎まれ、遠ざけられる。 母は里の貧民街の売春婦だったらしい。 屠殺の家などに、まともな家の娘は嫁に来ない。 僕の将来は、生まれた時点で決まっていた。 同じ疎まれる者同士、貧民街から嫁をもらい、父の跡を継いで豚や牛を殺し続ける。 僕の一生は、獣の血と脂にまみれて過ぎて行くのだ。 父と同じように。 そのことに不満がなかったといえば嘘になる。 幼い頃から諦観が身に染みついていたとしても、里の普通の子供たちを見るにつけて羨望の念は募った。 どうして僕は彼らのようになれないのだろう。 僕の家が死臭にまみれているのは、人が肉を食らうためであるということに。 食物連鎖という概念を、君は理解しているだろうか。 草食動物が草を食み、それを肉食動物が食らう。 その肉食動物を人間が狩って食らう。 そのようにして生き物は、より強い存在に補食されることで自然が成り立ち、生命が循環している。 では、この幻想郷でその食物連鎖の頂点にいるのは、人間だろうか? 否、妖怪のはずだ。 人間を食らう存在。 妖怪こそが、この幻想郷の食物連鎖の頂点にいる。 ならば、自然の在り方として、人間は妖怪に食らわれるべきだ。 だが、この幻想郷には奇妙なルールがある。 里の人間を、妖怪は襲ってはいけないという。 それで絶滅させられるなら、人間はその程度の存在だったというだけの話ではないのか? 弱者は生存競争に敗れ、容赦なく淘汰されるのが自然の在り方のはずだ。 人間が、その例外であっていいはずがない。 それなのに、里の人間は自分たちが食物連鎖の頂点にいるかのように錯覚して、安穏と暮らしている。 もちろん里の外に出ればある程度のリスクは背負うわけだが、里の人間を妖怪は襲ってはならないというルールの存在が、人間を増長させている。 それは決定的に、不自然な在り方だ。 人間はもっと、妖怪に怯えるべきなのだ。 そして妖怪に容赦なく食われるべきなのだ。 自分たちが決して、食物連鎖の頂点ではないことを、自覚するべきなのだ。 屠殺を穢れとして忌み嫌うのも、つまりはその傲慢さ故のことだろう。 人間は、やりたくないことは他人に代行させたがる生き物だ。 だから金持ちは使用人を雇って家事を任せるし、料理をするのが面倒なら飯屋に行く。 他人のできないこと、やりたくないことを代行することが、金を貰える仕事になる。 そういう風に人間社会はできている。 我が家の屠殺業も、つまりはそういうことだ。 豚や牛の解体など、誰もやりたがらないから、我が家が引き受ける。 魚なら、誰でも自宅で捌くだろう。 殺生が穢れだというなら、魚屋も、飯屋も賤業のはずだ。 だが、誰も決してそうは見なさない。 豚や牛を解体する我が家ばかりが、賤業として忌まれるのはなぜだ。 結局それは、単なる不快感の問題でしかないのだ。 豚や牛のような大物を解体すると、どうしても大量の血が流れ、臓物に触れることになる。 作業をしているうちに、死臭が全身に染みこむ。 皆、単にそんなことはやりたくないだけなのだ。 面倒だから。 気持ち悪いから。 臭いから。 だから我が家がそれを引き受けているのに、それだからこそ、我が家は忌まれ見下される。 感謝はされず、目を背けられる。 自分たちは豚や牛を食らいながら、そのためにそれを殺すという現実を見たくないから、我が家のような屠殺業から目を逸らす。 肉を食らうということは、血と臓物にまみれることだというのを認識するのが不快だから、それを他人に代行させて見なかったことにする。 なんという傲慢。 狼が屍肉を忌み嫌うか? 熊が鹿を食らうとき返り血を浴びるのを嫌がるか? そんなのは人間だけの愚かしい行為だ。 だが皆、その愚かしさから目を背けている。 安全だからだ。 目を背ける余裕があるからだ。 妖怪にいつ襲われて食われるかわからない状況で、そんな悠長なことを言っていられるものか。 