明智 光秀。 【刀剣ワールド】明智光秀は「天海」として生き延びた!?|日本史の珍説

明智光秀

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皆さんは「明智光秀が支配していた領地と、その石高(生産高)」を、ご存知でしょうか? 実は「光秀の領地」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。 この記事では「光秀がどこの領地を支配していたのか、その領地の石高はどれくらいなのか、動員できた兵力はどれくらいなのか」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。 今は「光秀の領地」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。 これを読めば、誰かに説明できるほど、「光秀が支配した領地」に詳しくなれます。 この記事を読んで、「明智光秀の領地と石高」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはあり ません。 明智光秀の支配した地域の「石高」と、「最大兵力」はどれくらい? 光秀が支配した領地の石高は、合計で「34万石」です。 1石につき米俵「2. 5俵」ですから、年間85万俵のお米が収穫できる計算になります。 また、この生産力を財源として、光秀はどれくらいの「軍団」「兵力」を持っていたのでしょうか? 光秀は「100石につき6人」の兵役を課していたので、「34万石」で「20400人」となります。 つまり光秀は「20400人」の軍をひきいていたことになります。 江戸時代に近づくと、兵役は「100石につき2. 5人」程度が当たり前になっていたので、光秀の「兵役」は2倍以上。 かなり重い兵役であることがわかります。 また、光秀には、信長から「与力大名」と呼ばれる「応援部隊」がつけられていました。 その与力大名の石高もあわせると、合計「240万石」。 これは、ライバル「羽柴秀吉」の「120万石」の2倍。 最大動員兵力は、「100石で6人」で単純に考えると、「144 , 000人」・・・。 おそらく現実には、これほどの兵力を動員できたわけではないと思います。 それにしてもこれだけの石高を任されていた「明智光秀」への「織田信長」の深い信頼度がうかがえます。 『明智光秀の領地支配』について「ひとこと」いいたい 光秀の領地支配は、「100石につき兵役6人」と、かなり重い兵役を課されていたと申しました。 しかし、光秀は領民を大切にする政治をおこなっていたようです。 「丹波」「坂本」では、今も領主であった「明智光秀」を慕う風習が残されています。 反逆者・謀反人であり、江戸時代を通じて「極悪人」として日本中に語り継がれた明智光秀。 しかしその領地では、名君「光秀」を祀る風習がつづき、今も人気を集めています。 「 」や「 」のように、圧倒的な強者に挑みかかって敗北した「光秀」に同情しているのかもしれません。 そうであったとしても、光秀の善政が民に慕われていただけは、確かなようです。 1,「明智光秀」の領地は「近江国・坂本」と「丹波国」、現在の「滋賀県大津市」と「京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部」にあたり、光秀は【11年】のあいだこの一帯を支配した 2,光秀の領地における「石高」は「34万石」。 年間「85万俵」の米が収穫できた。 最大動員兵力は「20400人」。 与力大名も含めると光秀の支配地域は、織田家でも最大の「240万石」となる 3,光秀の死後、居城「坂本城」は「羽柴秀吉」に支配され、「大津城」が築城されると廃城となった。 「丹波国」は「秀吉」が支配したあと、信長の弟「織田信包」や「谷衛友」が統治して、明治維新まで続いた。 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。 よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。 ありがとうございました。

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【美男戰國】明智光秀 1~13完 攻略

