いん けい あ なら いざ。 けいざん

韓国語で絶対に使ってはいけない超危険な単語20選!

いん けい あ なら いざ

瑩山禅師の略歴 瑩山禅師の略歴 けいざんぜんじ 大本山総持寺 総門 日本曹洞宗太祖瑩山禅師(1268-1325)《諱(いみな)は紹瑾(じょうきん)》は高祖道元禅師の法孫であります。 鎌倉時代の文永5年(1268)10月8日(陽暦11月21日)越前多禰(福井県武生市帆山町)の豪族瓜生氏の邸でご誕生。 幼名は行生(ぎょうしょう)と名付けられました。 母の観音信仰は深く、妊娠後には観音を念じて毎日333拝を続けられ、「観音経」を毎日33巻を読誦してお腹のなかの子供の成長を願ったといわれます。 そして、出産の時には「この子が世間の為に役立つものならば無事に生ませていただきたい。 そうでないならばこのまま流産させていただきたい」と祈願されたと伝えられています。 かくして母37歳の時にご誕生されたのが、瑩山禅師でありますからまさしく禅師は観音の授け子とも申されるのであります。 大師は信仰深い母の元で慈愛に満ちて育ちました。 母の信仰深い姿を見て、幼少の頃から宗教心に目覚められ、六歳の頃には出家の志を固められたといわれます。 父母に出家を願い出ますが許されず、絶食をしてその決意の堅さを示し、8才の春4月8日両親の許しを得て永平寺に登って沙弥(雛僧)となりました。 弘安3年2月18日13歳の時、義介禅師のすすめに従い永平寺二世孤雲懐奘禅師について得度授戒し、正式に僧侶となり名前を紹瑾(じょうきん)と改められます。 弘安3(1280)年8月24日老病の身でありました孤雲禅師が83歳で入寂されると、遺命を奉じて再び永平寺三世義介禅師に師事、ひたすら修行に励まれるのです。 けれども、三代相論で騒がしい永平寺での修行環境はふさわしくないとされたのでしょうか、18才になられた大師はそれまでの禅僧にならい、諸国行脚の旅へと旅立たれるのです。 まず、宝慶寺(福井県大野市宝慶寺町)寂円和尚に参じられます。 寂円和尚は道元禅師と共に天童山の如浄禅師に参じられた方で道元禅師を慕って来日された中国僧です。 寂円和尚の指導は厳しかったのですが不退転の決意で仏道修行に励まれるのです。 宝慶寺を辞した大師は京都に上り、万寿寺の東山湛照や、東福寺の白雲慧暁など、臨済宗の密教的禅風を学ばれました。 また比叡山に登って天台の教観を究められ、紀州(三重県)の興国寺の法燈国師覚心に相見し、その禅法に参じられました。 21才の秋、越前に帰り再び宝慶寺の寂円禅師に参じられます。 正応2年の春、永平寺での住職後継にからむ内紛を避けようとの、義介禅師に従い加賀の国 《大乗寺》(金沢市長坂町)に移られます。 大師22歳のある日『法華経』を看読中「法師功徳品」の「父母所生眼、悉見三千界」(父母所生の眼をもって、悉く三千界を見る)の句で仏法の核心にふれられたと伝えられます。 意味するところは、父母が生んでくれた仏眼をもって、この世界のすべてのものを悉く真実の相として達観するということであります。 けれども義介禅師はその禅の境界はなお不十分とたしなめられます。 大師はさらに修行に励まれるのです。 かくして数年を経た永仁2年秋、27才の時、義介禅師の上堂語の「平常心是道」(びょうじょうしんぜどう)の説法を聴き、「道」の本義を了畢されるのです。 瑩山さまはさっそく義介禅師の室に赴かれ「我れ会せり」(仏法がわかった)と申された。 師匠は「汝如何が会すと(どのようにわかったのか)」問われると、瑩山禅師は 「黒漆(こくしつ)の菎崙(こんろん)、夜裏に走る」と。 黒光りする真っ黒いものが真っ暗闇の中を走るようなもので分別無しの絶対の境地であると呈せられましたが、師匠はまだこれを許さずに「未在、更にいえ」(別の言葉で更に申してみよ)と迫られるのです。 分別無しの絶対の境地とは大虚の如く、どこまでも澄み渡っていることです。 この境地を具体的に更に言ってみなさいと問われます。 すると瑩山禅師は 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えられました。 すると徹通義介禅師から「爾、超師の機あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」と言って印可を与えられ、仏の大法を相続されるのです。 28才阿波国(徳島)の郡司に請せられて城満寺に晋住されます。 