明智 光秀 帰 蝶 いとこ。 濃姫

#信長協奏曲 #明智光秀 蝶の羽を掴む者

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

この記事を短く言うと 1,「帰蝶(きちょう)」・・・別名「濃姫」または「鷺山殿」は、「織田信長」の正妻・正室であり、戦国大名「斎藤道三」の娘であり、さらには「斎藤義龍」の異母妹にあたる 2,「帰蝶」とは、あくまでも江戸時代の資料によるもので、本当に「帰蝶」という名前だったかどうか、はっきりしていない。 「濃姫」とは「美濃国から来たお姫様」という意味で、「鷺山殿」とは、斎藤道三が隠居していた「鷺山城」から嫁いできた姫という意味。 3,「帰蝶」がどのような最期をむかえたのかは、わかっていない。 ただ、夫「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた30年後に亡くなった、という説がもっとも有力なのではないか 4,「帰蝶」と「織田信長」・・・2人が仲睦まじい関係であった可能性は、残念ながら、極めて低いと考えられる・・・。 《織田信長》 「引用元より」 また、戦国大名「斎藤道三」の娘であり、「斎藤義龍」の異母妹にもあたります。 この「帰蝶」という女性は、のちに数奇な運命をたどることになります。 実は、帰蝶が織田信長と結婚した数年後、父「斎藤道三」が、帰蝶の異母兄「斎藤義龍」に討たれているのです。 そのため帰蝶は、実家である「美濃国」を支配した異母兄「斎藤義龍」を、父の仇として激しく敵対することになります。 信長は、帰蝶を通じて「斎藤道三」の義理の息子という立場を最大限に活用します。 なんと信長は、美濃国の支配権は、「斎藤義龍」ではなくて、道三の義理の息子である自分にあると主張したのです。 信長は、義父「斎藤道三」が亡くなった11年後の【1567年】に、美濃国の侵略に成功。 妻「帰蝶」の故郷を取り返すことに成功しているのです。 「濃姫」という名前の「読み方と意味」を解説 帰蝶と呼ばれる「織田信長の正室」について、実は正式名称はわかっていません。 「帰蝶」という名前も、本当にそのような名前であったのか、はっきりしていないのです。 「濃姫」と呼ばれたということですが、それは彼女が「美濃国から嫁いできた」という意味で、「美濃」の「濃」の一字をとって「濃姫」と呼んだに過ぎません。 日本では、「その人が住んでいる地名」で呼ぶ風習があります。 「鎌倉」という地に住んでいた「源頼朝」を「鎌倉殿」と呼び、中央のお館に住んでいた「織田信長」「武田信玄」を「お館様」と呼んでいたようなものです。 とはいえ、やはり「帰蝶」という名前が正式名称なのかどうか、わかりません。 「蝶となって帰る」・・・・とても素敵なお名前なので、正式名称であってほしいと思います。 帰蝶(濃姫)はかわいいの?美人だったのかどうかを考察 帰蝶は美しい女性だったのでしょうか? 残念なお知らせがあります・・・。 あくまでも推測でしかありませんが、現実的に考えて、美女であった可能性は低いのではないでしょうか。 あとで解説しますが、信長と帰蝶の関係は、それほど良かったとは思えません。 美しい人ならば、信長の寵愛を受けていたはず。 「戦国一の美女」と呼ばれた織田信長の妹「お市の方」は、夫「浅井長政」から深く愛されました。 「お市の方」の娘で、母の美しさを受け継いだであろう長女「茶々」と、三女「江」は、それぞれ「豊臣秀吉」と「徳川秀忠」という最高権力者に、とても愛されました。 (次女「初」は、夫「京極高次」との間に子供ができませんでした。 もしかすると、「初」は父「浅井長政」に似たのかもしれません。 ) 「帰蝶」・・・・それほど美女ではなかった・・・のではないでしょうか。 帰蝶の最後とは?その死は謎に包まれていた 帰蝶の最期は、ハッキリとはわかっていません。 若くして亡くなった• 「本能寺の変」で信長とともに亡くなった• 信長の死後30年目に亡くなった など諸説あります。 まず、「若くして亡くなった」という説についてです。 これは【 1567年】に、信長が「美濃国」を攻め落とす前に、病死したという説です。 次に、「本能寺の変」で信長とともに亡くなった、という説。 これは、歴史資料には一つたりとも、そのことを記した物がなく、あくまで民間伝承なので、信憑性が乏しいです。 最期に「信長の死後、30年目にあたる【 1612年】に亡くなった」という説です。 これは、記録に残っている「安土殿」と呼ばれた女性が、「帰蝶」のことなのではないか・・・というもの。 この「安土殿」が帰蝶なら、彼女は「78歳」まで生きたことになります。 「帰蝶」に関しては、あまりにも謎が多く、名前もハッキリしていません。 