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明智光秀 十兵衛 諱の光秀は現在では馴染みのある名前ですが、諱は死者に贈る名前であるとして、光秀が存命当時、通常は通称の「十兵衛」の名前で呼ばれていました。 ) 戦国武将は、沢山の名前があってややこしいですね。 光秀の場合も同様で、元服するまでは幼名の彦太郎(ひこたろう)でした。 天正3年に朝廷より「惟任」 これとう と「日向守」 ひゅうがのかみ という官位を賜ってからは、光秀の正式な名乗りは、惟任日向守光秀になります。 光秀はこの肩書から、「惟任」 これとう 殿とも呼ばれていたようです。 明智光秀を簡単に説明 それでは、明智光秀はどのような人物か簡単に書かせていただきます。 享禄元年(1528年)、明智光秀は、 美濃の明智城主・ 明智光綱 あけちみつつな の子として生まれます。 しかし、光秀が幼い頃に父が亡くなったため、叔父・ 明智光安が明智家を支えたそうです。 弘治2年(1556年)、明智家の主君・ 斎藤道三 さいとう どうさん と道三の子・斎藤義龍との間で争いが起きます(長良川の戦い)。 この戦により、道三は亡くなり、道三に味方した明智家も攻められ、明智城は落城します。 明智一族は亡くなったり離散したとされています。 美濃を追われた光秀は、諸国を遍歴した後、越前・ 朝倉義景に仕えたと云われています。 また、朝倉義景の元に 足利義昭(あしかが よしあき)が身を寄せていた時期でもあるので、光秀とも面識があったようです。 足利義昭は、権威の失墜した室町幕府の再興を目指しており、将軍に就任すべく上洛を願っていました。 明智光秀は、足利義昭と織田信長の会見を仲介し、信長は義昭を擁して上洛を果たします。 織田信長 足利義昭の上洛には、光秀も加わっており、この時光秀は、義昭と信長、 両方の家臣であったそうです。 元亀元年(1570年)、以前の主君・朝倉家との戦である金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)には、信長方として出陣し、比叡山の焼き討ちにも従軍します。 こうした功績により、近江・ 坂本城主になります。 その後、織田信長と足利義昭は対立しますが、その頃には光秀は両方の家臣ではなく 信長だけの家臣になりました。 そして、信長と義昭の間で起きた戦に信長方として参戦し、信長方が勝利し、室町幕府は事実上滅亡します。 天正7年(1579年)、光秀は丹後国平定という偉業を成し遂げたことで、加増されて34万石を所領し、柴田勝家、羽柴秀吉ら信長の家臣の中でも織田家随一の重臣としての地位を確立します。 しかし天正10年(1582年)、本能寺の変にて信長と嫡男・織田信忠を自刃に追い込みます。 本能寺の変動機は定かではありませんが、織田家家中で織田家一族が重用されるようになり、光秀が危機感を抱いたとも、縁の深かった長宗我部元親が征伐されるのを防ぐためとも複数の説があります。 その後、本能寺の変からわずか11日後に山崎の戦いで 秀吉に敗れ、敗走中に自刃して果てます。 享年55歳。 明智光秀の略歴を補足 明智光秀を簡単に説明しましたが、特に、織田信長に出会う前の明智光秀の足取りは謎が多いです。 実は、生年、出生地、親が誰かすら諸説ある状態ですが、有力視されている説を記しました。 ですので、簡単に補足させていただき、気になる箇所があれば、詳しく書いた記事がありますので、クリックしてご覧ください。 簡単な略歴だけで良いという方は、ここまでで良いと思います。 光秀の父について諸説あり、中には明智家の生まれではないとする説もあります。 一番有力なのは、 みつつな 父説がで、母は まき です。 明智光綱の嫡男だとすれば、光秀は名門・の庶流・明智家の出自です。 出身地地は、岐阜県 美濃 、、、など5か所以上も候補地が挙がっています。 またも不明です。 若い頃、に巻き込まれ、は落城しますが光秀は明智家の再興を目指し逃げ延びます。 一家離散と云われていますが、従兄弟説のあるは、光秀と行動を共にしていたと伝わります。 その後、は、疑問視されていました。 しかし、最近新たな史料が発見され、越前・の家臣説は真実味帯びてきました。 