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【2020】イラクディナール紙幣の投資詐欺が増加?怪しい勧誘を受けたので詳細を報告します【体験談】

イラク ディナール すみれ

この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 はなどを用いてください。 ( 2011年8月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2012年10月) この項目には、一部のコンピュータやで表示できない文字()が含まれています ()。 はで、、、、、、と隣接する。 古代を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の埋蔵国である。 読みは。 アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ。 アル=イラーク。 公式の英語表記は、 Republic of Iraq リパブリック・オブ・イラーク。 通称、 Irak。 日本語の表記は、 イラク共和国。 通称、 イラク。 - :• 1958年 - : イラク共和国(旧)• - 現在: イラク共和国(新) 歴史 [ ] キシュから出土した石灰岩の書き板 紀元前3500年 現イラクの国土は、歴史上のが栄えた地とほとんど同一である。 メソポタミア平野はとにより形成されたで、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くからを営む定住民があらわれ、西のおよびの流域とあわせて「」として知られている。 ごろからや、、そしてなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。 メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。 例えばである。 メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。 しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでが先行した。 Qattara遺跡 現イラクの からはのガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。 高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。 紀元前15世紀になると、の王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、 ()遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。 詳細は「」および「」を参照 イスラム帝国 [ ] 西暦、の指揮のもと約18,000人の イスラム教徒 からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。 当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。 サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。 これ以来、の支配下でからアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク イラーク と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。 にはのがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。 末にのエミール・ ()は、第4代カリフのの墓廟をに、またの第3代イマーム・の墓廟をに作った。 モンゴル帝国 [ ] 詳細は「」および「」を参照 、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。 以降、オスマン朝はと呼ばれる外交問題を抱えていたが、のを経て、ので「体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。 しかし、にビスマルクが引退すると、2度のが勃発し、を迎えた。 の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、 ()と ()、 ()の3州として統治していた。 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、の大首長のもとで自治を行っていた岸のは、に寝返ってイギリスのとなった。 に隣国イランので、初の中東石油採掘が行なわれ、と ()との間で60年間の石油採掘に関する ()が結ばれた。 にダーシー利権に基づいて () APOC が設立された。 にがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 TPC、 ()の前身 を立ち上げた。 イギリス帝国 [ ] 「」も参照 10月30日、オスマン帝国が降伏。 1月18日 - 1月21日。 4月、英仏間で石油に関するを締結。 5月19日 - 7月24日 が勃発。 大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、6月にで ()が勃発する中、8月10日にイギリスはにより を放棄させようとしたが、批准されなかった ()。 3月21日、の意見によってが押し切られ、今日のが形成された ()。 イギリス委任統治領メソポタミア [ ] 8月23日に前述の3州をあわせてを成立させて、大戦中のの指導者として知られるのを国王に据えて王政を布かせた。 クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。 で () - を一時的に樹立。 10月10日、 イラク側の批准は1924年。 7月24日、でとの国境が確定し、が切り離された。 10月14日、 ()でを発見。 、イギリスとトルコがを締結。 、イギリスが () IPC を設立。 6月30日、でイラク石油会社の石油利権を改正。 王政 [ ] 詳細は「」を参照 ハーシム王家はの支援のもとで中央集権化を進め、を中心とする国家運営を始め、には としてを達成した。 一方、 ()と傘下のとが共同出資してに ()を設立。 、クウェート石油はを発見した。 、 ()により ()のクーデター政権が出来たが、5月の ()で崩壊した。 6月、。 8月、。 12月、・ ()が占領下の北西部 ()で独立を求めて蜂起し、翌年を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊。 バルザーニーはソ連に亡命し、8月16日に結成。 、 - が勃発。 、 METO に加盟。 、エジプトによる国有化に端を発する - が勃発。 ら ()が参戦している。 中東情勢の激化に伴いが登場した。 アラブ連邦 [ ] にはとシリアによって結成されたに対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとを結成した。 イラク共和国 第一共和政 [ ] 詳細は「」を参照 カーシム政権 [ ] 7月14日、 ()のによって倒され 、大統領と首相によるが成立。 カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。 親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。 3月7日、が支援する親エジプト派が蜂起した ()が勃発。 3月24日、中東条約機構 METO を脱退。 9月、カーシム首相がイラク石油会社 IPC の国有化を発表。 1960年9月14日、バグダッドで(OPEC)結成。 6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムが併合に言及すると、7月1日にがを発動し、独立を支援した。 9月11日、 () - が勃発した。 イラク共和国 第二共和政 [ ] 第1次バアス党政権 アル=バクル政権 [ ] 2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された。 大統領には、首相にはが就任した。 アーリフ兄弟政権 [ ] 11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発。 4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。 後継の大統領にが就任。 親エジプト派としてを支持し、にアメリカとの国交を断絶。 6月、。 バアス党政権 第三共和政 [ ] 詳細は「」を参照 第2次バアス党政権 アル=バクル政権 [ ] 7月17日にが発足 、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 3月11日、で 、、 を設置。 石油を産出するとは含まれなかった。 にと友好条約を締結。 10月、に参戦。 同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、が引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して () - が勃発。 等を含め双方合わせて1万人超が死傷。 その後、この戦いでイラク国軍を率いたが実権を掌握した。 サッダーム・フセイン政権 [ ] 7月16日にサッダームがに就任した。 にが開戦して1988年まで続けられた。 8月に後、にとなり敗北した。 イラクをパトロールするアメリカ軍 2005年6月 6月28日、に主権が移譲された。 同時に有志連合軍はの多国籍軍となり、治安維持などに従事した。 8月にはシーア派政治組織「 ()」の率いる民兵組織「」が影響力を高めた。 暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、1月30日にイラクで初めての暫定を実施し 、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。 にが初の大統領に就任。 が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。 新・イラク共和国(第四共和政) [ ] シーア派政権 [ ] に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた。 3月16日に議会が開会し、4月22日に政党連合の () UIA がを首相に選出、に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となるが議会に承認されて発足し 、イラク共和国として再独立を果たした。 これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。 12月30日、。 3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり () 、が顕在化した。 世俗派の政党連合「 ()」を構成する ()は2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。 これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。 3月7日に第2回議会選挙が行われた。 の世俗会派イラク国民運動が第1党 91議席 となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった 89議席。 しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。 その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。 アメリカ軍撤退後 [ ] 「」および「」も参照 2010年8月19日までに ()、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。 2010年11月に議会は、を大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し 、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した。 2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。 バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。 2017年8月31日、によって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。 2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。 政治 [ ] バグダード・コンベンション・センター ので承認されたでは、県と地域から構成されたと定義されているが、現在でもクルディスタン地域 定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。 元首 [ ] の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。 それぞれ、イラク国民の3大勢力である、 スンニ派 、、から各1名ずつが立法府によって選ばれる。 大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。 大統領宮殿位置は に位置している。 行政 [ ] 行政府の長であるは、議員の中から議会によって選出される。 副首相が2名。 その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。 現政権の閣僚は37名 首相・副首相を除く。 立法 [ ] でがある。 任期4年で、定数は329(2018年現在)。 第1回総選挙が2005年に行われた。 第4回総選挙はに行われた。 