「帰蝶」「濃姫」「鷺山殿」などなど。 どれが彼女のことを指しているのか、それすらもハッキリわかっていない状況です。 なんと、「信長から離婚されてしまった」なんて説もあるほどです。 筆者個人の意見としては、「1612年まで生きていた説」が、もっとも可能性が高いのではないか、と思っています。 「本能寺の変」のあと、その後「帰蝶」はどうなった? 「本能寺の変」のあとも、帰蝶が生きていたと仮定するなら、彼女はどのように過ごしていたのでしょうか? 「安土殿」と呼ばれた女性を「帰蝶」と考えるなら、帰蝶は信長の次男「織田信雄」のもとで生活していたようです。 豊臣秀吉は、「織田信長」の三男「信孝」を死に追いやっています。 信長の嫡男で帰蝶の養子になったと言われている「信忠」は、「本能寺の変」で亡くなっています。 そのため、世話になれるのは「信雄」しかいなかったのでしょう。 彼女は【1587年】の時点で、「織田信雄」の家族の中でも、「信長の生母・土田御前」より高い待遇を受けています。 おそらく信雄のもとで、夫「信長」の供養を続ける、穏やかな生活をしていたのでしょう。 本徳寺所蔵の明智光秀肖像:よりパブリックドメイン しかし、明智光秀については、その出自がハッキリしていないため、この説も正しいとは言い切れません。 実は「赤の他人」なんて可能性もあるのです。 ただ、通説によると、主君の「斎藤道三」が亡くなったあと、「明智光秀」は居城「明智城」を「斎藤義龍」に攻められて、美濃国から脱出。 そのあと光秀は、越前国で「足利義昭」「細川藤孝」と出会い、帰蝶との関係を頼りに、「織田信長」と「足利義昭」の間を仲介。 信長を味方にすることに成功した光秀は、信長に「京都への進軍(上洛)」をさせて、「足利義昭」「細川藤孝」とともに京都へ。 そこで、「信長の家来」として、「京都支配の仕事」を任されたと考えられています。 光秀は、信長からとてつもない信頼を勝ち取っています。 信長に仕えてから、わずか3年で、織田家臣団の全員を出世レースで追い抜き「城主」になっています(このとき築城したのが坂本城)。 何者かの仲介があったとすれば、この「出世スピードの速さ」も納得できます。 明智光秀は、信長の正妻「帰蝶」という、強力な後ろ盾を持っていたのではないでしょうか。 帰蝶が後ろ盾となったのは、もちろん2人が「いとこ同士」だったから。 帰蝶(濃姫)の生涯年表 帰蝶については、わかっていないことも多いので、ハッキリした年表は書けません。 しかし、「1612年」に亡くなったと仮定して、簡単な年表を書いてみたいと思います。 【 1535年】(帰蝶1歳) 「帰蝶」誕生。 母は「明智光秀」の叔母という説のある「小見の方」 父は戦国武将「斎藤道三」 【 1548年】(14歳) 「斎藤道三」が家督を「斎藤義龍」にゆずり、隠居 【 1549年】(15歳) 「織田信長」と結婚。 【 1553年】(19歳) 「織田信長」と「斎藤道三」が「正徳寺(聖徳寺)」で会見 「斎藤道三」が、ある予言を残す 【 1556年】(22歳) 「長良川の戦い」で「斎藤道三」が「斎藤義龍」に討たれる 【 1560年】(26歳) 「桶狭間の戦い」で「今川義元」戦死 【 1561年】(27歳) 「斎藤義龍」が病死。 息子「斎藤龍興」が家督を継承。 【 1567年】(33歳) 「織田信長」が「稲葉山城」攻略に成功。 「帰蝶」が18年ぶりに故郷「美濃国」へ帰還 【 1568年】(34歳) 「明智光秀」が、「足利義昭」と「織田信長」を仲介し、信長が京都へ進軍(上洛) おそらくこのとき、「明智光秀」と「帰蝶」は再会したのだろう 【 1570年】(36歳) 「石山戦争」勃発 「姉川の戦い」 【 1573年】(39歳) 「浅井長政」戦死 【 1575年】(41歳) 「長篠の戦い」 【 1579年】(45歳) 「安土城」天主閣が完成し、織田信長がここへ移り住む おそらく「帰蝶」もこのとき「安土城」へ移動したと考えられる 【 1580年】(46歳) 「織田信長」と」本願寺顕如」による「石山戦争」終結 【 1582年】(48歳) 「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれる 「山崎の戦い」で「明智光秀」が「羽柴秀吉」に敗北し、戦死 【 1583年】(49歳) 「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」と「お市の方」が死去 直後に「織田信孝」切腹 【 1590年】(56歳) 「小田原征伐」で「北条氏政」「北条氏直」「伊達政宗」が「豊臣秀吉」に降伏。 