また、九州肥後(熊本県)川尻の大慈寺寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を訪ねられ道情を温められます。 寒巌義尹禅師は順徳天皇の第三皇子で、道元禅師に参じられ孤雲禅師の法を継がれた禅師さまです。 正安元年(1299)義介禅師の願いもあり加賀に戻られます。 32才のとき義介禅師に嗣法し、法衣を伝授され、大乗寺最初の首座となります。 正安2(1300)年正月から義介禅師に代って、釈尊以後52列祖の機縁の語話を提唱されました。 これが、今日に伝えられる 『伝光録』です。 正安4年 1302 瑩山禅師35歳、義介禅師は自ら退鼓をうち、禅師に大乗第二世の席を譲られるのです。 会下に、明峰素哲(めいほうそてつ)、無涯智洪(むがいちこう)、峨山紹碩(がさんじょうせき)等が参集し、ここに大乗寺は一躍天下の大叢林となりました。 禅師の深い思想をあらわされた 『信心銘拈提』は大乗寺開会中の垂示です。 そして応長元年まで大乗寺などを中心に規矩の充実、接化につとめられ、『坐禅用心記』『三根坐禅説』などを著わされます。 その間加賀(金沢市長土塀)浄住寺を開かれます。 浄住寺は禅師の父の菩提をとむらうため創建されたもので、禅師入山前は母が仏事供養を行じられていた寺であります。 正和元年(1312)信濃の海野三郎滋野信直夫妻、能登中河の地頭酒匂頼基あるいは大乗寺の檀越加賀の藤原家方などが、能登国酒井保の山地および建造物の寄進の縁によりて、大乗寺を明峰素哲に、浄住寺を無涯智洪にゆずって当地に赴き、正和2年(石川県羽咋市) 《洞谷山永光寺》 (とうこくさんようこうじ)を開創するに至ります。 永光寺の命名由来として、禅師は「予は洞山高祖16世の法孫なり。 故に彼の家風を慕う。 山名を洞谷となし、山を改めて谷となすは、曹渓を転じて曹山となすが如し」、また「大陽高祖(大陽警玄)11代の法孫なり。 故に大陽の盈目を慕い永光寺と号す」と「洞谷記」に記される如く、大いに宗風を宣揚されたのであります。 このようにして永光寺は漸次隆昌し、遂に「諸人善根の山、一切功徳の林」といわれるようになりました。 正和3年光孝寺を開かれたころには、瑩山禅師の名声はつとに高まりました。 元応2(1320)年、後醍醐天皇は各宗の高僧碩徳に対し、仏教について諸種の疑滞を下問された。 瑩山禅師の道風頗る明晰、深く御意にかない、勅して紫衣を賜わります。 翌元亨元(1321)年、永光寺を以て、曹洞宗の出世道場に補し、且つ勅願所と定められたという。 翌年檀那金吾朝定の寄進により仏殿が建立され、元亨三年開山堂、元亨四年法堂と、永光寺の伽藍が整いました。 瑩山禅師54歳の頃、総持寺開堂の端夢を感じられ、能登鳳気志郡櫛比庄、行基菩薩が建立された真言律宗諸嶽寺(しょがくじ)の院主定賢律師(じょうけんりっし)の招請によって当地に赴き、律院を改めて諸岳山総持寺(しょがくさんそうじじ)と名付けられました。 禅師の評判は高まり、元亨元年(1321)後醍醐天皇の十種勅問(ちょくもん)に丁寧に答えられ、これにより 《総持寺》の勅額を賜り、翌元亨2年8月28日、日本曹洞紫賜出世道場の論旨を受け、ここに永平寺とともに、総持寺を本寺とする 曹洞宗が公称されるようになったのです。 禅師の道誉益々朝野に普ねく、四方皆その徳風を仰ぐことになるのであります。 その後、長谷部一族の庇護なども加わり、元亨4(1325)年、僧堂が開単され伽藍の規矩がほぼ整います。 そして禅師自ら「総持寺十箇条亀鑑」を制定し、永く法孫の遵守すべき洪範とされたのであります。 総持寺が基本道場としてなしえた同年7月には法席を峨山紹碩に譲って退院し明峰素哲を伴って永光寺に帰山されるのです。 永光寺における晩年は、伽藍を整備するとともに、『能州洞谷山永光禅寺行事之次序』を撰述されます。 これが後に、「洞谷清規」といい、また一般には「瑩山清規」といわれるものです。 一方「洞谷山勤行條文」および『洞谷山尽未来際置文』などを著述し、禅院の日課及び運営にも細い配慮を示されました。 既に仏殿も建立され禅院としての規模もととのえられていましたが、禅師は更に法の象徴としての根本道場たる伝燈院を建立されるのです。 則ち、元亨3年(1323)4月に永光寺の奥に「伝燈院五老峰」の地を選び堂宇を建てられました。 《五老峰》とは、天童如浄禅師、永平道元禅師、孤雲懐奘禅師、徹通義介禅師、そして瑩山紹瑾禅師の祖師堂のことです。 