現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。 主にシーア派• やなどを地盤とする。 但し、サリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数の政党を取り込んでいる。 家と関わりが深い。 党の創設者であり長年党首を務めていたが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。 スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。 そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。 また、反政府により、早期選挙が求められている。 司法 [ ] 詳細は「」を参照 2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。 駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。 クルド地方3県 エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県 、南部5県 ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。 北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。 南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。 スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 スンニ派 が治安維持に貢献しているとされる。 国際関係 [ ] 詳細は「 ()」を参照 イランとは、でが崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。 また、同じということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親傾向が強まっている。 とは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。 での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。 湾岸戦争後は、エジプトはイラクのの最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。 シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。 においてはへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアの徒のアウン派への軍事支援も行なった。 これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、にとを派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。 1990年代は冷めた関係が続いた。 2000年になってが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。 ヨルダンは、イラン・イラク戦争およびでイラクを支持したため、両国の関係は強まった。 1999年にが即位して以降も依然として良好である。 イスラエルは、1948年、1967年、1973年のに参戦し、強硬な態度を取った。 イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた 、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択された Fez Initiative にも支持を表明した。 ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をで攻撃した。 地理 [ ] ティグリス川とバグダード市街 イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。 イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。 国土の西端はにあり、シリア、ヨルダンとの国境 である。 北端はトルコとの国境 で、に位置する。 東端は沿いの河口。 南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 の一部である。 イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のと北側のである。 ユーフラテス川の南側は、とが切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。 砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。 2 本の大河周辺はが広がる。 農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。 メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。 北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のである。 2 本の大河はクルナの南で合流し、となる。 クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。 ティグリス川の東は高度が上がり、イランのに至る。 バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。 イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。 国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。 イラク最高峰の(3611 m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。 同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。 トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。 ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、で説明されている。 ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びる ()が存在した。 周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。 湿原地帯には () 沼沢地アラブ と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシとを特徴とした生活を送っていた。 イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。 カルバラの西に広がる ()である。 から連なる Wadi al-Ghadaf など複数のと地下水によって形成されている。 ミル湖に流れ込む最も長いは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。 なお、イラク国内で最長のワジは Wadi Hawran であり、480 kmに達する。 バグダッド 標高34 m の月別最高・最低気温 赤棒 と平均降水量 青棒 イラクの気候は、ほぼ全土にわたりに分類される。 ティグリス川の北岸から北は、さらにに至る。 したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。 南西季節風の影響もあって、が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。 ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。 一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。 に53. 8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。 首都バグダードの平均気温は8. 5 度 1月 、34. 2 度 7月。 年降水量は僅かに140 mmである。 動物 [ ] 砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。 イラクで最も大きな野生動物は、次いでである。 肉食獣としては、、、キツネが見られる。 小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、、モグラ、が分布する。 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。 水鳥でも捕食者でもない 、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、が代表。 植物 [ ] ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。 樹皮から分布される樹脂をとして利用するほか、香料として利用されている。 聖書のにはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。 北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つの草、ヨーロッパ原産のが見られる。 ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。 両河川の下流域は湿地帯が広がり、、、、が密生する。 土手には、ポプラ、ヤナギも見られる。 ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。 樹皮を採取し、なめし革に用いる。 やはり創世記に記述がある。 自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はである。 戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。 地方行政区画 [ ] 詳細は「 ()」を参照 の統計によると、のは1,955億ドルである。 通貨は後の 統治下の10月15日から導入されたイラク新ディナール。 紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。 アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。 為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0. イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。 ところが、1927年にで発見された石油がこの国の運命を変えた。 19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。 1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスのもとに留まった。 利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。 イラクはその後に接近、南部最大のがソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。 による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11. 9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。 1980年に始まったが拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。 1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとするの要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。 OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。 イラクの原油生産量、単位: 万トン United Nations Statistical Yearbook• 1927年 - 4. 5 イラクにおける石油の発見• 1930年 - 12. 1938年 - 429. 1940年 - 251. 1950年 - 658. 1960年 - 4,746. 1970年 - 7,645. 1972年 - 7,112. 5 油田と付帯施設を国有化• 1975年 - 11,116. 1986年 - 8265. 0 イラン・イラク戦争による被害• 1990年 - 10,064. 1993年 - 3,230. 0 湾岸戦争による被害• 1997年 - 5,650. 2003年 - 19,000. 0 イラク戦争終結時 イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。 8年間にわたるによる支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。 イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。 1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。 8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まったによる戦闘行為 で経済活動は大きく衰退した。 イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。 1996年12月にの実施により経済は改善される。 6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。 1999年12月、はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。 現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。 2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。 しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。 農業 [ ] イラクの水利システム 複数のダム barrage と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった WFP の統計 2003年 によると、イラクの農地は国土の13. 天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。 農業従事者の割合は低く、全国民の2. 農業従事者が少ないため、一人当たり16. 2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。 同2005年の統計によると、主要穀物では 220 万トン 、次いで 130 万トン の栽培に集中している。 麦類は乾燥した気候に強いからである。 逆に、の生産量は13 万トンと少ない。 野菜・果実ではトマト 100 万トン 、ぶどう 33 万トン が顕著である。 商品作物としては 87 万トン が際立つ。 エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12. 畜産業では、ヤギ 165万頭 、ウシ 150 万頭 が主力である。 ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。 少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。 とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。 バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。 イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。 バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。 イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 Khalaseh 、ハラウィ種 Halawi 、カドラウィ種 Khadrawi 、ザヒディ種 Zahidi である。 最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。 カドラウィ種がこれに次ぐ。 カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。 ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。 実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。 工業 [ ] イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。 食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。 繊維産業も確立している。 化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。 一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。 製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。 農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。 エネルギー [ ] のオイルターミナルに接岸する 原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。 イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。 19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。 鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。 交通 [ ] イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。 2003年時点の総延長距離は2200 km。 旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。 イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。 バグダードと中央南部のを結ぶイラク初の鉄道路線()はドイツによって建設された。 バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年にから時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な製の高速車両が導入された ()。 一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 うち65万台が乗用車 に留まる。 舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。 貿易 [ ] イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。 2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91. 同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。 輸出品目別では、原油83. 食品に分類されている品目はほとんどがである。 輸入品目別では、機械73. 貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18. イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。 ただし、相違点もある。 輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98. 結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。 製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5. 貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。 2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。 輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。 も存在していたが、建国に伴うの高まりとの気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。 ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。 各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。 それ以外の地域にはアラブ人が分布する。 気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。 また、を逃れたイラン人がイラク中部の ()と呼ばれる町に定住している。 イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。 イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。 1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。 マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。 アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。 マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。 まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。 夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。 スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。 各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。 マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。 まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。 スイギュウの餌もアシである。 南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。 コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。 マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。 また、にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。 そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。 言語 [ ] 詳細は「」を参照 、が公用語である。 2004年の改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。 その他、や アッシリア語 なども少数ながら使われている。 書き言葉としてのアラビア語 は、アラブ世界で統一されている。 これはコーランが基準となっているからである。 しかし、話し言葉としてのアラビア語 は地域によって異なる。 エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。 イラクで話されているのはである。 ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。 教育 [ ] 詳細は「 ()」を参照 イラクにおける教育制度は、伝統的なを学ぶ学校に始まる。 イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。 現在の教育制度は1978年に改訂され、が6年制となった。 教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。 国立以外の学校は存在しない。 1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。 3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。 大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。 首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。 婚姻 [ ] 通常は婚姻時に改姓することはない が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。 宗教 [ ] の () 全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。 イラク国内では被支配層にシーア派が多い。 シーア派はの後継者・最高指導者 が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。 シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要な、、、などに分裂している。 イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。 シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。 すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのとである。 イスラム教スンナ派 [ ] スンナ派では、、、の4法学派が正当派とされている。 イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれた Abu Hanifa、699年-767年 は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。 バスラの () Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年 は、合理主義を標榜したに属していたが、後に離れる。 ムウタズィラ派がよくしていたカラーム 弁証 をもちいて論争し、影響力を低下させた。 同時に伝統的な信条をもつを創設した。 Al-Ghazali、1058年-1111年 は、であったがバグダードので教え、を発展させた。 