人間は保護されているから傲慢になる。 傲慢になり、他者を見下す。 社会の中にヒエラルキーを作り、他人を踏みつけて安住する。 人間は、もっと妖怪に食われるべきなのだ。 だが、それには僕は、正々堂々と答えよう。 僕は一向に構わない、と。 いや、むしろ、僕は妖怪に食われたいと願っているのだ、と。 人間を食らう妖怪。 僕は、君に食われたかったのだ。 これは信念としての問題ではなく、もっと根源的な欲望として。 人間を食らう君と出会って、僕は自分の、その欲望を悟ったんだ。 いったいいつから、僕の中にそんな衝動が宿っていたのだろうか。 それは自分でもよくわからないけれど、豚や牛を解体し続けているうちに、僕の中ではおそらく何かが麻痺していたのだと思う。 そこには生命の尊厳など存在しない。 屠殺され解体された豚や牛はただの肉の塊だ。 僕にとっては、それはあまりに見慣れたものだった。 だから僕は、僕自身でさえも、結局はただの肉の塊でしかないのだと、心の深いところでそう認識していたのだと思う。 食われるために飼われている豚や牛は、自分の運命を知っていて、それを望んでいるのだろうか。 わからない。 僕自身にだって、答えの出る問題ではないのだ。 ただ確かなのは、僕の中に巣くった衝動と、願いだけだ。 おかしな人間だと、君は思うだろう。 自分から食われたがる生き物がいるなどと、君はきっと想像もしないに違いない。 だが、これは心の底から、僕の本心であり、どうしても叶えたかった願いなのだ。 獣ではダメだ。 野犬や、狼や、熊ではダメだ。 それらは人間に狩られる存在であり、それに食われるのは単なる間抜けだ。 そうではない。 人間よりも絶対的に強い、妖怪に食われるのでなければならない。 それが、自然の在り方だからだ。 鹿に食われる熊はいない。 野兎に食われる狼はいない。 人間が食われる相手は、妖怪でなければならない。 僕はそうすることで、この傲慢な人間の里に、抗いたかったのだ。 人間が、妖怪に食われるべき存在であることを、里の人間に、我が家から目を背ける傲慢な人間たちに、見せつけてやりたかったのだ。 ここは、お前たちも、決して安穏としていられる世界ではないのだと。 そのために、僕は君に、僕自身を食べてほしかった。 僕を殺し、僕を解体し、僕をその胃袋に収めてほしかった。 いや、そんな理屈で、僕のこの強烈な衝動は説明しきれるものではない。 それもできれば、人間の姿をした生き物に。 言葉の通じる相手に。 僕は夢想する。 自分の腕が、足が、腸が引きちぎられて、咀嚼される様を。 それにはとてつもない苦痛が伴うだろう。 どこかの時点で僕は死ぬだろう。 だが、その苦痛や死すらも、それを夢想するときの僕にとっては、甘美な悦楽なのだ。 仕事場で刃物を振るっていると、ときどき、自分で自分の肉を削ぎおとしたくなる。 そうして、解体した豚や牛に紛れて、僕の肉が里の肉屋に並ぶことを、夢想する。 僕は結局、僕を食べてくれるなら、誰でも良かったのかもしれない。 獣でさえなければ。 だから僕は、君の不思議な問いかけに、こう答えたんだ。 だけど君は、足元の死体を見下ろして、ふるふると首を横に振ったね。 「これだけで、お腹いっぱいだから、今はいいや」と。 落胆しなかったと言えば嘘になる。 だけど、今はいいや、という言葉は僕にとって希望だった。 だから僕は、君の近くに座り込んで、君と色々話をしたね。 人間の味とはどんなものなのか。 どの部位が美味しいのか。 男性と女性、大人と子供で味は違うのか。 君は拙い言葉で、僕の質問に一生懸命答えてくれたね。 そうして、やがて不運な外来人の亡骸は、骨だけを残して君の胃袋に収まった。 「まんぷく」 君は膨らんだお腹をさすって、満足そうにそう言った。 