朝倉義景 また、その新たな史料によると、光秀が越前にいた頃にと考えられる記述があり、美濃を追われ牢人 浪人 時代に牢人医師をしていたのではないかとする説もあります。 生活費の足しにしていたそうですが、越前にいた頃は貧しく、お金に苦労した話は妻・ ひろこ の逸話からも伝わっています。 越前では朝倉義景の家臣 又は身を寄せていた だったようですが、後に義景の元を離れます。 一説には、を擁して上洛をしない朝倉義景に愛想をつかしたとも云われています。 その後、足利義昭と織田信長両方の家臣になり、後に織田信長だけの家臣になったそうです。 足利義昭とも関わりのあった光秀ですが、本能寺の変の動機は義昭を天下人に据えるためとする説もあります。 足利義昭 信長と出会った頃から光秀の足取りが見えてくる史料がありますので、現在の通説は史実に近いものかもしれません。 しかし、光秀を引き立ててくれた信長を討った本能寺の変については謎だらけです。 など動機は様々囁かれていますが、動機は一つでなく、複合的なものであったのではないかと推測しています。 その中でもは、本能寺の変の一因に思っています。 また、裏切り者のイメージのある光秀ですが、など光秀が治めた地では、現在も慕われており、善政を敷いた良心的な光秀像が思い浮かびます。 光秀の最期は、秀吉に敗れ坂本城で落ち延びる途中です。 通説の農民の竹槍によって重症を負ったとする説には違和感がありました。 光秀ほどの武将を武装した農民が、しかも 竹槍でですよ…。 光秀亡き後、明智秀満 明智左馬助 、(あけち みつただ)、(みぞお しげとも)、、など重臣達も自害したり、捕まったりし果ててしまいます。 光秀は敗軍の将ですので、信頼のできる史料が少ない人物ですが、大河ドラマの効果でしょうか、少し研究が進みましたね。

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明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

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細川ガラシャと細川忠興の銅像 しかし平穏な日々は続きませんでした。 父・光秀の謀反、 本能寺の変が起きると玉子 珠 の運命は一転してします。 玉子 ガラシャ は「謀叛人の娘」となり、丹後国の味土野 みどの (京都府京丹後市弥栄町)で幽閉生活を強いられることになります。 後に、羽柴秀吉の執り成しにより、細川家の屋敷に戻ることができましたが、夫・忠興との間には溝ができてしまったようです。 拠り所を求めたのか、 キリスト教の教えに触れたガラシャは、キリスト教に魅かれていきます。 そして、洗礼を受けて ガラシャという洗礼名を名乗ります。 後に、天下人・豊臣秀吉が亡くなるとガラシャに危機が訪れます。 徳川家康らと石田三成らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発する寸前になっていました。 夫・忠興は徳川家康方につき、留守にしていた時に、石田三成がガラシャを人質に取ろうと細川屋敷を包囲します。 ガラシャに人質になるよう迫りますが、ガラシャはこれを拒絶し、壮絶な最期を遂げ亡くなります。 戦国時代ではありますが、悲しい運命となってしまったガラシャ。 このガラシャの悲運は、戦国の悲惨さを伝える話として知られています。 それでは、ガラシャと光秀両方の子孫をまず紹介します。 光秀の孫、ガラシャの子・細川 忠隆 ガラシャと細川忠興の長男 光秀の孫 は、 細川忠隆(ほそかわ ただたか)といい、前田利家の娘・千世を正室に持ちます。 母・ガラシャが壮絶な死を遂げた時、長男・忠隆(ただたか)の妻・千世は、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の屋敷に逃れ事なきを得ます。 千世の姉が宇喜多秀家の正室で、姉の指示で宇喜多屋敷に逃れたようです。 宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで石田方についた代表的な大名です。 しかし、関ヶ原の戦い前後の頃は、忠隆が後継ぎと見なされていたようです。 