「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。 アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。 後に、のを受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。 イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれの () al-Hasan al-Basri、642年-728年 が著名である。 バスラに住み、禁欲主義を説いた。 神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。 ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 につながっていった。 ヤズィード [ ] はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。 聖典はコーラン、、。 自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。 キリスト教 [ ] 1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。 最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。 アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつ に属する。 19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、の一つとなった。 マンダ教(サービア教) [ ] はに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。 はそのサービア教と同一視されてきた。 に付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。 ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。 古代において・に広く伝播した主義が原型と考えられている。 ユダヤ教 [ ] はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。 建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。 文化 [ ] ウード 奥 とバチ ウードの弦は複弦であり五コース~六コースのものが多い 伝統的なとしてに類似する、に類似するレバーブ、その他に似た、葦の笛、酒杯型の片面太鼓などが知られている。 ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。 現在の研究ではから栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、によれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。 最古のウード状の楽器の記録はごろのメソポタミア南部 イラク にまで遡る。 ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、の演奏に向く。 弦の数はかつては四弦で、これは現在においても地方において古形を見出す事が出来るが、伝承ではに あるいはズィリヤーブとも云う によって一本追加され、五弦になったとされる。 現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い 正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。 五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。 六コース目の最低音弦は単弦となる。 イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。 スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。 指で弦をつまんで演奏するであり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。 また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのはのと並び重要な地である。 それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。 その様子はにも一部描写されている。 時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。 バグダードにはイラーキー・マカーム マカーム・アル=イラーキー と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、などが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれる状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 または独特の音楽を持つ。 現代のイラク人は西洋の、、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。 世界遺産 [ ] ハトラの遺跡 の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたは紀元前3世紀、ハトラを建設した。 セレウコス朝が衰弱すると、の通商都市、宗教の中心地として栄えた。 2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。 ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。 226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はを名乗る。 アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。 その後、シュメールの南方に接していたの都市となり、を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。 が成立すると、その版図となり、古アッシリア時代の 前1813年-前1781年在位 は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたを再建している。 1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のはを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。 紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略したによって同614年に征服・破壊される。 アッシリア自体も同612年に滅びている。 その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。 アッシュールはドイツ人のフリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのに展示・収蔵されている。 祝祭日 [ ] 日付 日本語表記 現地語表記 備考 元日 イラク国軍の日 第14回ラマダーン革命記念日 主権回復記念日 建国記念日 平和革命記念日 第1月1日 イスラム元日 ヒジュラ暦第3月12日 ムハンマドの生誕祭 ヒジュラ暦第10月1日 断食月明けの祭 ヒジュラ暦第12月10日 犠牲祭 詳細は「 ()」を参照 イラクではフセイン政権時代前はやなどが国際試合を行っており、特にはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによるにより多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。 また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。 1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、アジア最終予選・対日本戦において試合終了直前に引き分けに持ち込み、日本のワールドカップ初出場の夢を打ち砕いた「」が挙げられる。 やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もで初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2019年10月. 2020年5月30日閲覧。 MSN産経ニュース. 共同通信. 2010年2月20日. の2010年3月3日時点におけるアーカイブ。 2011年1月10日閲覧。 日本経済新聞 電子版 日本経済新聞社. 2011年12月15日. AFPBB News 2011年12月16日• ロイター 2011年12月15日• CNN. 2011年12月27日. 2011年12月31日閲覧。 [ ]• 『』 2017年9月1日• 吉岡明子 2019年1月18日. 中東・イスラーム諸国の政治変動. NIHUプログラム現代中東研究・政治変動研究会. 2020年5月30日閲覧。 日本語. 2019年11月1日. 2020年5月30日閲覧。 Foreign Policy:(2007年6月16日時点の). GIGAZINE. 2007年6月19日. Alnasrawi, Abbas 1994. The Economy of Iraq: Oil, Wars, Destruction of development and Prospects, 1950—2010. Alnasrawi 1994 , p. 2014年3月24日. 2018年8月28日閲覧。 , March 2006. CIA Factbook. 2015年5月6日閲覧。 IRIN Middle East. IRIN 2006年10月19日. 2013年10月21日閲覧。 CIA. 23 October, 2015閲覧。 参考文献 [ ]• ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年• ほか 編 『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年• 編 『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年• ほか 監修 『新イスラム事典』平凡社、2002年• 、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002• 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、• 『イラクの歴史』大野元裕・岩永尚子・大野美紀・大野元己・根津俊太郎・保苅俊行、〈世界歴史叢書〉、2004年。 Robert B. Clarke, PEOPLES OF THE EARTH, Vol. 17 Arab world, Tom Stacey Ltd. , 1973• Worldmark Encyclopedia of the Nations, Vol. 4, Thomson Gale, 2006• Demographic Yearbook, United Nations, 1990. Statistical Yearbook, United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002. 英のDavid ParfittのWebページ 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 イラクに関連する および があります。 には、 に関する旅行情報があります。 には、 に関する旅行情報があります。 (アラビア語)• (アラビア語) (英語) 日本政府• (日本語)• (日本語) その他• (日本語)• (英語)• - (英語)• (英語)•