「秀吉」が天下統一 【 1592年】(58歳) 「朝鮮出兵・文禄の役」 【 1597年】(63歳) 「朝鮮出兵・慶長の役」 【 1598年】(64歳) 「豊臣秀吉」死去 【 1600年】(66歳) 「関ヶ原の戦い」 【 1603年】(69歳) 「徳川家康」が征夷大将軍に就任 「江戸幕府」が成立 【 1605年】(71歳) 「徳川秀忠」が二代将軍に就任 【 1611年】(77歳) 「豊臣秀頼」と「徳川家康」が二条城で会見 このとき、「徳川家康」と「豊臣秀頼」の主従関係が逆転した、という説がある 【 1612年】(78歳) 「帰蝶」死去。 こうしてみると、帰蝶は夫「信長」が亡くなったあと、織田家の衰退を間近で見続けたことになります。 その余生は、悲しいものだったのかもしれません。 信長と帰蝶は仲睦まじい関係・・・だったのか? 信長と帰蝶は、仲睦まじい関係だったのでしょうか? その可能性は、悲しいかな、低いと言わざるを得ません。 理由は簡単です。 2人の間に子供が誕生していないから。 おしどり夫婦として有名な「浅井長政」と妻「お市の方」には、諸説あるものの「3人の娘」が生まれています。 同じく、仲の良い夫婦だった「前田利常」と、その妻「お珠」の間にも、「3男5女」もの子供が生まれています。 (「お珠」は15歳から、亡くなる25歳まで、ほぼ毎年出産している) それに対して、帰蝶は一人も子供がいません。 もちろん、帰蝶は子供が出来にくい体質だった可能性はあります。 信長には、側室との間に数多くの子供がいますので、信長に問題があるわけではないのです。 残念ですが、2人の夫婦仲について、それほど良くはなかった可能性が、極めて高いと思います。 《撫子紋・なでしこもん》 「引用元より」 しかし、帰蝶の父「斎藤道三」は、自ら描いた家紋「二頭波文」を使用していたのです。 帰蝶も、織田家に嫁ぐまでは、この「撫子紋」と「二頭波文」を使っていたのでしょう。 ですが、「織田家」に嫁いだ後は、織田家の「木瓜紋」を使っていたと思います。 大河ドラマ「麒麟がくる」で、帰蝶は「蝶の紋章」が刻まれた着物を愛用しています。 おそらくこの「蝶の着物」は、ドラマオリジナル・・・。 史実の帰蝶が「蝶」の紋章を利用した可能性は乏しいと思います。 全く関係ないかもしれませんが、「平氏」一族の家紋に「揚羽蝶」というものがあります。 織田家は「平氏」を名乗っているので、帰蝶は信長に嫁いだあと、この「揚羽蝶」の紋をつかったかもしれませんね。 『帰蝶(濃姫)』について「ひとこと」いいたい 帰蝶・・・。 その存在感は、史実においては、残念ながら薄いと言わざるを得ません。 しかし、その「存在価値」は、極めて高かったと言えます。 「帰蝶」は美濃国の支配者「斎藤道三」の愛娘です。 そして「斎藤道三」から家督を継承した帰蝶の義兄「斎藤義龍」は、道三の子ではなく美濃国守護「土岐頼芸(とき よりのり)」の息子であると自称していたのです。 美濃国の守護「土岐頼芸」の息子であることを理由に、「美濃国の支配権」を主張する「斎藤義龍」。 それに対して、「帰蝶」を通じて「斎藤道三」の義理の息子であることと、道三が残してくれた「美濃国を信長にゆずる」と書かれた「国譲り状」という遺言書を理由に「美濃国の支配権」を主張した「織田信長。 信長にとって帰蝶は、天下統一の基盤となる美濃国を支配するために、なくてはならない存在だったのです。 帰蝶・・・・。 彼女は美濃から信長に嫁いだ18年後に、故郷「美濃国」へ帰還。 そして「明智光秀」と再会を果たすことになります。 この後、美濃国の支配権は、信長から帰蝶の養子「織田信忠」へと継承されます。 このときも、帰蝶は「織田信忠」の養母として、「信忠による美濃国支配権」の強力な後ろ盾となったのです。 1,「帰蝶(きちょう)」こと、別名「濃姫」または「鷺山殿」は、「織田信長」の正妻。 「斎藤道三」の娘であり、「斎藤義龍」の異母妹にあたる 2,彼女が本当に「帰蝶」という名前だったかどうか、はっきりしていない。 「濃姫」とは「美濃国から来たお姫様」という意味で、「鷺山殿」とは、斎藤道三が隠居していた「鷺山城」から嫁いできた姫という意味。 本名はいまだにわかっていない。 3,「帰蝶」の最期は、今もわかっていない。 ただ、夫「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた30年後の【1612年】に亡くなった、という説が、最も可能性が高い気がする。 4,「帰蝶」と「織田信長」・・・2人が仲睦まじい関係であった可能性は、極めて低いと思う 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。 よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。 ありがとうございました。