僕は、君の胃で消化されつつある外来人のことが、猛烈に羨ましかった。 早く僕も、君の胃袋で消化されたい。 だから僕は、君に問うた。 次にお腹がすくのは、いつ頃だい? と。 「しばらくは大丈夫」と、君は答えた。 具体的な日数を、君は答えてくれなかったね。 君にもそれはきっとわからなかったんだろう。 君は人間の暦になど縛られず、自由に生きているのだから。 お腹がすいているとき、不運な外来人を見つけたら襲って食う。 人間を捕まえるのが苦手な君は、それもなかなか上手くいかなかったようだけれど。 そんな君の、自然な、あるがままの在り方に、僕は憧れを抱いたんだ。 だから僕は、それから何度も君に会いに行ったね。 君はいつも僕のことを不思議そうに出迎えたけれど、僕の他愛ない話に君はいつも喜んでくれたね。 僕自身も、まるで歳の離れた妹ができただけのように思うことさえあった。 だけど僕の頭の中ではいつも、君に食われたいという欲望がくすぶり続けていた。 僕は待っていたんだ。 君があの外来人を消化しきって、またお腹を空かせる日を。 君に、僕を食べてもらうために。 この手紙を君に渡したあと、僕は君に食われるだろう。 そのことに後悔はない。 あるのはただ、満足感だけだろうと思う。 ただ、それでもう、君に会えなくなるということだけが、少し寂しい。 君の方は、そう思ってくれるだろうか。 僕を食べてしまえば、僕に会えなくなることを理解して、寂しいと思ってくれるだろうか。 だけど、もしそう思ったとしても、僕を食べることをためらわないでほしい。 君に食べてもらうこと。 それだけが僕の願いなのだから。 僕は心から、君に会えたことを、感謝しているんだ。 だから、この家の中にあるものは、君への僕からの、せめてもの贈り物だ。 今、この手紙を書いている僕の足元に転がっている、殺したばかりの三つの死体は。 僕だけじゃなく、僕の父と、母と、弟の死体を、君にあげよう。 君が、しばらく食べるものに困らなくていいように。 人間を捕まえるのが苦手な、君のために、あらかじめ僕が殺しておいてあげたから。 そうなったら、この手紙を、追って来た相手に見せるんだ。 君はあまり記憶力がよくないみたいだけれど、このことは忘れないでほしい。 僕は死ぬ前に、君にそれをよく言い聞かせておくつもりだ。 この手紙が、僕が食べられたあとも、君を守ってくれるはずだから。 里の屠殺業の一家を殺害したのは、妖怪ではなく、長男の僕である。 そして僕は、これから腹を切って自死する。 だから彼女はただ、そこにあった死体を食べただけだ。 彼女は、里の人間を襲ってはいない。 だから彼女を、退治しないでやってほしい。 この手紙は決して公表せず、彼女に返してあげてほしい。 そして、僕の家の事件は、正体不明の妖怪の仕業だと、公表してほしい。 僕があなたに望むことは、それだけだ。 親愛なる、R嬢。 君がこの手紙の内容を知るとき、僕が君の小さな胃袋の中にいられるのかは、僕自身にはわからないだろう。 そうであってほしいと願うけれど、僕を食べるかどうか決めるのは君だから、もし食べてもらえなかったとしても、そのときは諦めよう。 どうせ僕はそのときにはもう死んでいるのだから。 だけど君はきっと、僕を真っ先に食べてくれるんじゃないかと、そう思うんだ。 だから、最後に、僕は君にこう訊ねるだろう。 名前 メール 削除キー 評価• 送信 0. 610点 簡易評価 1. いい感じに幻想郷風味に調理されていてさすがでした。 素晴らしかったです。 傑作も傑作。 作者は連城先生を愛しているのだろうなぁというのが文体から感じられた。 これがポイント伸びないのかぁ。 二次創作の粋みたいな作品なのに。 悲しい、あんまりに悲しい。 Megalopolis 46• Render time: 5. 03ms.