ここに、如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師と瑩山紹瑾禅師自身の嗣書(ししょ 仏法を受け継いだ証明書)を安置されたのであります。 そしてこの年、九年前に亡くなった母懐観大師の為に円通院も建立されます。 本尊は母堂懐観大師の念持仏であった十一面観世音菩薩でありました。 「円通」とは観音菩薩のさとりのことであります。 宗門寺院では参禅が第一義には違いありませんが、在家化導には観音信仰などの信仰を併用することによって信徒の宗教安心と寺門の護持を計られた点もあろうかと思いますし、観音信仰が参禅と比して次元の低いものというものではなく、道元禅師・瑩山禅師の両祖は禅の第一義に基づいた観音観を示されておられるのであります。 瑩山禅師はこれらの規矩を以て門弟の育成、曹洞禅の民衆化、在家の教化などを続けられたのです 総持寺の伽藍造営が進んだ正中元年(1324年)、総持寺住職をもう一人の高弟峨山韶碵に譲り、永光寺に移られます。 翌年(1325)年八月初旬、病をかんじられた禅師は明峰素哲に御住を託し、同月8日永光寺を明峰素哲に譲り晋山上堂せしめられるのです。 そして9月28日、釈尊の、また道元禅師の入滅にならって、諸弟子を集めて最後の教誨を示されるのです。 同月29日、己の刻に垂(なんな)んとして、俄かに鐘を鳴らし、大衆を方丈の妙荘厳院に集めて、示衆し、次で 「自ら耕し、自ら作る閑円地。 幾度か売り来り、買い去って新たなり。 限りなき霊苗種熟脱、法堂鋤を挿む人を見る」と遣偈し、大いなる生涯の幕を閉じられたのであります。 時に世寿58歳でありました。 遺骨は永光寺の他、大乗寺、浄住寺、総持寺の三箇寺に分配されました。 その得法の門人は明峰素哲、無涯智洪、峨山紹碩、壷庵至簡、孤峯覚明、珍山源照等伝戒の弟子は数多おられます。 又、尼弟子は黙譜祖忍、忍戒、金灯恵球、明照等があげられます。 御村上天皇は仏慈禅師の号を賜い、後桃園天皇は「弘徳円明国師」の号を送られ、明治天皇は「常済大師」の号を追認されました。 能登の大本山総持寺は、明治31年(1898)4月13日、大法堂から火災が起こりほとんどが烏有に帰したのです。 直ちに再建の企画がなされるのですが、宗門内部から本山を東京に移すべき誓願が出されました。 明治38年(1905)独住第四世石川素童禅師が小田原の最乗寺から貫首位に着任なされてからは、積極的に大本山移転の建議がなされるのです。 以来、「禍を転じて福と為す」大偉業たる移転遷祖式を行ったのは、明治44年(1911)11月5日のことでありました。 同時に、能登の祖廟を大本山総持寺祖院とし、復興の大業が進められたのであります。 横浜市鶴見にある大本山総持寺は、太祖大師が浄苑を開創されてより、660余年、総持寺が鶴見の地に移転してから70余年の歳月を経ています。 曹洞宗大本山総持寺は福井の大本山永平寺と共に、大本山の偉容をととのえ、太祖大師の法灯を伝え、広く男女・僧俗を選ばず国際禅苑としての巍然たる堂閣を構えています。

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いざこい

いん けい あ なら いざ

瑩山禅師の略歴 瑩山禅師の略歴 けいざんぜんじ 大本山総持寺 総門 日本曹洞宗太祖瑩山禅師(1268-1325)《諱(いみな)は紹瑾(じょうきん)》は高祖道元禅師の法孫であります。 鎌倉時代の文永5年(1268)10月8日(陽暦11月21日)越前多禰(福井県武生市帆山町)の豪族瓜生氏の邸でご誕生。 幼名は行生(ぎょうしょう)と名付けられました。 母の観音信仰は深く、妊娠後には観音を念じて毎日333拝を続けられ、「観音経」を毎日33巻を読誦してお腹のなかの子供の成長を願ったといわれます。 そして、出産の時には「この子が世間の為に役立つものならば無事に生ませていただきたい。 そうでないならばこのまま流産させていただきたい」と祈願されたと伝えられています。 かくして母37歳の時にご誕生されたのが、瑩山禅師でありますからまさしく禅師は観音の授け子とも申されるのであります。 大師は信仰深い母の元で慈愛に満ちて育ちました。 母の信仰深い姿を見て、幼少の頃から宗教心に目覚められ、六歳の頃には出家の志を固められたといわれます。 父母に出家を願い出ますが許されず、絶食をしてその決意の堅さを示し、8才の春4月8日両親の許しを得て永平寺に登って沙弥(雛僧)となりました。 弘安3年2月18日13歳の時、義介禅師のすすめに従い永平寺二世孤雲懐奘禅師について得度授戒し、正式に僧侶となり名前を紹瑾(じょうきん)と改められます。 