その後、妻・千世が実家の前田家に逃れた為とも、徳川家が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていなかったためとも伝わりますが、父・忠興は忠隆に千世との離縁を迫ったと伝わります。 しかし、忠隆は離縁に納得できませんでした。 父の命令に従わず 廃嫡されてしまいます。 そして、出家して長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号し、祖父・細川幽斎の助けを得て暮らします。 その後、千世の実家である前田家の援助も受けられず、千世とは結局離縁することになってしまいます。 ) 忠隆は後に、継室・喜久を迎え、後に父・忠興と和解したと伝わります。 光秀の曾孫、ガラシャの孫・長岡忠春と子孫 次は、只今お話した細川忠隆 ガラシャの子 の子供、子孫の話です。 細川忠隆と継室・喜久との間に、忠恒 ただつね 、 忠春 ただはる という男子がいます。 二人は熊本藩主・細川光尚 みつなお の招きにより、 熊本藩の一門家臣になります。 (細川光尚も細川ガラシャの孫で、熊本藩主の系譜です。 ) 忠春の子・忠季 ただすえ 別名、忠重 は、内膳家と言われ、代々、熊本藩の一門家臣首座に列したとされます。 長岡姓を名乗っていたため、長岡内膳家 細川内膳家 と言われ6,000石を得て、明治時代に細川姓に復し、光秀の血脈を現代に伝えています。 内膳家の家紋は、細川家の 細川九曜紋の他に、裏紋として明智家の血統を意味する 土岐桔梗紋を使用しているそうです。 土岐桔梗紋 また、忠春の正室はガラシャが亡くなった時に、介錯を務めた細川家の家老・小笠原秀清(おがさわら ひできよ)の孫にあたる長之の娘・三です。 では、明智光秀の曾孫で、細川ガラシャの孫である長岡忠春の系譜を記します。 その藩校の初代総長に、忠春 ガラシャの孫 の曾孫に当たる細川内膳家当主・長岡忠英 ただふさ が務めます。 (熊本藩主・細川重賢も光秀、ガラシャの子孫です。 ) また、政治評論家で 元衆議院議員の細川隆元氏(ほそかわ たかちか)や、その甥の細川隆一郎氏(ほそかわ りゅういちろう) 政治記者、評論家 は、忠隆の子孫で、光秀やガラシャの子孫でもあります。 そして、細川隆一郎氏の娘の細川珠生氏(ほそかわ たまお )は、政治ジャーナリストであり、キリスト教の信者で洗礼名は ガラシャとのことです。 細川ガラシャの本名は細川玉子 珠子や玉とも ですので、細川珠生氏は、ガラシャと一字違いで、洗礼名のガラシャは同じですね。 因みに、細川隆一郎氏の兄に新京成電鉄会長、二人の父の細川隆志氏は、東京電力取締役を務めた輝かしい経歴の一家です。 光秀の曾孫、ガラシャの孫・徳と子孫 細川忠隆と千世の娘・ 徳 ガラシャの孫 は、西園寺実晴(さいおんじ さねはる) 左大臣 の正室になり、西園寺公満(さいおんじ きんみつ)を生みます。 そして、孫・西園寺実尚(さいおんじ さねなお)にも恵まれますが、西園寺実尚には実子がなく叔父が相続したため、西園寺家での光秀の子孫は途切れます。 ですが公家の西園寺家、血脈は高貴な家に広がります。 西園寺公満の娘は、久我 通名(こが みちな)の正室になり、 広幡豊忠(ひろはた とよただ)を生みます。 豊忠の養父・広幡忠幸(ひろはた ただゆき)は、 旧皇族であり、従一位(じゅいちい)・内大臣の官位を持ち、跡を継いだ豊忠も従一位・内大臣になる人物です。 この広幡豊忠から、 孝明天皇(こうめいてんのう)へ繋がり今上天皇へ辿り着きます。 今上天皇は、明智光秀、細川ガラシャの子孫だったということになります。 また最初の正室・千世は、前田利家の娘ですので、今上天皇は前田利家の子孫でもあります。 細川 忠利 肥後熊本七代藩主・治年 はるとし の代まで、光秀の子孫でしたが、治年に実子がなく斉茲(なりしげ)を養子として迎えたため、細川本家での光秀の血脈は途絶えることになります。 光秀、ガラシャの子孫・熊本藩主の系譜は以下の通りです。 しかし、肥後国熊本藩4代藩主・細川 宣紀(ほそかわ のぶのり)の娘・八代は、讃岐高松藩 香川県 の第5代藩主・松平 頼恭(まつだいら よりたか)の正室となり子孫は明治まで続くなど、光秀とガラシャの血脈を継ぐ細川家の血脈は広がりをみせ繁栄します。 