次の

#10 僕と死神8

僕 の 腕 に 噛み 跡 つけ た あと

僕はまた、ポッターを洗ってやっていた。 なんだか小さい頃を思い出す。 父も良くこうやって僕を洗ってくれてたっけ。 父との思い出。 冷水をシャワーでかけられた。 心臓が凍りそうな温度の水でずぶ濡れになりうずくまって震えていると父の罵声が聞こえる。 『なぜお前だけが出来そこないなんだ?』僕が聞きたいよ。 それに比べればまだポッターはマシだろう。 シャワーは温水だし、僕は無言だし、たわしじゃなくてスポンジで洗ってやってるし。 僕がこんなに優しいのはきっと反面教師のおかげだな。 なんて今更変えようのない過去の話は置いておいて、明日はいよいよダンブルドアとの【交渉】の日だ。 ポッターには少しだけ見綺麗にしてもらわないと困る。 痩せこけた頬と落ちた筋肉は隠しようがないが使い古しの雑巾みたいな格好よりはいい。 「さて、段取りの確認だ」 僕はほとんど独り言のようにポッターに話しかける。 彼は座ったまま微動だにしない。 そのまま僕は伸び切った彼の髪の毛をつまみ、ハサミを突きつけた。 「君は黙って寝てる。 それだけ」 じょきんと言う音とともに、髪の束がタイルに落ちた。 ポッターのくせっ毛がどんどん刈り取られて、閉じ込める前と同じくらいの長さになっていく。 シャワーをもう一度浴びせ、服を着せる。 攫ってきた日と同じ洋服だ。 ポッターを綺麗にして、またいつもどおりの場所にしまってから夕食に出た。 「人形遊びをしている気分になるよ」 僕の言葉にボージンとゲラートが愉快そうに笑う。 食卓の上のワインを勝手に開けて飲んでいたらしい。 なんということだ。 「ヴォーヴァ、人形ならこいつの店にもあったぞ」 「ああ、中にマグルの指の日干しが入ってる」 高笑い、高笑い。 下品な趣味をお持ちのようで何よりだ。 けれどもそういった品はいつどの時代でも需要がある。 だからボージンは"バークス"を欠いてもなおここにいる。 その時の様子を酔ったボージンはこう語る。 「ありゃいつだったかな…一番ダイアゴン横丁に活気がなかった時だ。 うん…。 ノクターン横丁はそれにくらべりゃ人が多かった。 だからあいつが消えたとき、俺は本当に腹がたった。 従業員を急遽雇おうにも、どこも人手不足でな。 あとから気づいたんだが、あれは相当なことをやらかしたんだろうな…。 もう半世紀も前か。 例のあの人が…ああ、これはあんまり言うなよ…あの人の若者時代を知ってるやつはもう少ない…。 あの人が、昔ここで働いてたんだよ。 驚きだろ?だからそんときに、なんかしちまったんだろうな」 よほどいいワインだったのかペラペラとよく舌がまわっている。 ゲラートも赤ら顔で間違って店に入ってきて呪われた子供のくだりで楽しそうに笑ってる。 つまみも殆ど二人で消化して、僕だけシラフで置き去りだった。 ボージンの話はなんだか新鮮だった。 確かにどんな大悪人も生まれたときは赤ん坊だ。 ゲラートだって僕だって。 過去はいつまで経っても影のように自分の跡を付け回してくる。 過ちや恥、恐れなんかは一生消えないあざのように憑いてまわる。 ヴォルデモートさえも? 「人間、過去の話をし始めちゃ終わりだぞ」 「あんたは獄卒の割には無口だな」 「ああ、半世紀も一人でいると言葉も忘れちまうのさ」 「へっ…それでもアズカバンよりはマシさ…。 あんたもこの国で悪さをするのは控えたほうがいい」 「余生を無駄にするつもりはないよ」 「ぜひそうしてくれ」 年寄り二人の世間話に飽きた僕は立ち上がり、食器を下げた。 ゲラートは酩酊しテーブルに突っ伏したボージンを運んだ後、邪魔な食べかすをゴミ箱につっこんだ。 「小僧は大丈夫そうか?」 「さあね。 彼が何を言っても僕には関係ないことさ。 ただ…」 「ただ?」 「魔法ってのはほんとに厄介だよ。 舌を引っ掻こぬいて記憶を消しても復元できるんだから…」 「そんな事したらダンブルドアはすぐに俺たちを捕まえに来る。 いいんだよ、殴りかかってくるぐらいの元気さで」 僕たちがハリー・ポッターを馬鹿正直に無傷で返すのは【ダンブルドアにヴォルデモートを倒してもらうため】だ。 