弘安3(1280)年8月24日老病の身でありました孤雲禅師が83歳で入寂されると、遺命を奉じて再び永平寺三世義介禅師に師事、ひたすら修行に励まれるのです。 けれども、三代相論で騒がしい永平寺での修行環境はふさわしくないとされたのでしょうか、18才になられた大師はそれまでの禅僧にならい、諸国行脚の旅へと旅立たれるのです。 まず、宝慶寺(福井県大野市宝慶寺町)寂円和尚に参じられます。 寂円和尚は道元禅師と共に天童山の如浄禅師に参じられた方で道元禅師を慕って来日された中国僧です。 寂円和尚の指導は厳しかったのですが不退転の決意で仏道修行に励まれるのです。 宝慶寺を辞した大師は京都に上り、万寿寺の東山湛照や、東福寺の白雲慧暁など、臨済宗の密教的禅風を学ばれました。 また比叡山に登って天台の教観を究められ、紀州(三重県)の興国寺の法燈国師覚心に相見し、その禅法に参じられました。 21才の秋、越前に帰り再び宝慶寺の寂円禅師に参じられます。 正応2年の春、永平寺での住職後継にからむ内紛を避けようとの、義介禅師に従い加賀の国 《大乗寺》(金沢市長坂町)に移られます。 大師22歳のある日『法華経』を看読中「法師功徳品」の「父母所生眼、悉見三千界」(父母所生の眼をもって、悉く三千界を見る)の句で仏法の核心にふれられたと伝えられます。 意味するところは、父母が生んでくれた仏眼をもって、この世界のすべてのものを悉く真実の相として達観するということであります。 けれども義介禅師はその禅の境界はなお不十分とたしなめられます。 大師はさらに修行に励まれるのです。 かくして数年を経た永仁2年秋、27才の時、義介禅師の上堂語の「平常心是道」(びょうじょうしんぜどう)の説法を聴き、「道」の本義を了畢されるのです。 瑩山さまはさっそく義介禅師の室に赴かれ「我れ会せり」(仏法がわかった)と申された。 師匠は「汝如何が会すと(どのようにわかったのか)」問われると、瑩山禅師は 「黒漆(こくしつ)の菎崙(こんろん)、夜裏に走る」と。 黒光りする真っ黒いものが真っ暗闇の中を走るようなもので分別無しの絶対の境地であると呈せられましたが、師匠はまだこれを許さずに「未在、更にいえ」(別の言葉で更に申してみよ)と迫られるのです。 分別無しの絶対の境地とは大虚の如く、どこまでも澄み渡っていることです。 この境地を具体的に更に言ってみなさいと問われます。 すると瑩山禅師は 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えられました。 すると徹通義介禅師から「爾、超師の機あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」と言って印可を与えられ、仏の大法を相続されるのです。 28才阿波国(徳島)の郡司に請せられて城満寺に晋住されます。 また、九州肥後(熊本県)川尻の大慈寺寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を訪ねられ道情を温められます。 寒巌義尹禅師は順徳天皇の第三皇子で、道元禅師に参じられ孤雲禅師の法を継がれた禅師さまです。 正安元年(1299)義介禅師の願いもあり加賀に戻られます。 32才のとき義介禅師に嗣法し、法衣を伝授され、大乗寺最初の首座となります。 正安2(1300)年正月から義介禅師に代って、釈尊以後52列祖の機縁の語話を提唱されました。 これが、今日に伝えられる 『伝光録』です。 正安4年 1302 瑩山禅師35歳、義介禅師は自ら退鼓をうち、禅師に大乗第二世の席を譲られるのです。 会下に、明峰素哲(めいほうそてつ)、無涯智洪(むがいちこう)、峨山紹碩(がさんじょうせき)等が参集し、ここに大乗寺は一躍天下の大叢林となりました。 禅師の深い思想をあらわされた 『信心銘拈提』は大乗寺開会中の垂示です。 そして応長元年まで大乗寺などを中心に規矩の充実、接化につとめられ、『坐禅用心記』『三根坐禅説』などを著わされます。 その間加賀(金沢市長土塀)浄住寺を開かれます。 浄住寺は禅師の父の菩提をとむらうため創建されたもので、禅師入山前は母が仏事供養を行じられていた寺であります。 正和元年(1312)信濃の海野三郎滋野信直夫妻、能登中河の地頭酒匂頼基あるいは大乗寺の檀越加賀の藤原家方などが、能登国酒井保の山地および建造物の寄進の縁によりて、大乗寺を明峰素哲に、浄住寺を無涯智洪にゆずって当地に赴き、正和2年(石川県羽咋市) 《洞谷山永光寺》 (とうこくさんようこうじ)を開創するに至ります。 