肥後細川家の第18代当主・細川護熙氏 細川護熙総理 出典元:Wikipedia 第79代 内閣総理大臣である細川護熙(ほそかわもりひろ)氏は、肥後熊本藩主の子孫で、肥後細川家の第18代当主であるといいます。 系図上は肥後熊本藩主の子孫にあたりますが、光秀とガラシャの子孫ではありません。 先に述べたように養子を迎えていますので、光秀とガラシャの血筋としては途絶えています。 ただ、細川護熙氏の祖母・細川博子氏が光秀の血を引いているため、光秀の子孫とする説もあるようですが、定かではありません。 私なりに調べてみましたが、この説は、仙台藩第5代藩主・伊達吉村(だて よしむら)の正室である冬姫が、光秀の子孫であったらという前提があると思います。 冬姫の父は久我通名(こが みちな)であり、正室は光秀の血を引く西園寺公満(さいおんじ きんみつ)の娘ですが、冬姫の生母は側室の松向殿と伝わっています。 ですので、冬姫から光秀の血筋か伝わったということなら、細川博子氏が光秀の血を引くというのは、個人的な見解としては誤りだと思います。 ですが、冬姫以外のところで、光秀の血が入っている可能性もあるため、「定かではない」とさせていただければと思います。 光秀の孫、ガラシャの娘・多羅と子孫 ガラシャの娘・多羅 たら は、豊後国 ぶんごのくに 臼杵藩 うすきはん 大分県 3代藩主・稲葉 一通(いなば かずみち)の正室になります。 そして、豊後国臼杵藩の第4代藩主・稲葉信通(いなば のぶみち)を生みます。 稲葉信通の正室には、織田信良 のぶよし の次女・光浄院を迎えます。 織田信良とは、織田信長の次男・信雄 のぶかつ の四男ですので、信長の曾孫に当たる方です。 光秀の曾孫が信長の曾孫を娶ったことになります。 後に信通は、正室に先立たれたようで継室を迎えますが、継室にも織田信良の三女・天量院 信長の曾孫 を迎えています。 意外な戦国武将の子孫同士の結婚ですが、他の武将の系譜を見ても孫、曾孫あたりから和解してるかのように結婚してたりしますね。 その後も光秀とガラシャの子孫は続きます。 そして、豊後国臼杵藩の第7代藩主・稲葉恒通(いなば つねみち)の娘は、公家の勧修寺顕道の正室となり勧修寺経逸(かじゅうじ つねはや を生みます。 勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の娘・ 勧修寺 婧子(かじゅうじ ただこ)は、光格 こうかく 天皇の典待 てんじ となり、 仁孝 にんこう 天皇を生み、今上天皇まで受け継がれているそうです。 仁孝天皇 この系譜からも今上天皇に繋がります。 では、明智光秀と細川ガラシャの子孫の系譜です。 ですが、私が調べた限りでは、松平時章の息子・平松時門の正室になった娘・筭がいるようです。 その本によると松平時章との間にできた娘が、有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の側室になり、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)、喬子女王(たかこじょおう)、吉子女王(よしこじょおう)の母となった旨の記載があります。 喬子女王 たかこじょおう は、第12代将軍・ 徳川家慶(とくがわ いえよし)の正室になる方です。 そして、吉子女王は、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の正室になり江戸幕府最後の将軍である、第15代将軍・ 徳川慶喜 とくがわ よしのぶ を生んだことは史実とされていますが、本当に光秀、ガラシャの子孫であるかは疑問が残ります。 調べてみると、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の母は家女房、つまり使用人です。 一方の、喬子女王(たかこじょおう)の母は「高木敦子」、吉子女王の母は、「家女房安藤清子」となっています。 「家女房」と「家女房安藤清子」が同一人物である可能性があると思いますが、「高木敦子」は流石に別人ではないでしょうか…。 