あわよくば共倒れ。 どちらかが生き残ったとしても彼らほどの魔法使いがぶつかって勝者が無傷なんてありえない。 僕らはとことん漁夫の利狙いだ。 魔法使いの"名誉ある勝利"なんてものはそれにふさわしい場がある時のみにしか与えられないまやかしだ。 高貴なる決闘をするにはゲラートは長く閉じ込められすぎていたし、僕は若すぎる。 そういうのは本場紳士の国の人間に任せよう。 革命家も役人も、基本的に高潔さとは無縁なのだから。 ハリー・ポッターの誘拐はあるものと引き換えにするためだった。 ゲラートの目的は、アルバス・ダンブルドアの持つ杖だ。 これだけのコストをかけて取り戻す必要があるのか?と聞くと「俺のやる気を出し続けたいなら、杖は必要だよ」とはぐらかしたような答えが返ってくる。 まあ、モチベーションを保つのは難しいよな。 自分の知らない人生を抱えた人々へできる一番の配慮は、相手の見せたカード以外の事項に触れないことだ。 「なぜ物事が中途半端な状態で膠着しているのか…それは俺とダンブルドアの特殊な関係と、ダンブルドアとトム・リドルの特殊な関係がうまく噛み合わないせいだ」 ゲラートいわく、事態は三角関係よりも複雑らしい。 「昔はもっとシンプルだった。 世界対世界。 今はすべてのことに個人の、どうでもいい感情がぶら下がっている。 全く以て煩わしい。 個人の数だけ戦いが存在して、膨れ上がってる。 俺が思うに…現代人はもっとシンプルになるべきだ。 トム・リドルは成功しかけた」 「が、失敗した。 あんたもな」 「そのとおり。 だが俺は世界に対して自分の後始末をつけようって誠意はあるぜ。 たとえそれが手遅れでもな」 事態は時間が経つほどキップルにまみれていく。 僕も似た気持ちを味わってる。 この島国に来てから(つまり、僕が本格的に社会人になってから…)僕は自分がここにいるという実感がないままに生活してきたが、ここに来て初めて社会に参画している実感が湧いてきた。 さて、念願の取引において重要なのは他人の邪魔が入らないという点に尽きる。 その点はBDやほか関係者のおかげでほとんどケチがつかないくらいに完璧だ。 むしろ、重要なのは舞台装置ではなく、舞台の終わったあとの役者の動きだった。 ほんの数分で終わる交渉の後に残る膨大な禍根の交通整理…の準備がどれほど手間だったかは言うまでもない。 泣いても笑ってもその成果は間もなくわかる。 「ネクタイ曲がってないか?」 翌日、僕はマグルの駅ナカで拾ってきたみたいなグレーの、縦縞のスーツを着て鏡の前に立っていた。 襟元には無難なストライプのネクタイ。 そして手には大きなバッグ。 だれがどう見たって変な情報教材なんかを売りつけてくるセールスマンだ。 歯磨きしながらゲラートは適当にうなずく。 信用ならんやつ。 ここには割れた鏡しかないからしょうがないが。 「段取りは」 キングスクロス駅の混み合ったホームを泳ぐようにして、僕らはなんとか目的の電車に乗った。 ボックス席で向かい合う。 乗客は疎らだった。 駅の中で買った具の偏ったサンドイッチとパックの野菜ジュースを食べて、地図を広げ最後の打ち合わせをした。 傍から見れば僕らはどう見えるのだろうか。 おっさん二人のピクニック?親子の小旅行?なんにせよ、少しワクワクした様子だったのは間違いない。 草原と湿原と、ぽつりぽつりとたった家。 だだっ広い大地の、おそらく何も割り振られてないただの草原が待ち合わせ場所だった。 僕はただ一人で立っている。 ここが草原じゃなければ、時折手元の時計を見る仕草や足元に置かれたバックから、誰か人を待っているようにしか見えない。 秒針が指定の時間を指すと、背後でバシッという音がして、さっきまでいなかった老人が佇んでいた。 「お久しぶりです」 「ウラジーミル・ノヴォヴィッチ・プロップくん。 いやはや。 君のような若者に一本取られたとは」 薄紫のローブに半月メガネ。 スーツの僕と比べるといかにも魔法使いだ。 どちらもこの枯れ草色の大地に不似合いなのは変わりないが。 