永光寺の命名由来として、禅師は「予は洞山高祖16世の法孫なり。 故に彼の家風を慕う。 山名を洞谷となし、山を改めて谷となすは、曹渓を転じて曹山となすが如し」、また「大陽高祖(大陽警玄)11代の法孫なり。 故に大陽の盈目を慕い永光寺と号す」と「洞谷記」に記される如く、大いに宗風を宣揚されたのであります。 このようにして永光寺は漸次隆昌し、遂に「諸人善根の山、一切功徳の林」といわれるようになりました。 正和3年光孝寺を開かれたころには、瑩山禅師の名声はつとに高まりました。 元応2(1320)年、後醍醐天皇は各宗の高僧碩徳に対し、仏教について諸種の疑滞を下問された。 瑩山禅師の道風頗る明晰、深く御意にかない、勅して紫衣を賜わります。 翌元亨元(1321)年、永光寺を以て、曹洞宗の出世道場に補し、且つ勅願所と定められたという。 翌年檀那金吾朝定の寄進により仏殿が建立され、元亨三年開山堂、元亨四年法堂と、永光寺の伽藍が整いました。 瑩山禅師54歳の頃、総持寺開堂の端夢を感じられ、能登鳳気志郡櫛比庄、行基菩薩が建立された真言律宗諸嶽寺(しょがくじ)の院主定賢律師(じょうけんりっし)の招請によって当地に赴き、律院を改めて諸岳山総持寺(しょがくさんそうじじ)と名付けられました。 禅師の評判は高まり、元亨元年(1321)後醍醐天皇の十種勅問(ちょくもん)に丁寧に答えられ、これにより 《総持寺》の勅額を賜り、翌元亨2年8月28日、日本曹洞紫賜出世道場の論旨を受け、ここに永平寺とともに、総持寺を本寺とする 曹洞宗が公称されるようになったのです。 禅師の道誉益々朝野に普ねく、四方皆その徳風を仰ぐことになるのであります。 その後、長谷部一族の庇護なども加わり、元亨4(1325)年、僧堂が開単され伽藍の規矩がほぼ整います。 そして禅師自ら「総持寺十箇条亀鑑」を制定し、永く法孫の遵守すべき洪範とされたのであります。 総持寺が基本道場としてなしえた同年7月には法席を峨山紹碩に譲って退院し明峰素哲を伴って永光寺に帰山されるのです。 永光寺における晩年は、伽藍を整備するとともに、『能州洞谷山永光禅寺行事之次序』を撰述されます。 これが後に、「洞谷清規」といい、また一般には「瑩山清規」といわれるものです。 一方「洞谷山勤行條文」および『洞谷山尽未来際置文』などを著述し、禅院の日課及び運営にも細い配慮を示されました。 既に仏殿も建立され禅院としての規模もととのえられていましたが、禅師は更に法の象徴としての根本道場たる伝燈院を建立されるのです。 則ち、元亨3年(1323)4月に永光寺の奥に「伝燈院五老峰」の地を選び堂宇を建てられました。 《五老峰》とは、天童如浄禅師、永平道元禅師、孤雲懐奘禅師、徹通義介禅師、そして瑩山紹瑾禅師の祖師堂のことです。 ここに、如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師と瑩山紹瑾禅師自身の嗣書(ししょ 仏法を受け継いだ証明書)を安置されたのであります。 そしてこの年、九年前に亡くなった母懐観大師の為に円通院も建立されます。 本尊は母堂懐観大師の念持仏であった十一面観世音菩薩でありました。 「円通」とは観音菩薩のさとりのことであります。 宗門寺院では参禅が第一義には違いありませんが、在家化導には観音信仰などの信仰を併用することによって信徒の宗教安心と寺門の護持を計られた点もあろうかと思いますし、観音信仰が参禅と比して次元の低いものというものではなく、道元禅師・瑩山禅師の両祖は禅の第一義に基づいた観音観を示されておられるのであります。 瑩山禅師はこれらの規矩を以て門弟の育成、曹洞禅の民衆化、在家の教化などを続けられたのです 総持寺の伽藍造営が進んだ正中元年(1324年)、総持寺住職をもう一人の高弟峨山韶碵に譲り、永光寺に移られます。 翌年(1325)年八月初旬、病をかんじられた禅師は明峰素哲に御住を託し、同月8日永光寺を明峰素哲に譲り晋山上堂せしめられるのです。 そして9月28日、釈尊の、また道元禅師の入滅にならって、諸弟子を集めて最後の教誨を示されるのです。 同月29日、己の刻に垂(なんな)んとして、俄かに鐘を鳴らし、大衆を方丈の妙荘厳院に集めて、示衆し、次で 「自ら耕し、自ら作る閑円地。 幾度か売り来り、買い去って新たなり。 限りなき霊苗種熟脱、法堂鋤を挿む人を見る」と遣偈し、大いなる生涯の幕を閉じられたのであります。 