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織田信長の妻は年上が多かった!意外に甘えん坊だった?信長

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

最近、わかってきた説としては、 に嫁ぐ前に、一度、別の武将と結婚していたとされる。 1544年に、斎藤道三と が和睦した際の条件の一つに、帰蝶が織田信長に輿入れすると言う項目がある。 しかし、実際に嫁いだのは1548年であるため、恐らくはまだ11歳前後だった帰蝶がまだ幼いと言う事で、すぐに結婚と言う事にはならなかったものと推測される。 その後、斎藤道三が、越前の とも和睦すると、美濃守護は、 が就任すると言う事になり、その約束を守る担保として、このとき、斎藤道三の娘が、土岐頼純に輿入れしたとある。 この娘の名は不明だが、主筋である土岐家の当主への輿入れであることから、斎藤道三の正室が産んだ、唯一の娘である、濃姫 帰蝶 が嫁いだとする説が出てきた。 これが正しければ、織田家に嫁ぐと言う約束は反故になった訳だが、夫の土岐頼純は、1547年に24歳で死去した。 が落城した際に討死したとも、斎藤道三に暗殺されたともされている。 いずれにしろ、斎藤道三の娘 濃姫? は、夫が亡くなったことで、実家に戻ったものと考えられる。 その後、織田信長の守役でもある、 の功もあり、帰蝶 13歳? は1548年の秋に、織田信秀の嫡男・織田信長に嫁いだ。 下記は清洲公園にある織田信長・濃姫像となる。 なお、2人の間には子ができなかったとされる。 斎藤家の菩提寺・に父・斎藤道三の肖像を寄進した事は、良く知られているが、濃姫が織田家に嫁つぐ際「織田信長が、まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ」と言う話は江戸時代に創作された物と推定できる。 テレビドラマや小説などでは、度々登場する濃姫だが、結婚後の生涯は謎に包まれており不明な点が多く、織田信長が で明智光秀に敗れた後も、動向や没年など、良く分かっておらず、濃姫の墓所、墓石も特定されていない。 その為、 の変で、薙刀で明智勢に抵抗して討死したとする説もある。 織田信長のことが多数記載されている「 」でも、濃姫の事に関しては全く書かれていない。 本能寺の変の直後、蒲生賢秀が から、織田信長の子女・側室達を日野城に避難させたが、その中に「安土殿」と言う名が見え、その人物が濃姫だとする説もあり、 分限帳に「六百貫文 アツチ殿」と言う記述も見られる事から、本能寺の変のあとも生存していたと推測される。 没年の説は下記の通り。 斎藤義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫も死亡とも。 濃陽諸士伝記にそのような記述がある。 1556年とも? いくつかの史料で の事を「御台」という正室の呼び名で記している事から、 が誕生した時にはすでに濃姫 のうひめ は織田信長の側を離れていたとする。 そして、斎藤道三が斎藤義龍に敗れて1556年に亡くなると、織田家としては斎藤家の同盟も意味がなくなったことから、濃姫は母・小見の方の実家である、 の のところに戻されたと言う話もある。 このとき、明智氏は、斎藤道三に味方していたため、斎藤義龍は敵とみなして、揖斐光就・ ら3700の軍勢を送った。 明智光安 明智宗宿 、 、一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870名が籠城した。 しかし、明智光安は、明智光秀に明智家再興を託して、弟・明智光久と自刃し、妻や妾も落城前に自刃したと言う。 この時、明智家に返されていた22歳の濃姫も、明智一族と運命を共にしたともされる。 本能寺の変でなくなったとする場合とその理由は、濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜県不動町 下 にあるためで、その場合、濃姫の年齢はおよそ47歳。 1612年説では、大徳寺総見院の織田家墓所の織田家過去帳にある「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」から。 およそ77歳。 実際の墓石に記された文字は解読不能 ただし、上記史料ではいずれも「御台」などと言う表現で、その御台が濃姫だと示す証拠はない為、正確な没年がわからないのである。 このように、濃姫 帰蝶 は、織田信長の正室と言う、とても有名な立場でありながら、わからないことがスゴク多い。 どんな武家でも、正室との間に男子が欲しいのに、織田信長との間には、娘すらいなかったとされるのを考慮すると、子供とも言える12歳ころから、政略結婚に振り回されて、夫 土岐頼純 が暗殺され、悲しみも癒えない間に、織田家にイヤイヤ、泣きながら嫁いだのではないかと感じてしまう。 そのため、織田家では、引きこもりではないが、目だった行動もなく、表に出ることもなかったため、ほとんど、史料にも、お濃の方に関する記載がないのではないだろうか? もっとも、若い段階で亡くなっていたら、その分、史料も少ないので、明智一族と運命を共にした可能性も捨てきれない。 実は、思っている以上に、大変不幸な女性だったのかも知れない?と考えると、お濃の方が不憫でならない。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、帰蝶 濃姫 を、女優の川口春奈さんが演じられます。 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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#戦国BASARA #濃姫 私の蜜(光)は(帰)蝶のもの