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サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。 これ以来、の支配下でからアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク イラーク と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。 にはのがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。 末にのエミール・ ()は、第4代カリフのの墓廟をに、またの第3代イマーム・の墓廟をに作った。 モンゴル帝国 [ ] 詳細は「」および「」を参照 、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。 以降、オスマン朝はと呼ばれる外交問題を抱えていたが、のを経て、ので「体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。 しかし、にビスマルクが引退すると、2度のが勃発し、を迎えた。 の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、 ()と ()、 ()の3州として統治していた。 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、の大首長のもとで自治を行っていた岸のは、に寝返ってイギリスのとなった。 に隣国イランので、初の中東石油採掘が行なわれ、と ()との間で60年間の石油採掘に関する ()が結ばれた。 にダーシー利権に基づいて () APOC が設立された。 にがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 TPC、 ()の前身 を立ち上げた。 イギリス帝国 [ ] 「」も参照 10月30日、オスマン帝国が降伏。 1月18日 - 1月21日。 4月、英仏間で石油に関するを締結。 5月19日 - 7月24日 が勃発。 大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、6月にで ()が勃発する中、8月10日にイギリスはにより を放棄させようとしたが、批准されなかった ()。 3月21日、の意見によってが押し切られ、今日のが形成された ()。 イギリス委任統治領メソポタミア [ ] 8月23日に前述の3州をあわせてを成立させて、大戦中のの指導者として知られるのを国王に据えて王政を布かせた。 クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。 で () - を一時的に樹立。 10月10日、 イラク側の批准は1924年。 7月24日、でとの国境が確定し、が切り離された。 10月14日、 ()でを発見。 、イギリスとトルコがを締結。 、イギリスが () IPC を設立。 6月30日、でイラク石油会社の石油利権を改正。 王政 [ ] 詳細は「」を参照 ハーシム王家はの支援のもとで中央集権化を進め、を中心とする国家運営を始め、には としてを達成した。 一方、 ()と傘下のとが共同出資してに ()を設立。 、クウェート石油はを発見した。 、 ()により ()のクーデター政権が出来たが、5月の ()で崩壊した。 6月、。 8月、。 12月、・ ()が占領下の北西部 ()で独立を求めて蜂起し、翌年を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊。 バルザーニーはソ連に亡命し、8月16日に結成。 、 - が勃発。 、 METO に加盟。 、エジプトによる国有化に端を発する - が勃発。 ら ()が参戦している。 中東情勢の激化に伴いが登場した。 アラブ連邦 [ ] にはとシリアによって結成されたに対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとを結成した。 イラク共和国 第一共和政 [ ] 詳細は「」を参照 カーシム政権 [ ] 7月14日、 ()のによって倒され 、大統領と首相によるが成立。 カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。 親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。 3月7日、が支援する親エジプト派が蜂起した ()が勃発。 3月24日、中東条約機構 METO を脱退。 9月、カーシム首相がイラク石油会社 IPC の国有化を発表。 1960年9月14日、バグダッドで(OPEC)結成。 6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムが併合に言及すると、7月1日にがを発動し、独立を支援した。 9月11日、 () - が勃発した。 イラク共和国 第二共和政 [ ] 第1次バアス党政権 アル=バクル政権 [ ] 2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された。 大統領には、首相にはが就任した。 アーリフ兄弟政権 [ ] 11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発。 4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。 後継の大統領にが就任。 親エジプト派としてを支持し、にアメリカとの国交を断絶。 6月、。 バアス党政権 第三共和政 [ ] 詳細は「」を参照 第2次バアス党政権 アル=バクル政権 [ ] 7月17日にが発足 、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 3月11日、で 、、 を設置。 石油を産出するとは含まれなかった。 にと友好条約を締結。 10月、に参戦。 同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、が引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して () - が勃発。 等を含め双方合わせて1万人超が死傷。 その後、この戦いでイラク国軍を率いたが実権を掌握した。 サッダーム・フセイン政権 [ ] 7月16日にサッダームがに就任した。 にが開戦して1988年まで続けられた。 8月に後、にとなり敗北した。 イラクをパトロールするアメリカ軍 2005年6月 6月28日、に主権が移譲された。 同時に有志連合軍はの多国籍軍となり、治安維持などに従事した。 8月にはシーア派政治組織「 ()」の率いる民兵組織「」が影響力を高めた。 暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、1月30日にイラクで初めての暫定を実施し 、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。 にが初の大統領に就任。 が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。 新・イラク共和国(第四共和政) [ ] シーア派政権 [ ] に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた。 3月16日に議会が開会し、4月22日に政党連合の () UIA がを首相に選出、に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となるが議会に承認されて発足し 、イラク共和国として再独立を果たした。 これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。 12月30日、。 3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり () 、が顕在化した。 世俗派の政党連合「 ()」を構成する ()は2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。 これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためである が、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。 3月7日に第2回議会選挙が行われた。 の世俗会派イラク国民運動が第1党 91議席 となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった 89議席。 しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。 その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。 アメリカ軍撤退後 [ ] 「」および「」も参照 2010年8月19日までに ()、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。 2010年11月に議会は、を大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し 、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した。 2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。 バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。 2017年8月31日、によって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。 2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。 政治 [ ] バグダード・コンベンション・センター ので承認されたでは、県と地域から構成されたと定義されているが、現在でもクルディスタン地域 定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。 元首 [ ] の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。 それぞれ、イラク国民の3大勢力である、 スンニ派 、、から各1名ずつが立法府によって選ばれる。 大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。 大統領宮殿位置は に位置している。 行政 [ ] 行政府の長であるは、議員の中から議会によって選出される。 副首相が2名。 その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。 現政権の閣僚は37名 首相・副首相を除く。 立法 [ ] でがある。 任期4年で、定数は329(2018年現在)。 第1回総選挙が2005年に行われた。 第4回総選挙はに行われた。 現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。 主にシーア派• やなどを地盤とする。 但し、サリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数の政党を取り込んでいる。 家と関わりが深い。 党の創設者であり長年党首を務めていたが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。 スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。 そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。 また、反政府により、早期選挙が求められている。 司法 [ ] 詳細は「」を参照 2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。 駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。 クルド地方3県 エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県 、南部5県 ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。 北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。 南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。 スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 スンニ派 が治安維持に貢献しているとされる。 国際関係 [ ] 詳細は「 ()」を参照 イランとは、でが崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。 また、同じということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親傾向が強まっている。 とは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。 での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。 湾岸戦争後は、エジプトはイラクのの最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。 シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。 においてはへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアの徒のアウン派への軍事支援も行なった。 これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、にとを派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。 1990年代は冷めた関係が続いた。 2000年になってが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。 ヨルダンは、イラン・イラク戦争およびでイラクを支持したため、両国の関係は強まった。 1999年にが即位して以降も依然として良好である。 イスラエルは、1948年、1967年、1973年のに参戦し、強硬な態度を取った。 イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた 、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択された Fez Initiative にも支持を表明した。 ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をで攻撃した。 地理 [ ] ティグリス川とバグダード市街 イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。 イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。 国土の西端はにあり、シリア、ヨルダンとの国境 である。 北端はトルコとの国境 で、に位置する。 東端は沿いの河口。 南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 の一部である。 イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のと北側のである。 ユーフラテス川の南側は、とが切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。 砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。 2 本の大河周辺はが広がる。 農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。 メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。 北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のである。 2 本の大河はクルナの南で合流し、となる。 クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。 ティグリス川の東は高度が上がり、イランのに至る。 バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。 イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。 国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。 イラク最高峰の(3611 m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。 同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。 トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。 ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、で説明されている。 ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びる ()が存在した。 周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。 湿原地帯には () 沼沢地アラブ と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシとを特徴とした生活を送っていた。 イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。 カルバラの西に広がる ()である。 から連なる Wadi al-Ghadaf など複数のと地下水によって形成されている。 ミル湖に流れ込む最も長いは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。 なお、イラク国内で最長のワジは Wadi Hawran であり、480 kmに達する。 バグダッド 標高34 m の月別最高・最低気温 赤棒 と平均降水量 青棒 イラクの気候は、ほぼ全土にわたりに分類される。 ティグリス川の北岸から北は、さらにに至る。 したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。 南西季節風の影響もあって、が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。 ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。 一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。 に53. 8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。 首都バグダードの平均気温は8. 5 度 1月 、34. 2 度 7月。 年降水量は僅かに140 mmである。 動物 [ ] 砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。 イラクで最も大きな野生動物は、次いでである。 肉食獣としては、、、キツネが見られる。 小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、、モグラ、が分布する。 鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。 水鳥でも捕食者でもない 、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、が代表。 植物 [ ] ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。 樹皮から分布される樹脂をとして利用するほか、香料として利用されている。 聖書のにはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。 北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つの草、ヨーロッパ原産のが見られる。 ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。 両河川の下流域は湿地帯が広がり、、、、が密生する。 土手には、ポプラ、ヤナギも見られる。 ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。 樹皮を採取し、なめし革に用いる。 やはり創世記に記述がある。 自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はである。 戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。 地方行政区画 [ ] 詳細は「 ()」を参照 の統計によると、のは1,955億ドルである。 通貨は後の 統治下の10月15日から導入されたイラク新ディナール。 紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。 アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。 為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0. イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。 ところが、1927年にで発見された石油がこの国の運命を変えた。 19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。 1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスのもとに留まった。 利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。 イラクはその後に接近、南部最大のがソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。 による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11. 9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。 1980年に始まったが拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。 1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとするの要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。 OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。 イラクの原油生産量、単位: 万トン United Nations Statistical Yearbook• 1927年 - 4. 5 イラクにおける石油の発見• 1930年 - 12. 1938年 - 429. 1940年 - 251. 1950年 - 658. 1960年 - 4,746. 1970年 - 7,645. 1972年 - 7,112. 5 油田と付帯施設を国有化• 1975年 - 11,116. 1986年 - 8265. 0 イラン・イラク戦争による被害• 1990年 - 10,064. 1993年 - 3,230. 0 湾岸戦争による被害• 1997年 - 5,650. 2003年 - 19,000. 0 イラク戦争終結時 イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。 8年間にわたるによる支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。 イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。 1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。 8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まったによる戦闘行為 で経済活動は大きく衰退した。 イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。 1996年12月にの実施により経済は改善される。 6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。 1999年12月、はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。 現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。 2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。 しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。 農業 [ ] イラクの水利システム 複数のダム barrage と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった WFP の統計 2003年 によると、イラクの農地は国土の13. 天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。 農業従事者の割合は低く、全国民の2. 農業従事者が少ないため、一人当たり16. 2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。 同2005年の統計によると、主要穀物では 220 万トン 、次いで 130 万トン の栽培に集中している。 麦類は乾燥した気候に強いからである。 逆に、の生産量は13 万トンと少ない。 野菜・果実ではトマト 100 万トン 、ぶどう 33 万トン が顕著である。 商品作物としては 87 万トン が際立つ。 エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12. 畜産業では、ヤギ 165万頭 、ウシ 150 万頭 が主力である。 ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。 少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。 とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。 バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。 イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。 バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。 イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 Khalaseh 、ハラウィ種 Halawi 、カドラウィ種 Khadrawi 、ザヒディ種 Zahidi である。 最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。 カドラウィ種がこれに次ぐ。 カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。 ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。 実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。 工業 [ ] イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。 食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。 繊維産業も確立している。 化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。 一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。 製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。 農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。 エネルギー [ ] のオイルターミナルに接岸する 原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。 イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。 