時に世寿58歳でありました。 遺骨は永光寺の他、大乗寺、浄住寺、総持寺の三箇寺に分配されました。 その得法の門人は明峰素哲、無涯智洪、峨山紹碩、壷庵至簡、孤峯覚明、珍山源照等伝戒の弟子は数多おられます。 又、尼弟子は黙譜祖忍、忍戒、金灯恵球、明照等があげられます。 御村上天皇は仏慈禅師の号を賜い、後桃園天皇は「弘徳円明国師」の号を送られ、明治天皇は「常済大師」の号を追認されました。 能登の大本山総持寺は、明治31年(1898)4月13日、大法堂から火災が起こりほとんどが烏有に帰したのです。 直ちに再建の企画がなされるのですが、宗門内部から本山を東京に移すべき誓願が出されました。 明治38年(1905)独住第四世石川素童禅師が小田原の最乗寺から貫首位に着任なされてからは、積極的に大本山移転の建議がなされるのです。 以来、「禍を転じて福と為す」大偉業たる移転遷祖式を行ったのは、明治44年(1911)11月5日のことでありました。 同時に、能登の祖廟を大本山総持寺祖院とし、復興の大業が進められたのであります。 横浜市鶴見にある大本山総持寺は、太祖大師が浄苑を開創されてより、660余年、総持寺が鶴見の地に移転してから70余年の歳月を経ています。 曹洞宗大本山総持寺は福井の大本山永平寺と共に、大本山の偉容をととのえ、太祖大師の法灯を伝え、広く男女・僧俗を選ばず国際禅苑としての巍然たる堂閣を構えています。

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雍正帝

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瑩山禅師の略歴 瑩山禅師の略歴 けいざんぜんじ 大本山総持寺 総門 日本曹洞宗太祖瑩山禅師(1268-1325)《諱(いみな)は紹瑾(じょうきん)》は高祖道元禅師の法孫であります。 鎌倉時代の文永5年(1268)10月8日(陽暦11月21日)越前多禰(福井県武生市帆山町)の豪族瓜生氏の邸でご誕生。 幼名は行生(ぎょうしょう)と名付けられました。 母の観音信仰は深く、妊娠後には観音を念じて毎日333拝を続けられ、「観音経」を毎日33巻を読誦してお腹のなかの子供の成長を願ったといわれます。 そして、出産の時には「この子が世間の為に役立つものならば無事に生ませていただきたい。 そうでないならばこのまま流産させていただきたい」と祈願されたと伝えられています。 かくして母37歳の時にご誕生されたのが、瑩山禅師でありますからまさしく禅師は観音の授け子とも申されるのであります。 大師は信仰深い母の元で慈愛に満ちて育ちました。 母の信仰深い姿を見て、幼少の頃から宗教心に目覚められ、六歳の頃には出家の志を固められたといわれます。 父母に出家を願い出ますが許されず、絶食をしてその決意の堅さを示し、8才の春4月8日両親の許しを得て永平寺に登って沙弥(雛僧)となりました。 弘安3年2月18日13歳の時、義介禅師のすすめに従い永平寺二世孤雲懐奘禅師について得度授戒し、正式に僧侶となり名前を紹瑾(じょうきん)と改められます。 弘安3(1280)年8月24日老病の身でありました孤雲禅師が83歳で入寂されると、遺命を奉じて再び永平寺三世義介禅師に師事、ひたすら修行に励まれるのです。 けれども、三代相論で騒がしい永平寺での修行環境はふさわしくないとされたのでしょうか、18才になられた大師はそれまでの禅僧にならい、諸国行脚の旅へと旅立たれるのです。 まず、宝慶寺(福井県大野市宝慶寺町)寂円和尚に参じられます。 寂円和尚は道元禅師と共に天童山の如浄禅師に参じられた方で道元禅師を慕って来日された中国僧です。 寂円和尚の指導は厳しかったのですが不退転の決意で仏道修行に励まれるのです。 宝慶寺を辞した大師は京都に上り、万寿寺の東山湛照や、東福寺の白雲慧暁など、臨済宗の密教的禅風を学ばれました。 また比叡山に登って天台の教観を究められ、紀州(三重県)の興国寺の法燈国師覚心に相見し、その禅法に参じられました。 21才の秋、越前に帰り再び宝慶寺の寂円禅師に参じられます。 正応2年の春、永平寺での住職後継にからむ内紛を避けようとの、義介禅師に従い加賀の国 《大乗寺》(金沢市長坂町)に移られます。 大師22歳のある日『法華経』を看読中「法師功徳品」の「父母所生眼、悉見三千界」(父母所生の眼をもって、悉く三千界を見る)の句で仏法の核心にふれられたと伝えられます。 意味するところは、父母が生んでくれた仏眼をもって、この世界のすべてのものを悉く真実の相として達観するということであります。 