この場所、待ち合わせ自体はこちらも罠を張ったりしていないしあちらもそれを確認済みだ。 本当に、ただの草原。 「彼が生きている証拠は?」 「切った髪の束を送りましたよね?」 「受け取ったとも。 じゃが…言い方は悪いが、死体からでも髪くらい採れる」 「はは…それもそうだ。 とはいえ、貴方はそれを確かめないまま取引に応じた。 つまり生死は取引要件に含まれない。 …別に死んじゃいないが、ここまできたらそんなこと突っ込むのが野暮だ」 「なるほど、こちらの落ち度であると?」 「ああ。 ゴネて長引かせるのは勘弁してくれ。 僕みたいな凡夫は、時間通りに事が進んでないと正気を失う」 「それは難儀じゃのう。 では…」 ダンブルドアは懐から長い杖を取り出し、手元でくるりと回してから持ち手を僕に向け、差し出した。 僕はバッグを持ち上げ、彼に差し出す。 お互いがお互いの品を受け取り、僕らは静かに距離を取った。 取引は一瞬だ。 僕が杖を手にした瞬間、耳に挿しておいたイヤフォンからノイズの激しいゲラートの声がする。 『ヴォーヴァ、やっぱりおいでなすった』 当然、この草原から見えない場所で騎士団が張っていたようだ。 もちろん承知の上だ。 僕は踵を返し、カバンを抱き姿くらまししたダンブルドアの立っていた場所を踏みつけていく。 風を切る音ー空を仰ぎ見ると、黒い靄のようなものが地平線の向こうへ墜ちてゆき、バーンとおおきな音を立てて光線を発射した。 死喰い人のお出ましだった。 一瞬僕のことを殺しに来たのかと思ったが、狙いはどうやら騎士団らしい。 僕は走り、草に足を取られて転びそうになりながら所定の位置へたどり着く。 地面に落ちた、ブリキの箱。 それを開けると中にはほとんど朽ちかけた紙の優勝メダルが入っていた。 クィディッチワールドカップのときに大量に作られたうち、大量に遺棄され、回収されそこねた移動キーのうちの一つだった。 それをつまみ上げようとしたとき、草をかき分ける音と、爪のようなものが地面をける、カリッという音がした。 その音の方を見た瞬間、移動キーが発動し、景色が歪む。 同時に無意識に顔をかばうようにしていた左腕に、なにか黒いものが噛み付くのが見えた。 そして全てが無茶苦茶に混ぜた絵の具みたいになって、景色が変わった。 まず感じたのは熱さで、その次に感じたのは鼻腔いっぱいに広がる獣臭さだった。 鼻息と、唾液。 目の前に広がる闇が単なる暗闇でなく、生き物の黒い毛皮だとわかった。 狼のような動物が腕に噛みついている。 そうわかった途端痛みよりもまず怒りが湧いた。 完成前のドミノを崩された気分だ。 狼はほとんど僕に覆いかぶさっていて、腕の骨を砕いただけじゃ飽き足らず、僕の喉笛を噛み千切ろうとしている。 とにかく腹を蹴った。 靴底越しに、皮越しに感じる内臓の柔らかさ。 しかし何度も蹴り上げても狼はそこをどこうとしなかった。 それどころかどんどん牙を腕に食い込ませていく。 背骨を走るような悪寒。 僕は悲鳴か罵声かわからない声を上げて必死に抵抗していた。 脳の隅では左手が使えなくなって困ることを淡々とリストアップしていた。 思ったよりも少なかった。 なんて、走馬灯もどきを見ていると、どこからかやっと味方の登場だ。 「おいおいおい!こんなの計画になかったよな?」 天からいがらっぽい声がして、上に覆いかぶさる狼目掛けて岩が飛んできた。 岩は僕をしゃぶるのに夢中になってた狼に命中した。 狼は吹っ飛び、僕の腹の上にはその岩が落ちた。 咳き込んだのち、自分の受けたダメージに見合ったくらいのゲロを吐いた。 「クソ、遅いぞ」 僕は吹っ飛んだ狼を探す。 もうその場にいない。 ただ木の影から突き刺さるような視線を感じた。 「しょうがないだろ。 おまえが予定してたところ、ズレてたんだ」 そう言って僕の左腕の傷を見て、ネクラースは眉をひそめた。 自分のベルトを抜くと僕の方に巻き付け、一応の止血をする。 こいつは度を越したナチュラリストたから、魔法による血止や治療は期待できなかった。 「こりゃ酷い。 どうやったら狼をここまでキレさせられる」 「知るか。 それよりまだ襲ってくるかもしれない」 「確かに。 