19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。 鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。 交通 [ ] イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。 2003年時点の総延長距離は2200 km。 旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。 イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。 バグダードと中央南部のを結ぶイラク初の鉄道路線()はドイツによって建設された。 バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年にから時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な製の高速車両が導入された ()。 一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 うち65万台が乗用車 に留まる。 舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。 貿易 [ ] イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。 2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91. 同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。 輸出品目別では、原油83. 食品に分類されている品目はほとんどがである。 輸入品目別では、機械73. 貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18. イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。 ただし、相違点もある。 輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98. 結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。 製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5. 貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。 2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。 輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。 も存在していたが、建国に伴うの高まりとの気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。 ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。 各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。 それ以外の地域にはアラブ人が分布する。 気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。 また、を逃れたイラン人がイラク中部の ()と呼ばれる町に定住している。 イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。 イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。 1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。 マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。 アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。 マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。 まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。 夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。 スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。 各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。 マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。 まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。 スイギュウの餌もアシである。 南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。 コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。 マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。 また、にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。 そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。 言語 [ ] 詳細は「」を参照 、が公用語である。 2004年の改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。 その他、や アッシリア語 なども少数ながら使われている。 書き言葉としてのアラビア語 は、アラブ世界で統一されている。 これはコーランが基準となっているからである。 しかし、話し言葉としてのアラビア語 は地域によって異なる。 エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。 イラクで話されているのはである。 ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。 教育 [ ] 詳細は「 ()」を参照 イラクにおける教育制度は、伝統的なを学ぶ学校に始まる。 イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。 現在の教育制度は1978年に改訂され、が6年制となった。 教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。 国立以外の学校は存在しない。 1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。 3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。 大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。 首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。 婚姻 [ ] 通常は婚姻時に改姓することはない が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。 宗教 [ ] の () 全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。 イラク国内では被支配層にシーア派が多い。 シーア派はの後継者・最高指導者 が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。 シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要な、、、などに分裂している。 イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。 シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。 すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのとである。 イスラム教スンナ派 [ ] スンナ派では、、、の4法学派が正当派とされている。 イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。 8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれた Abu Hanifa、699年-767年 は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。 バスラの () Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年 は、合理主義を標榜したに属していたが、後に離れる。 ムウタズィラ派がよくしていたカラーム 弁証 をもちいて論争し、影響力を低下させた。 同時に伝統的な信条をもつを創設した。 Al-Ghazali、1058年-1111年 は、であったがバグダードので教え、を発展させた。 「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。 アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。 後に、のを受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。 イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれの () al-Hasan al-Basri、642年-728年 が著名である。 バスラに住み、禁欲主義を説いた。 神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。 ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 につながっていった。 ヤズィード [ ] はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。 聖典はコーラン、、。 自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。 キリスト教 [ ] 1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。 最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。 アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつ に属する。 19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、の一つとなった。 マンダ教(サービア教) [ ] はに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。 はそのサービア教と同一視されてきた。 に付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。 ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。 古代において・に広く伝播した主義が原型と考えられている。 ユダヤ教 [ ] はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。 建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。 文化 [ ] ウード 奥 とバチ ウードの弦は複弦であり五コース~六コースのものが多い 伝統的なとしてに類似する、に類似するレバーブ、その他に似た、葦の笛、酒杯型の片面太鼓などが知られている。 ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。 現在の研究ではから栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、によれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。 最古のウード状の楽器の記録はごろのメソポタミア南部 イラク にまで遡る。 ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、の演奏に向く。 弦の数はかつては四弦で、これは現在においても地方において古形を見出す事が出来るが、伝承ではに あるいはズィリヤーブとも云う によって一本追加され、五弦になったとされる。 現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い 正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦~十一弦。 五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。 六コース目の最低音弦は単弦となる。 イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。 スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。 カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。 指で弦をつまんで演奏するであり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。 