けれども義介禅師はその禅の境界はなお不十分とたしなめられます。 大師はさらに修行に励まれるのです。 かくして数年を経た永仁2年秋、27才の時、義介禅師の上堂語の「平常心是道」(びょうじょうしんぜどう)の説法を聴き、「道」の本義を了畢されるのです。 瑩山さまはさっそく義介禅師の室に赴かれ「我れ会せり」(仏法がわかった)と申された。 師匠は「汝如何が会すと(どのようにわかったのか)」問われると、瑩山禅師は 「黒漆(こくしつ)の菎崙(こんろん)、夜裏に走る」と。 黒光りする真っ黒いものが真っ暗闇の中を走るようなもので分別無しの絶対の境地であると呈せられましたが、師匠はまだこれを許さずに「未在、更にいえ」(別の言葉で更に申してみよ)と迫られるのです。 分別無しの絶対の境地とは大虚の如く、どこまでも澄み渡っていることです。 この境地を具体的に更に言ってみなさいと問われます。 すると瑩山禅師は 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えられました。 すると徹通義介禅師から「爾、超師の機あり、よろしく永平の宗旨を興すべし」と言って印可を与えられ、仏の大法を相続されるのです。 28才阿波国(徳島)の郡司に請せられて城満寺に晋住されます。 また、九州肥後(熊本県)川尻の大慈寺寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を訪ねられ道情を温められます。 寒巌義尹禅師は順徳天皇の第三皇子で、道元禅師に参じられ孤雲禅師の法を継がれた禅師さまです。 正安元年(1299)義介禅師の願いもあり加賀に戻られます。 32才のとき義介禅師に嗣法し、法衣を伝授され、大乗寺最初の首座となります。 正安2(1300)年正月から義介禅師に代って、釈尊以後52列祖の機縁の語話を提唱されました。 これが、今日に伝えられる 『伝光録』です。 正安4年 1302 瑩山禅師35歳、義介禅師は自ら退鼓をうち、禅師に大乗第二世の席を譲られるのです。 会下に、明峰素哲(めいほうそてつ)、無涯智洪(むがいちこう)、峨山紹碩(がさんじょうせき)等が参集し、ここに大乗寺は一躍天下の大叢林となりました。 禅師の深い思想をあらわされた 『信心銘拈提』は大乗寺開会中の垂示です。 そして応長元年まで大乗寺などを中心に規矩の充実、接化につとめられ、『坐禅用心記』『三根坐禅説』などを著わされます。 その間加賀(金沢市長土塀)浄住寺を開かれます。 浄住寺は禅師の父の菩提をとむらうため創建されたもので、禅師入山前は母が仏事供養を行じられていた寺であります。 正和元年(1312)信濃の海野三郎滋野信直夫妻、能登中河の地頭酒匂頼基あるいは大乗寺の檀越加賀の藤原家方などが、能登国酒井保の山地および建造物の寄進の縁によりて、大乗寺を明峰素哲に、浄住寺を無涯智洪にゆずって当地に赴き、正和2年(石川県羽咋市) 《洞谷山永光寺》 (とうこくさんようこうじ)を開創するに至ります。 永光寺の命名由来として、禅師は「予は洞山高祖16世の法孫なり。 故に彼の家風を慕う。 山名を洞谷となし、山を改めて谷となすは、曹渓を転じて曹山となすが如し」、また「大陽高祖(大陽警玄)11代の法孫なり。 故に大陽の盈目を慕い永光寺と号す」と「洞谷記」に記される如く、大いに宗風を宣揚されたのであります。 このようにして永光寺は漸次隆昌し、遂に「諸人善根の山、一切功徳の林」といわれるようになりました。 正和3年光孝寺を開かれたころには、瑩山禅師の名声はつとに高まりました。 元応2(1320)年、後醍醐天皇は各宗の高僧碩徳に対し、仏教について諸種の疑滞を下問された。 瑩山禅師の道風頗る明晰、深く御意にかない、勅して紫衣を賜わります。 翌元亨元(1321)年、永光寺を以て、曹洞宗の出世道場に補し、且つ勅願所と定められたという。 翌年檀那金吾朝定の寄進により仏殿が建立され、元亨三年開山堂、元亨四年法堂と、永光寺の伽藍が整いました。 瑩山禅師54歳の頃、総持寺開堂の端夢を感じられ、能登鳳気志郡櫛比庄、行基菩薩が建立された真言律宗諸嶽寺(しょがくじ)の院主定賢律師(じょうけんりっし)の招請によって当地に赴き、律院を改めて諸岳山総持寺(しょがくさんそうじじ)と名付けられました。 禅師の評判は高まり、元亨元年(1321)後醍醐天皇の十種勅問(ちょくもん)に丁寧に答えられ、これにより 《総持寺》の勅額を賜り、翌元亨2年8月28日、日本曹洞紫賜出世道場の論旨を受け、ここに永平寺とともに、総持寺を本寺とする 曹洞宗が公称されるようになったのです。 