とりあえずジョンのところまで戻ろう」 ネクラースは僕の肩をしっかり抱き、ほとんど引きずるようにして木々の間を走っていく。 傷は思っているよりひどく、腕から先がとれてしまったみたいに何も感じない。 ただ目で見えるミンチっぷりを見るに、癒者なしに完治しなさそうだった。 「クソ…なんで狼なんか。 おい、あの地区に狼なんていたのか?」 「バカ、あれは犬だよ。 バカでかい黒犬…」 「どうだっていい!なぜあんなものが。 ペットかなんかかよ」 「んにゃ。 ありゃ動物もどきだろうな。 おまえ、ヘマしたんだよ」 「なに…?」 ネクラースは人生の殆どを魔法生物を殺すことにかけたプロフェッショナルだ。 「グリムみてえな犬だったな。 まだすぐ後ろにいる」 「人には戻らないのか」 「さあな。 俺たちを見てどっちが効率いいか考えてんだろ…おっと」 木々の隙間に見える少し開けた場所が見えた。 そこに横たわる大岩に、男が一人腰掛けていた。 つやのある黒髪を編み込んだ、手のかかった髪型に、ルシウス・マルフォイを彷彿とさせる時代遅れな貴族衣装を着た男だ。 彼はジョン・ドゥー。 神秘部勤務の魔法使いであり、元呪い破りだった。 「おや」 彼は僕の傷を見て顔を顰める。 「困るね、そういうことが起きるなんて聞いていないんだが」 「事故だ。 犬に化けた何者かがまだそこにいる」 「ふぅン。 そりゃ困ったね。 顔を見られたかな?」 「犬は目が悪い。 まだヤツは犬だ」 「じゃあ顔を隠しとこうかね…」 ジョンはそういったがいいが、自分が顔を隠すものを何も持ってないことに気付いて空笑いした。 ここには自分以外世間から一インチほど浮いた人間しかいない。 「ワンコちゃんが僕らを噛み殺す決心する前にやってくれよ」 「オォ、恐ろしい。 ネクラースがいるから、まあそこは心配ないけどね」 ネクラースは周りを取り囲む木々の一点を凝視していた。 傷口に唸る僕を見てからジョンは懐からナイフを取り出し、自分の手に深く切り込みを入れた。 そしてぶつぶつと聖書を諳んじながら、僕の体に手をかざした。 聖書である意味はないというのに彼は神への祈りをやめない。 ジョン・ドゥーは呪いを破ることに特化した魔法使いで、そのかわり杖が持てない。 「どうしてかな」 本人はとぼけたように笑った。 「気が抜けたのかな」 そうして呪い破りをクビになったのはヴォルデモートが死んだ年だった。 そしてすぐさま死喰い人である嫌疑をかけられたが、彼の呪い破りの才能を欲した神秘部部長により拾われ、今に至る。 彼は死喰い人ではないが、小鬼と結託し何かしら騒乱を企んでいたのは間違いなかった。 そこそこの悪人がこうして普通に役人として飯を食ってるんだから世界はまだまだ改善の余地があるってもんだ。 「追跡呪文はかかってない。 かかってても、今解けた。 周囲も当然何もないからね。 帰れる」 「セストラルも準備万端だ。 200メートルはあるくが」 「とっとと行こう」 僕は早くこの場を立ち去りたかった。 治療したくてたまらない。 不快な畜生の涎と、泥と、汚らわしい血を洗い流したかった。 「ここを離れた途端、あのワンコロは特攻してくるかもしれねえ」 「ぶっ殺してくれよ」 「ありゃ動物もどきだろ。 人間のときならともかく、半端だから嫌だ」 ネクラースの言い分は意味不明だった。 「兎にも角にもとっととずらかろう。 本番はこれからなんだ」 「ネクラース、彼相当お冠だ」 「ああ…わかった、わかったよ…まったく…」 ネクラースは渋々杖を抜き、のそのそと先導した。 犬は襲ってこないまま、ずっと背後をつけていた。 どうやら三人相手に戦いを挑むつもりはないらしい。 安心しつつも、判断の冷静さになんだか嫌な感じがした。 だが今の僕はそんな嫌な感じよりも、自分の腕が心配だった。 失血のせいか、寒気までしてくる。 セストラルに跨がり、蹄が地面を蹴り上げたあとに、自分に噛み付いた犬が躍り出た。 爛々と輝く獣の瞳が、僕のことを見ていた。 ーヘマしたんだよー ネクラースの言葉が脳内をぐるぐると回った。 クソッタレ。 このヘマは尾を引く。 直感的にそう思った。

次の