また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのはのと並び重要な地である。 それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。 その様子はにも一部描写されている。 時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。 バグダードにはイラーキー・マカーム マカーム・アル=イラーキー と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、などが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれる状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 または独特の音楽を持つ。 現代のイラク人は西洋の、、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。 世界遺産 [ ] ハトラの遺跡 の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたは紀元前3世紀、ハトラを建設した。 セレウコス朝が衰弱すると、の通商都市、宗教の中心地として栄えた。 2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。 ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。 226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はを名乗る。 アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。 その後、シュメールの南方に接していたの都市となり、を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。 が成立すると、その版図となり、古アッシリア時代の 前1813年-前1781年在位 は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたを再建している。 1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のはを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。 紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略したによって同614年に征服・破壊される。 アッシリア自体も同612年に滅びている。 その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。 アッシュールはドイツ人のフリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのに展示・収蔵されている。 祝祭日 [ ] 日付 日本語表記 現地語表記 備考 元日 イラク国軍の日 第14回ラマダーン革命記念日 主権回復記念日 建国記念日 平和革命記念日 第1月1日 イスラム元日 ヒジュラ暦第3月12日 ムハンマドの生誕祭 ヒジュラ暦第10月1日 断食月明けの祭 ヒジュラ暦第12月10日 犠牲祭 詳細は「 ()」を参照 イラクではフセイン政権時代前はやなどが国際試合を行っており、特にはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによるにより多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。 また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。 1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、アジア最終予選・対日本戦において試合終了直前に引き分けに持ち込み、日本のワールドカップ初出場の夢を打ち砕いた「」が挙げられる。 やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もで初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2019年10月. 2020年5月30日閲覧。 MSN産経ニュース. 共同通信. 2010年2月20日. の2010年3月3日時点におけるアーカイブ。 2011年1月10日閲覧。 日本経済新聞 電子版 日本経済新聞社. 2011年12月15日. AFPBB News 2011年12月16日• ロイター 2011年12月15日• CNN. 2011年12月27日. 2011年12月31日閲覧。 [ ]• 『』 2017年9月1日• 吉岡明子 2019年1月18日. 中東・イスラーム諸国の政治変動. NIHUプログラム現代中東研究・政治変動研究会. 2020年5月30日閲覧。 日本語. 2019年11月1日. 2020年5月30日閲覧。 Foreign Policy:(2007年6月16日時点の). GIGAZINE. 2007年6月19日. Alnasrawi, Abbas 1994. The Economy of Iraq: Oil, Wars, Destruction of development and Prospects, 1950—2010. Alnasrawi 1994 , p. 2014年3月24日. 2018年8月28日閲覧。 , March 2006. CIA Factbook. 2015年5月6日閲覧。 IRIN Middle East. IRIN 2006年10月19日. 2013年10月21日閲覧。 CIA. 23 October, 2015閲覧。 参考文献 [ ]• ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年• ほか 編 『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年• 編 『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年• ほか 監修 『新イスラム事典』平凡社、2002年• 、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002• 岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、• 『イラクの歴史』大野元裕・岩永尚子・大野美紀・大野元己・根津俊太郎・保苅俊行、〈世界歴史叢書〉、2004年。 Robert B. Clarke, PEOPLES OF THE EARTH, Vol. 17 Arab world, Tom Stacey Ltd. , 1973• Worldmark Encyclopedia of the Nations, Vol. 4, Thomson Gale, 2006• Demographic Yearbook, United Nations, 1990. Statistical Yearbook, United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002. 英のDavid ParfittのWebページ 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 イラクに関連する および があります。 には、 に関する旅行情報があります。 には、 に関する旅行情報があります。 (アラビア語)• (アラビア語) (英語) 日本政府• (日本語)• (日本語) その他• (日本語)• (英語)• - (英語)• (英語)•

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イラク ディナール すみれ

歴史 [ ] 現在のイラクにあたる地域が中にの占有・統治国家となって以降、公用通貨はであった。 それ以降はと1ディナール=2. 8ドルでペッグされたが、1971年から1973年にかけての実質的なドル切り下げには追従しなかったため1ディナールは3. 3778ドルに上昇、のちに1ディナール=3. 2169ドルとする5パーセントの切り下げを行った。 このレートは時まで維持されたものの、1989年末において闇レートは公式レートの6分の1に近い価格、1ドルが1. 86ディナールだったという報告がされている。 湾岸戦争終結後の1991年、経済制裁が加えられた結果それまで発注していたの印刷技術が使用できなくなり、新たに粗悪な発行紙幣が造幣された。 それまでスイスで製造されていた通貨は相当に上質な紙幣を造幣しており、スイスの印刷技術に由来してスイス・ディナール()の名で知られで流通が続いていた。 その一方で、新紙幣は政府による発行超過の状態に陥り、急速なディナール安をひきおこして1995年後半に1ドルが3000ディナールの価格にまで暴落していった。 2003年のによるの失脚後、とはマネーサプライを維持するため新通貨の導入が可能になるまでの暫定措置として戦前の紙幣を造幣していたが、2003年10月15日から2004年1月15日にかけてから「イラク全土で使用され、また国民の日常生活において使い勝手のよい単一統合通貨とするため」 に新イラク・ディナールの硬貨と紙幣が発行された。 このときスイス・ディナールをのぞく旧紙幣は等価で新紙幣に両替され、価値を保ち続けていたスイス・ディナールに対しては1スイス・ディナールが150新ディナールのレートで両替された。 この新紙幣導入後の価格は1ドルに対して4000ディナールだったところから一時は1000ディナールを割れるディナール高となった。 それ以降は比較的落ち着いた値動きをたどり、2009年以降、イラク中央銀行は為替レートを1ドルに対して1170ディナールとしている。 しかしながら、イラク・ディナールはいまだ国際為替レートに設定されておらず、国外銀行での両替も行われていない通貨である。 イラク・ディナールの取引に関するトラブル [ ] 本通貨を「米軍が撤退すれば貨幣価値はすぐに20~30倍になる」と、業者が消費者に高額 2. にてと、注意喚起を公表した。 標的は主に高齢者や過去になどの投資トラブルにあった消費者。 3695 日本円 JPY という相場からしても業者側が暴利を得ていることは明らかであるとし、勧誘に応じないよう呼びかけている。 硬貨 [ ] ディナール導入後は1931年と1932年に1、2、4、10、20、50、200フィルス硬貨が発行され、200フィルスは1として知られていた。 20、50、200フィルス硬貨はを用いて鋳造されており、のちの1953年には100フィルス銀貨が導入された。 イラク共和国成立後は1、5、10、25、50、100フィルス硬貨の新シリーズが導入され、25、50、100フィルス硬貨が1969年まで銀を用いて鋳造された。 1970年に250フィルス硬貨、1982年には500フィルス硬貨と1ディナール硬貨が導入された。 しかし、1990年を最後に全ての硬貨の鋳造を停止した。 2004年に25、100新ディナール硬貨が導入された。 詳細は以下のとおり。 2004年硬貨 額面 寸法 重量 構成 表 裏 25ディナール 17. 5mm 2. 0g メッキの イラク中央銀行、25ディナールの刻銘 イラクの概略地図 100ディナール 22. 0mm 4. 1931年から1947年は政府によって選定されたイラク通貨委員会から発行されており、紙幣はUKポンドに兌換ができた。 1947年から発行体がイラク通貨委員会からイラク国立銀行へと替わり、1954年からはがそれを引き継いでいる。 100ディナール紙幣は1940年代に造幣をいったん停止してから1978年になって再発行され、同時に25ディナール紙幣が新たに導入された。 その後は1991年に50ディナールと100ディナール紙幣、1995年に250ディナール紙幣、2002年に10,000ディナール紙幣が導入された。 1990 - 2002年紙幣 [ ] 1986年に発行された25ディナール紙幣、また1990年から2003年10月のあいだに発行された紙幣にはサッダーム・フセイン前共和国大統領の肖像が描かれている。 1991年の湾岸戦争以降、イラクの紙幣は地方部やで製造され、原料はやでなく低級な紙を使い粗悪なによって造幣された。 一部には原料に用いられたと思われる古新聞の形跡が残ったまま印刷された紙幣もあり、さらには本物の紙幣より上質なが出回ることも頻繁にあった。 また急落するディナールをよそに、しばらくのあいだ250ディナールが最高額紙幣として使用されていたが、2002年になって巨額取引、インターバンク取引での使用を想定した10,000ディナール紙幣がイラク中央銀行から発行された。 しかし一般市中においては偽札のおそれや略奪行為の元となる紙幣と広く認識されていたため、日常生活で使うには大量の250ディナール紙幣を持ち運ぶことが強いられた。 そのほかの小額紙幣は大部分が価値を失い、使われることはほとんどなくなっていき、これらによりたった1種の紙幣、250ディナール紙幣のみが広く流通するという状況を生んだ。 これらのデザインは1970年代、1980年代にイラク中央銀行から発行された紙幣のそれに類似している。 製造はイギリスのが手がけ、偽造対策には最新の技術がほどこされている。 2003年紙幣 画像 額面 主色 図柄 表 裏 表 裏 50ディナール 紫 バスラの穀物サイロ 250ディナール 青 サーマッラーの 500ディナール 青みがかった緑 のドゥカンダム アッシリアの人頭有翼牡牛像 1000ディナール 茶色 ディナール金貨 バグダードの 5000ディナール ダークブルー アリー・ベグ・ガリとその滝 ウカイディール宮殿 10,000ディナール 緑 モースルのハドバ・ミナレット 25,000ディナール 赤 小麦を束ね抱えるクルド人農婦 の彫像 脚注 [ ].

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