禅師の道誉益々朝野に普ねく、四方皆その徳風を仰ぐことになるのであります。 その後、長谷部一族の庇護なども加わり、元亨4(1325)年、僧堂が開単され伽藍の規矩がほぼ整います。 そして禅師自ら「総持寺十箇条亀鑑」を制定し、永く法孫の遵守すべき洪範とされたのであります。 総持寺が基本道場としてなしえた同年7月には法席を峨山紹碩に譲って退院し明峰素哲を伴って永光寺に帰山されるのです。 永光寺における晩年は、伽藍を整備するとともに、『能州洞谷山永光禅寺行事之次序』を撰述されます。 これが後に、「洞谷清規」といい、また一般には「瑩山清規」といわれるものです。 一方「洞谷山勤行條文」および『洞谷山尽未来際置文』などを著述し、禅院の日課及び運営にも細い配慮を示されました。 既に仏殿も建立され禅院としての規模もととのえられていましたが、禅師は更に法の象徴としての根本道場たる伝燈院を建立されるのです。 則ち、元亨3年(1323)4月に永光寺の奥に「伝燈院五老峰」の地を選び堂宇を建てられました。 《五老峰》とは、天童如浄禅師、永平道元禅師、孤雲懐奘禅師、徹通義介禅師、そして瑩山紹瑾禅師の祖師堂のことです。 ここに、如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師と瑩山紹瑾禅師自身の嗣書(ししょ 仏法を受け継いだ証明書)を安置されたのであります。 そしてこの年、九年前に亡くなった母懐観大師の為に円通院も建立されます。 本尊は母堂懐観大師の念持仏であった十一面観世音菩薩でありました。 「円通」とは観音菩薩のさとりのことであります。 宗門寺院では参禅が第一義には違いありませんが、在家化導には観音信仰などの信仰を併用することによって信徒の宗教安心と寺門の護持を計られた点もあろうかと思いますし、観音信仰が参禅と比して次元の低いものというものではなく、道元禅師・瑩山禅師の両祖は禅の第一義に基づいた観音観を示されておられるのであります。 瑩山禅師はこれらの規矩を以て門弟の育成、曹洞禅の民衆化、在家の教化などを続けられたのです 総持寺の伽藍造営が進んだ正中元年(1324年)、総持寺住職をもう一人の高弟峨山韶碵に譲り、永光寺に移られます。 翌年(1325)年八月初旬、病をかんじられた禅師は明峰素哲に御住を託し、同月8日永光寺を明峰素哲に譲り晋山上堂せしめられるのです。 そして9月28日、釈尊の、また道元禅師の入滅にならって、諸弟子を集めて最後の教誨を示されるのです。 同月29日、己の刻に垂(なんな)んとして、俄かに鐘を鳴らし、大衆を方丈の妙荘厳院に集めて、示衆し、次で 「自ら耕し、自ら作る閑円地。 幾度か売り来り、買い去って新たなり。 限りなき霊苗種熟脱、法堂鋤を挿む人を見る」と遣偈し、大いなる生涯の幕を閉じられたのであります。 時に世寿58歳でありました。 遺骨は永光寺の他、大乗寺、浄住寺、総持寺の三箇寺に分配されました。 その得法の門人は明峰素哲、無涯智洪、峨山紹碩、壷庵至簡、孤峯覚明、珍山源照等伝戒の弟子は数多おられます。 又、尼弟子は黙譜祖忍、忍戒、金灯恵球、明照等があげられます。 御村上天皇は仏慈禅師の号を賜い、後桃園天皇は「弘徳円明国師」の号を送られ、明治天皇は「常済大師」の号を追認されました。 能登の大本山総持寺は、明治31年(1898)4月13日、大法堂から火災が起こりほとんどが烏有に帰したのです。 直ちに再建の企画がなされるのですが、宗門内部から本山を東京に移すべき誓願が出されました。 明治38年(1905)独住第四世石川素童禅師が小田原の最乗寺から貫首位に着任なされてからは、積極的に大本山移転の建議がなされるのです。 以来、「禍を転じて福と為す」大偉業たる移転遷祖式を行ったのは、明治44年(1911)11月5日のことでありました。 同時に、能登の祖廟を大本山総持寺祖院とし、復興の大業が進められたのであります。 横浜市鶴見にある大本山総持寺は、太祖大師が浄苑を開創されてより、660余年、総持寺が鶴見の地に移転してから70余年の歳月を経ています。 曹洞宗大本山総持寺は福井の大本山永平寺と共に、大本山の偉容をととのえ、太祖大師の法灯を伝え、広く男女・僧俗を選ばず国際禅苑としての巍然たる堂閣を構えています。

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