また、光秀の血を引く勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の娘が松平家に入ってできた娘なのに、名前が「安藤」や「高木」なのも引っかかりますね。 当時の方は、名前が複数あることは珍しくないので、全員同一人物である可能性もありますが…。 系譜は辿れませんし、本に出典元の記載もないので、信頼できる情報か疑問に思っています。 本に紹介されていた通り、「 第15代将軍・徳川慶喜は、明智光秀の子孫だった!?」となれば、とても興味深い話ですが…、少なくても定説にはなっていませんね。 光秀、ガラシャの子孫・勧修寺経逸の子供達 いずれにせよ、勧修寺経逸 かじゅうじ つねはや の子供達は、公家に嫁ぐなど華麗なる一族という感じです。 勧修寺 徳子(かしゅうじ なりこ) 光秀の子孫 は、姉で仁孝天皇(にんこうてんのう)の生母である婧子の縁により、仁孝天皇の典侍になります。 そして、後の徳川家茂 とくがわ いえもち の正室である和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)など、皇子・皇女の養育に努めたといいます。 勧修寺経逸の娘・吉子 光秀の子孫 は、仁孝天皇、孝明天皇(こうめいてんのう)に仕えた公家である、堀河 康親(ほりかわ やすちか)の正室になります。 堀河 康親は、明治維新に尽力したの公家の政治家でとても有名な 岩倉 具視(いわくら ともみ)の実父に当たる人物です。 岩倉 具視の系譜が凄いですが、堀河 康親の子供達の生母がはっきりしていないようです。 勧修寺吉子以外の妻 側室 がいたとは伝わっていません。 なので、岩倉 具視の生母が、光秀とガラシャの子孫の勧修寺吉子となれば、面白いと思います。 解明されて欲しいものです。 明智光秀の娘婿・津田信澄と子孫 明智光秀の娘を妻に迎えた人物として、定説ではないですが、 津田信澄(つだ のぶずみ) 織田信澄 が挙げられます。 光秀の娘婿説を採用する専門家もいますので、娘婿であったとして子孫を追ってみました。 まず、津田信澄とはどのような人物であったかというと。 津田信澄の父は、織田信長の弟である織田信行(おだ のぶゆき) 織田信勝の名前で知られています)です。 しかし、父は兄・信長と家督を巡り争い、信長に滅ぼされてしまいます。 信澄は信行の嫡男ですので、信長に滅ぼされたり、出家を命じられてもおかしくありませんでした。 ですが、信長は信澄を遇しました。 信長の命令で柴田勝家に養育され、やがて信長の右腕と言われる位に力を発揮し、信長の子供の次に遇された人物であったと伝わります。 ですが、本能寺の変が起こると光秀の娘婿である為、光秀と共謀したと誤解され織田信孝 おだ のぶたか 信長の息子 らに襲撃され討ち取られてしまいます。 光秀と津田信澄の子孫 信澄の嫡男は、織田姓に復して織田昌澄(おだ まさずみ)と名乗ります。 昌澄は藤堂高虎 とうどう たかとら に仕えた後、豊臣秀頼に仕え大坂の陣に出陣します。 ですが豊臣家は敗北します。 織田昌澄は、豊臣家の滅亡と自身の敗北により、死罪を懇願したと伝わります。 ですが、藤堂高虎の執り成しにより助命され、やがて徳川家の旗本になります。 明智光秀の本を出版した明智憲三郎氏 「本能寺の変 431年目の真実」などの著書で知られている 明智憲三郎(あけち けんざぶろう)氏は、明智光秀の息子である 於寉丸 おづるまる の子孫であると伝わるそうです。 於寉丸は、本能寺の変の後、死亡したとも名を変え生き延びたとも言われています。 ですが、明智憲三郎氏によると京都山城 やましろ に匿われ、神官の子として育てられたそうです。 以後、逆賊・明智姓ではなく明田 あけた 姓を名乗ったそうですが、明治の世になり明智姓に復したそうです。 光秀の直筆の短冊、明智家家臣の高禄台帳、系図なども伝来していたそうですが、関東大震災の時に消失してしまったそうです。 明智憲三郎氏は、明智姓のため幼少期に辛い出来事も経験されたそうで、本能寺の変の真実を知りたいと思うようになったそうです。 そうして、慶應義塾大学大学院を経て、三菱電機株式会社に入社し、後に株式会社第一情報システムズ常務取締役を務め、会社に勤めながら本能寺の変の研究や調査を続けているそうです。 