明智 光秀 帰 蝶 いとこ

「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三の娘で明智光秀の従妹、織田信長の正室・帰蝶 濃姫。 その生涯を大胆な推理を交えて描いた衝撃作である。 資料の少なさゆえに、これまであまり描かれてこなかった姫の生涯に、諸田さんはいま、なぜ挑んだのか。 男性作家が書かれたものは、女性の描き方が画一的だなと感じていたので、女性の気持ちに寄り添った永井さんや杉本さんの小説がとても新鮮に思えたんです。 歴史そのものを描くのではなく、歴史を素材にした人間ドラマを描いていらしたので、私もそこを目指そうと。 本当にそうなのかと疑問に思って調べてみたら、悪女のイメージは、江戸時代の文献をもとにできあがっていることがわかりました。 名誉を回復してあげなくてはと、義憤に駆られて書くことにしたんです。 諸田 小督は、信長・秀吉・家康、天下人3人の身内なんです。 信長は母・お市の兄、秀吉は姉・茶々の夫、家康は舅にあたるのですが、この3人とかかわりを持ちながら、戦国の世を生き抜いたところに魅かれました。 幼い頃に母を失い、過酷な人生を生きたのに、最後は幸せをつかみとった。 悲劇的な最期を遂げる女性ばかりに人気が集まっていますが、小督のようにたくましく生きた女性のことも知ってほしかったんです。 諸田 江戸時代は、初期や幕末を除き、人々が命の危険にさらされることはありませんでした。 ですので、安定した時代ならではの、ぬくもりに満ちた物語が書けるんです。 一方、戦国時代は、みなが明日死ぬかもしれないという、ぎりぎりのところで生きています。 追い詰められたときどう生きるかといった切実なテーマは、戦国を舞台にしないと書けないんですね。 諸田 乱世は、1年経ったら状況ががらりと変わるので、資料も断片的なものしか残っていません。 でも、だからこそ、小説にしかできない、想像の余地がある。 もしかしたら本を出した後に新しい史料が見つかって、歴史ががらりと変わるかもしれない。 でもそんなことにとらわれていたら怖くて書けないので、その時点で想像力を働かせて書けばいいのだと思います。 小説は生き物なので、作家は、10年後にまた別の小説が書けるかもしれない、と思って取り組めばいいのではないでしょうか。

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