明智姓に復す時に「曾祖父が伝承品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯」があるとのことで、伝承品が光秀ゆかりの物であると認められたということでしょうか。 明智光秀の子孫である可能性は高かそうですが、於寉丸 おづるまる 自体の存在に懐疑的な専門家もいらっしゃり、定説には至っていないようです。 母方の祖母から、「あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされて育ったそうです。 以前、TBSのバラエティー番組「7時にあいましょう」で調査を依頼し、明智光秀の子孫である可能性があることが分かったそうです。 クリス・ペプラー氏の母方の姓が「 土岐」氏であり、家紋も土岐氏の「土岐桔梗」であるといいます。 明智光秀は、土岐氏の分家であると伝わりますが、明智光秀と土岐氏については、こちらの記事にまとめています。 👇 クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」は、美濃国の守護大名であった土岐頼芸(とき よりのり)の系図の最後に記されており、菩提寺も一致しているそうです。 土岐頼芸(とき よりのり)は、清和天皇の子孫である清和源氏 せいわげんじ の嫡流とされ、美濃の守護を200年務めた名門です。 ですが、戦国時代の下剋上により、重臣であった斎藤道三 さいとう どうさん によって、土岐頼芸は美濃を乗っ取られ追放されてしまいます。 詳しくはこちらの記事に記載しています。 👇 クリス・ペプラー氏の高祖父と伝わる「土岐頼敬」が、土岐氏であることは間違えなさそうです。 ですが、光秀と同族であっても光秀の子孫とは言えないのではないか、という疑問がでてきます。 つまり、明智光秀は土岐氏の一族と云われていて、クリス・ペプラー氏は土岐氏を祖先に持つらしいです。 ですが、 「土岐氏の子孫」イコール「光秀の子孫」とは限らないと思うのです…。 その件について、歴史研究家で光秀の子孫と伝わる明智憲三郎氏の見解があります。 土岐頼芸の後を継いだ土岐頼次(とき よりつぐ)の長男 次男とも の頼勝が、落ち延びた光秀の実子ではないか!?という仮説をたてていたそうです。 光秀の実子が土岐頼勝に名を変え、土岐家の家督を継いだ!?というものだそうです。 ロマンのある話ですが、立証するものがなく何とも言えませんね…。 結論は、クリス・ペプラー氏は、土岐氏の子孫であると考えられ、明智光秀の子孫である可能性はあるものの、断定も否定もできないという感じのようです。 クリス・ペプラー氏がテレビで仰っていましたが、年に1~2回明智の子孫が集まる「明智の会」があるそうです。 土岐頼芸については、こちらに詳しく書いています。 ですが、明治時代の小説家が書いた坂本龍馬の 伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』が出典元とする説が有力です。 子孫である根拠とされるものを記します。 ですが、元々、龍馬は「丸に田紋」を使用していて、途中から「桔梗紋」に変えたそうです。 何故、「桔梗紋」に変更したのかは不明とのことです。 また、明智家や土岐家も「桔梗紋」を使用していましたが、「桔梗紋」を使用する武家は珍しくない為、根拠として弱いですね。 これは、こじ付けというか…、根拠にならないですね。 明智光秀の娘を娶ったとされ、一説には、明智光秀の従兄弟 いとこ 説もある人物です。 明智左馬之介 明智秀満 が落ち延びて、土佐 とさ 龍馬生誕の地 の 長宗我部元親 ちょうそかべ もとちか を頼り土佐に定住し、その子孫が坂本家になったという伝承があるそうです。 長宗我部元親の正室は、光秀の家老・斎藤利三 さいとう さんり の縁者であるとされ、光秀の縁者を匿う可能性はあると思います。 光秀との仲も深く、本能寺の変の遠因に長宗我部元親を守る為だったとも云われる位です。 詳しくはこちらです。 また、明智左馬助の子供に三宅重利(みやけ しげとし)という人物がいるようです。 母は明智光秀の娘とも云われますが、光秀の血を引いていないとする説もあり、定かではありません。 山崎の戦い後細川家に保護され、天草の乱で亡くなったそうです。

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